名将言行録 / 『名将言行録』黒田長政 借りた鑓と父不在の先陣
○孝高、糟屋助右衞門武則を呼びて、貴殿は年も若からず、先年の大功もあれば、悴長政に萬事心付を頼入る由申す。武則不肖の某に、過分至極の仰なり、但し賤ヶ嶽の武功は天下の知る所なれば、今更謙退する儀にてもなしと言て、其時の持鑓を進ずべしとて、則ち取寄せ長政に渡しければ、長政心底は、父の命なれども、糟屋が七本鑓程のことは、我必ず爲すべしと思ひ、鑓を手に取らざる前に、昔より鑓を仕るに、師範を取て功を成すを聞かずと言ひければ、武則此一言にては、鑓も早や成りたり大功の程知れ候と感じけり。 ○長政、後藤又兵衞基次とは主從にてありながら、常に武勇を爭ひ、直先掛けて進みける故に、從士等歸陣して後に、始めて生きたる心地すると言ふ。粟山備後守、井上周防守、黒田美作守等之を諫む。長政聞て、父のおはさぬ時は、悴忠之を先手へ出し、我大將の威を立て、重々敷旗本に控ゆべし、今父おはせし故に、旗本に氣遣ひなし、我先手へ出、戰死するとも、父のおはせば、少しも氣遣ふべからずと言はれけり。
新字:○孝高、糟屋助右衛門武則を呼びて、貴殿は年も若からず、先年の大功もあれば、悴長政に万事心付を頼入る由申す。武則不肖の某に、過分至極の仰なり、但し賤ヶ嶽の武功は天下の知る所なれば、今更謙退する儀にてもなしと言て、其時の持鑓を進ずべしとて、則ち取寄せ長政に渡しければ、長政心底は、父の命なれども、糟屋が七本鑓程のことは、我必ず為すべしと思ひ、鑓を手に取らざる前に、昔より鑓を仕るに、師範を取て功を成すを聞かずと言ひければ、武則此一言にては、鑓も早や成りたり大功の程知れ候と感じけり。 ○長政、後藤又兵衛基次とは主従にてありながら、常に武勇を争ひ、直先掛けて進みける故に、従士等帰陣して後に、始めて生きたる心地すると言ふ。粟山備後守、井上周防守、黒田美作守等之を諫む。長政聞て、父のおはさぬ時は、悴忠之を先手へ出し、我大将の威を立て、重々敷旗本に控ゆべし、今父おはせし故に、旗本に気遣ひなし、我先手へ出、戦死するとも、父のおはせば、少しも気遣ふべからずと言はれけり。
書き下し
○孝高、糟屋助右衞門武則を呼びて、貴殿は年も若からず、先年の大功もあれば、悴長政に萬事心付を頼入る由申す。武則不肖の某に、過分至極の仰なり、但し賤ヶ嶽の武功は天下の知る所なれば、今更謙退する儀にてもなしと言て、其時の持鑓を進ずべしとて、則ち取寄せ長政に渡しければ、長政心底は、父の命なれども、糟屋が七本鑓程のことは、我必ず爲すべしと思ひ、鑓を手に取らざる前に、昔より鑓を仕るに、師範を取て功を成すを聞かずと言ひければ、武則此一言にては、鑓も早や成りたり大功の程知れ候と感じけり。 ○長政、後藤又兵衞基次とは主從にてありながら、常に武勇を爭ひ、直先掛けて進みける故に、從士等歸陣して後に、始めて生きたる心地すると言ふ。粟山備後守、井上周防守、黒田美作守等之を諫む。長政聞て、父のおはさぬ時は、悴忠之を先手へ出し、我大將の威を立て、重々敷旗本に控ゆべし、今父おはせし故に、旗本に氣遣ひなし、我先手へ出、戰死するとも、父のおはせば、少しも氣遣ふべからずと言はれけり。
現代語訳
孝高は、糟屋助右衛門武則を呼んで、「貴殿は年も若くなく、先年の大功もあるので、せがれ長政に万事、気を付けてやってくれるよう頼み入る」と言いました。武則は「不肖の私に、過分至極のお言葉です。ただし、賤ヶ岳の武功は天下の知るところですから、今さら謙遜することでもありません」と言い、その時の持ち鑓を進呈しようと、すぐ取り寄せて長政に渡しました。長政は心中、「父の命とはいえ、糟屋の七本鑓ほどのことは、自分も必ずやってみせる」と思い、鑓を手に取る前に、「昔から鑓を使うのに、師範を取って功を成したというのは聞かない」と言いました。武則はこの一言で、「鑓はすでに成ったも同然だ。大功の程が知れる」と感心しました。 ○長政は、後藤又兵衛基次とは主従でありながら、常に武勇を争い、まっ先に駆けて進んだので、従う士たちは帰陣してのち、初めて生きた心地がしたと言います。粟山備後守、井上周防守、黒田美作守らがこれを諫めました。長政は聞いて、「父がおられない時は、せがれの忠之を先手に出し、我は大将の威を立てて、重々しく旗本に控えよう。今は父がおられるから、旗本の気遣いはない。我が先手へ出て戦死しても、父がおられれば、少しも心配はいらない」と言われました。
解説

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