名将言行録 / 『名将言行録』黒田長政 武士は逃げぬと馬を返す
○賤ヶ嶽の役、中川淸秀、佐久間盛政の爲めに擊れければ、軍中騷動し、所々の附城共持難き勢なり。時に孝高も附城を守りしに、敵強く攻めて、後詰の便もなければ、討死と覺悟し、粟山四郎兵衞利安を呼びて、汝は吉兵衞長政を連れて、此所を立退き、我が家名を全うすべし、吉兵衞、幼少なれば、今此虎口を迯れたりとも、家の疵ともなるべからず、早々連れ退くべしと言ふ。利安辭すれども聞入れず、今吉兵衞を連れて迯んことは、爰にて討死せんより百倍の忠節なり、時移りては詮なきことゝて、急がるゝに依て、利安も力なくして、吉兵衞を先に立て、一里計り行きし時に、吉兵衞立止まりて、我をば何方へ連れ行くぞと問ふ。利安しかく〳〵の由を告げしに、吉兵衞聞くより、父君を捨置て、何國へ行くべき、武士は迯ると云ふことはなきものぞと、常に教へ給ひしものをと言て、乘りたる馬を蹴立て引返す。利安も感涙を流し、誠に父の御子に候とて、早々柴へ引返せり。
新字:○賤ヶ嶽の役、中川清秀、佐久間盛政の為めに撃れければ、軍中騷動し、所々の附城共持難き勢なり。時に孝高も附城を守りしに、敵強く攻めて、後詰の便もなければ、討死と覚悟し、粟山四郎兵衛利安を呼びて、汝は吉兵衛長政を連れて、此所を立退き、我が家名を全うすべし、吉兵衛、幼少なれば、今此虎口を迯れたりとも、家の疵ともなるべからず、早々連れ退くべしと言ふ。利安辞すれども聞入れず、今吉兵衛を連れて迯んことは、爰にて討死せんより百倍の忠節なり、時移りては詮なきことゝて、急がるゝに依て、利安も力なくして、吉兵衛を先に立て、一里計り行きし時に、吉兵衛立止まりて、我をば何方へ連れ行くぞと問ふ。利安しかく〳〵の由を告げしに、吉兵衛聞くより、父君を捨置て、何国へ行くべき、武士は迯ると云ふことはなきものぞと、常に教へ給ひしものをと言て、乗りたる馬を蹴立て引返す。利安も感涙を流し、誠に父の御子に候とて、早々柴へ引返せり。
書き下し
○賤ヶ嶽の役、中川淸秀、佐久間盛政の爲めに擊れければ、軍中騷動し、所々の附城共持難き勢なり。時に孝高も附城を守りしに、敵強く攻めて、後詰の便もなければ、討死と覺悟し、粟山四郎兵衞利安を呼びて、汝は吉兵衞長政を連れて、此所を立退き、我が家名を全うすべし、吉兵衞、幼少なれば、今此虎口を迯れたりとも、家の疵ともなるべからず、早々連れ退くべしと言ふ。利安辭すれども聞入れず、今吉兵衞を連れて迯んことは、爰にて討死せんより百倍の忠節なり、時移りては詮なきことゝて、急がるゝに依て、利安も力なくして、吉兵衞を先に立て、一里計り行きし時に、吉兵衞立止まりて、我をば何方へ連れ行くぞと問ふ。利安しかく〳〵の由を告げしに、吉兵衞聞くより、父君を捨置て、何國へ行くべき、武士は迯ると云ふことはなきものぞと、常に教へ給ひしものをと言て、乘りたる馬を蹴立て引返す。利安も感涙を流し、誠に父の御子に候とて、早々柴へ引返せり。
現代語訳
賤ヶ岳の戦いのとき、中川清秀が佐久間盛政に討たれたので、軍中は騒ぎ、あちらこちらの付城も持ちこたえがたい情勢になりました。そのとき孝高も付城を守っていましたが、敵が強く攻め、後詰めの便もなかったので、討ち死にを覚悟し、粟山四郎兵衛利安を呼んで、「お前は吉兵衛(長政)を連れてこの所を立ち退き、我が家名を全うせよ。吉兵衛は幼いので、今この虎口を逃れても、家の傷にもなるまい。早々に連れて退け」と言いました。利安が辞退しても聞き入れず、「今、吉兵衛を連れて逃げることは、ここで討ち死にするより百倍の忠節だ。時が移っては甲斐がない」と急がせたので、利安もやむなく、吉兵衛を先に立てて、一里ばかり行ったとき、吉