名将言行録 / 『名将言行録』黒田長政 虎と争う家臣を叱る
○征韓の役、長政、全義館に二十日餘り在陣せり、或曉に、營中俄に騷動す、長政は敵、朝込に來ると心得て胄を着し、栖樓に登て見れば、大なる虎來り厩に入て馬を噛殺し狂ひ廻はる。誰も出合ふ者なし。時に菅和泉守政利刀を抜て掛り向へば、猛りて飛掛るを、引外づして腰の番ひを深く切込みければ、前足二本を竿立にして、彌々怒りけること、初めより烈しく、政利も既に危き所へ、後藤基次助け來り、眉間を切割りければ、二刀にて倒れ死す。長政之を見て殊の外に不興し、一手の大將たる身にて、大事の役を持ちながら、畜類と勇を爭ふこと、不心得なりと叱られけり。 ○此役、長政、先手栗山、後藤等三千、和寧關に在りし時、明將麻貴牛伯英四萬餘の兵を率ゐ攻來る。是事先づ飛檄を以て長政に告げ、一戰して之を打敗り、首二千餘級を得たり。其夜長政馳來り、先づ栗山が營に入て、如何なれば合戰を始めしぞと咎めければ、栗山眼を瞋らし、敵より掛る故戰ひ候と答ふ。長政落涙して、汝が怒り尤もなれども、汝等を擊せては、我獨り生きて甲斐なしと思ひし故、合戰を止めしと言はれけり。
新字:○征韓の役、長政、全義館に二十日余り在陣せり、或暁に、営中俄に騷動す、長政は敵、朝込に来ると心得て胄を着し、栖楼に登て見れば、大なる虎来り厩に入て馬を噛殺し狂ひ廻はる。誰も出合ふ者なし。時に菅和泉守政利刀を抜て掛り向へば、猛りて飛掛るを、引外づして腰の番ひを深く切込みければ、前足二本を竿立にして、弥々怒りけること、初めより烈しく、政利も既に危き所へ、後藤基次助け来り、眉間を切割りければ、二刀にて倒れ死す。長政之を見て殊の外に不興し、一手の大将たる身にて、大事の役を持ちながら、畜類と勇を争ふこと、不心得なりと叱られけり。 ○此役、長政、先手栗山、後藤等三千、和寧関に在りし時、明将麻貴牛伯英四万余の兵を率ゐ攻来る。是事先づ飛檄を以て長政に告げ、一戦して之を打敗り、首二千余級を得たり。其夜長政馳来り、先づ栗山が営に入て、如何なれば合戦を始めしぞと咎めければ、栗山眼を瞋らし、敵より掛る故戦ひ候と答ふ。長政落涙して、汝が怒り尤もなれども、汝等を撃せては、我独り生きて甲斐なしと思ひし故、合戦を止めしと言はれけり。
書き下し
○征韓の役、長政、全義館に二十日餘り在陣せり、或曉に、營中俄に騷動す、長政は敵、朝込に來ると心得て胄を着し、栖樓に登て見れば、大なる虎來り厩に入て馬を噛殺し狂ひ廻はる。誰も出合ふ者なし。時に菅和泉守政利刀を抜て掛り向へば、猛りて飛掛るを、引外づして腰の番ひを深く切込みければ、前足二本を竿立にして、彌々怒りけること、初めより烈しく、政利も既に危き所へ、後藤基次助け來り、眉間を切割りければ、二刀にて倒れ死す。長政之を見て殊の外に不興し、一手の大將たる身にて、大事の役を持ちながら、畜類と勇を爭ふこと、不心得なりと叱られけり。 ○此役、長政、先手栗山、後藤等三千、和寧關に在りし時、明將麻貴牛伯英四萬餘の兵を率ゐ攻來る。是事先づ飛檄を以て長政に告げ、一戰して之を打敗り、首二千餘級を得たり。其夜長政馳來り、先づ栗山が營に入て、如何なれば合戰を始めしぞと咎めければ、栗山眼を瞋らし、敵より掛る故戰ひ候と答ふ。長政落涙して、汝が怒り尤もなれども、汝等を擊せては、我獨り生きて甲斐なしと思ひし故、合戰を止めしと言はれけり。
現代語訳
朝鮮出兵のとき、長政は全義館に二十日余り在陣していました。ある暁、陣中が突然騒がしくなりました。長政は敵が朝駆けに来たものと心得て兜を着け、物見櫓に登って見ると、大きな虎が来て厩に入り、馬を噛み殺して暴れ回っています。誰も出て立ち向かう者がいません。そこで菅和泉守政利が刀を抜いて向かうと、虎は猛って飛びかかったのを、体をかわして腰の番いを深く切り込みました。虎は前足二本を竿立ちにして、ますます怒ることは初めより激しく、政利も危うくなったところへ、後藤基次が助けに来て、眉間を切り割ると、二刀で倒れ死にました。長政はこれを見て、ことのほか不興で、「一手の大将の身で、大事な役を持ちながら、獣と勇を争うことは、心得違いである」と叱られました。 ○この戦役で、長政の先手の栗山、後藤ら三千が和寧関にいたとき、明の将、麻貴、牛伯英が四万余りの兵を率いて攻めてきました。このことをまず急ぎの檄文で長政に知らせ、一戦してこれを打ち破り、首二千余りを得ました。その夜、長政が駆けつけて、まず栗山の陣に入り、「どうして合戦を始めたのか」と咎めると、栗山は目をむいて「敵から掛かってくるので戦いました」と答えました。長政は涙を落とし、「お前の怒りはもっともだが、お前たちを討たせては、我一人が生きていても甲斐がないと思ったので、合戦を止めたのだ」と言われました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 虎を自ら討つ胆力○此役、清正大山の麓に陣せしことあり、或夜虎來て馬を中に引提げ虎落の上に飛出たり。清正口惜きことゝなりと怒りけるに、小姓上月左膳をも、虎來て噛み殺せり。清正夜明くると均く山を取卷て虎を狩りたるに、一疋の虎、生茂りたる萱原を掻き分け、清正目掛けて來る。清正大なる岩の上に在りて、鳥銃を持ち狙はるゝに、其間三十間計り、虎、清正を睨みて立止る。人々鳥銃を揃て打んとするを、清正下知して打せず、自ら打た殺さんとの志なり、斯くて虎間近く猛り來り、口を開て飛掛る所を打ちたりしに、咽に打込みたれば、そこに倒れ、起上らんとせしかども、痛手なれば遂に死せり。 ○在韓の諸將連署して、書を秀吉に奉る時、清正の花押の點畫甚だ繁くして、漸々手間取りければ、福島正則冷笑て、死に臨み遺狀を作るに遠かになるべからずと言ふ。清正聞て、我は左は存ぜず、屍を戰場に暴すとも、褥の上にて死んとは思ひ設けず候、左れば遺狀何かし候べきと言ひしかば、正則詞なかりけり。
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名将言行録・『名将言行録』後藤基次 家老が推した名代○長政、一日老臣を集め、一朝事ある時我に代はりて人數を扱ふべき者は誰ならんと問ふ。菅和泉守政利曰く、御家武邊にて御成立故、御家人誰にても一器量ある輩なり、去れども御名代となり、大なる武邊を致すべき者は、後藤又兵衞にて候、尤も畜類にてはありけれども、朝鮮にて猛虎御陣へ入り來り、御厩の馬共を噛殺しけれども、一人も出合はざる間、某罷出切掛りけれども、中々猛り難儀の所に又兵衞驅出で切留め申たり、箇樣の時も諸人に秀でし間、兎角究まる所の武邊は、又兵衞にて之あるべきかと存ずるなりと申ければ、長政は基次を憎み居たりし時なれば、不興して座を立てり。 ○關ヶ原の役、基次、長政に向ひ、敵に島津と曰ふ老功の武者之あれば、必ず夜討すべし、御用心然るべくと申す。長政尤もと思ひ家康に告ぐ。家康曰く、夜討は有間敷ぞ、氣遣なせそとて、如何にも緩々として居られたり。長政歸て右の上意心得ず、御運の末にやと氣遣ひけれども、夜討なし。是は前方夜討させ間敷爲めに、藤堂高虎に袖切と曰ふ計策をさせられしとぞ。 ○此役、長政靑墓に陣す。時に敵兵二萬餘伊勢路より出、金屋師原に至る。細川忠興、福島正則、藤堂高虎等皆誰が兵なるやと問ふ。基次跪きて曰く、是は毛利の軍なりと、諸將皆曰く、旗の紋分明ならず、又兵衞の眼犬眼通を得たるやとて、各々歸營す。翌日斥候を出だし之を見せしむるに、果して毛利の兵なり、人皆基次の眼識に服せり。
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名将言行録・『名将言行録』加藤嘉明 虎にも家康邸にも動じず○朝鮮より虎を引來り、那古耶に在陣せし諸將の中を、大力の男餘多左右に鎖を扣へ、噇と言て通りければ、人皆驚きたるに、嘉明は壁に倚り掛り、居眠してありしが、虎通り過ぎたる後も初めに異ならず、漸々ありて、目を開き、何事にて騷がれしぞ、虎を引通れる故にやと最と靜に言はれしとぞ。 ○秀吉薨ぜしかば、大阪の奉行等、德川氏を亡さんとて、伏見、大阪の間物騷敷、德川の館に來り守る人少なからず、嘉明以爲く、當時內府を失はんには、倔强の大名十人餘も討死せずんば叶ふべからず、誰か今斯く心を一つに合はすべき、去らば、何事かあらんとて、少しも騷がず、德川の館に至りて、何にとなく世の中物騷敷候、去ながら、嘉明は何事のあるべきかと存じ、今までは、侍五十騎留め置候ひしを、今朝二十騎を、伊豫の國へ差返しぬ、御用も候ひなば、參らせんと、殘る所は留めて候と申す。果して嘉明の言の如く、程なく無事にぞ屬しける。 ○關ヶ原の時、或夜嘉明の陣前を忍び通る者あり、捕へて、忍か、火付か切つて捨よと言ふに、嘉明其の士は主君の爲めに死を顧みざる者なり、吾陣所の備さへ怠らず、彼如何にして、吾を窺ふべきや、殺すと殺さゞるとは勝敗に拘はらざれば、命を助くべしと言て、追放させたり。
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名将言行録・『名将言行録』黒田長政 碧蹄館の先手と敵の見切り○碧蹄館の戰未だ始まらざる時、長政只一騎歩侍七八人にて、小早川隆景の旗本に見廻りたり。隆景見て、甲州には幸の所へ御越なり、粟屋四郎兵衞、井上五郎兵衞を先手に申付しが、物馴れぬ者共にて心元なく候、貴殿先手へ越され、毎事御指圖賜はり候へと言はれければ、長政承はり候とありて、先手に往けり。比は正月二十日辰の刻なり、朝鮮は寒國にて寒きこと甚だし、長政は大綿帽子を着し、胄は郎等に持だせしが、隆景の先手に出るとて綿帽子を脱ぎ、胄を取て着せしに、隱れなき例の水牛の胄なり、偖胄の緒をしめ先手へ出ければ、隆景旗本數千の士卒共、長政先手へ御越の上は、今日の軍は早や勝ちたりと總軍勇みたるとぞ。長政時に 年二十五。 ○關ヶ原の役、東軍垂井、赤坂に陣し、家康を待つ所に、毛利、長曾我部等の人數三萬にて、津の城を攻落し、大垣の南の山の根に備へて、垂井口へ押出しける、赤坂邊に陣せし東軍は、敵掛ると見て、皆々備を出して閧ぎ合ける時に、長政只一騎乘出し、見届けて歸り、何れも騷ぐべからず、戰を持ちたる敵にてなし、陣取敵にて候と言ふ。加藤、福島何れも、甲州の斥候はこはものにて候とて、皆々弓銃、張出し申べしと下知せり。長政の見切の通り、敵の人數尾崎、南宮、山岡が鼻へ押上りて陣取りける。時に細川忠興誰が勢なりと不審する所に、後藤基次、毛利の勢と見ゆると言ふ。果して其言の如し、諸將主從の見切の程を譽められけり。
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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 油断を戒める上一人の心見れば米三升、干味噌、銀錢三百あり、其重さ一提あり、是は馬印を指すに腰輕ければ惡しきに依り、斯の如くせしと言はれけり。高政興を醒し、十里二十里に敵もなきに、是は如何なることにやと言ければ、清正去れば其事なり、兎角物の大事は油斷より出で申すなり。尤も敵なければ、物具なくして身を安くする樣に致し度存ずれども、油斷して、萬一急變に出合へば、是までの武邊水になるなり。下々は去らでだに油斷勝なるに、清正物具せずば、下々尙ほ帶紐解で怠るべければ、身の苦みを顧みず、油斷なき爲めに、自分も物具付け候、惣て上を學ぶ下と言て、大將少しくつろげば下々は大に油斷するものなり。是を以て、常々斯の如く勉強致すなり。上一人の心は、下萬人に通ずるとかや承はりしと言ひければ、高政涙を流して感ぜり。 ○朝鮮より虎を引來り、那古耶に在陣せし諸將の中を大力の男餘多左右に鎖を扣へ、□と立て通りけるに、人皆驚きたるに、清正膝立直し拳を握り臂を張りて、虎を屹度睨みければ、虎も暫し立止まりて、清正を睨みて打過ぎしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 退く敵を見て誘いを疑う○清正、蔚山に籠りし時、一日黎朗、敵櫓を火にして悉く退く、城兵競つて追擊んとす。清正追ふこと勿れ、彼我を誘するなりと言て、城に上り臨觀す、果して薄暮に及び、樹陰崖間に伏する所の兵、皆出で合圍すること奮の如し、兵士、君何を以て其僞り退を知り給ふと言ふ。清正大軍悉く退くに、一の後殿なし、是眞に退くものにあらず、且つ櫓を火にし、更らに其退を知らしむ、是其僞を知る所なりと言はれけり。 ○蔚山に籠りし時、明兵前の山より三町餘を隔て、大銃を外郭に打入る、清正が兵に中りて胴中より二つに斷れたり。清正士卒を制して躁がしめず、明兵又一丸を發す。此丸空中に飛ぶ、清正士卒に令し、大に躁て城中に引入らしむ。明兵城中の騷動を見て、大銃を釣瓶に放つに、皆空中に飛べり、軍中清正の膽智に服せり。 ○征韓の役、清正の軍勢敵を切りあぐみたる時に、清正馬上にて、何人切倒したるや筭へ見よと言ふ時、刀の直なるにては、當り弱く人倒れず、能き程の反りにては切れずと雖も、倒れずと言ふことなしとぞ。 ○清正、朝鮮の兩王子を擒にし、能く之を遇す。依て王子、朝鮮に歸るの日、清正の臣、加藤右馬允に寄するの書に其慈悲如佛。眞個日本中好人也。又後日若對日本及計頭。復發雜談。少有背負之意。非人情也。天地鬼神。共罰之矣。等の語あり。其敬慕せらること斯の如し。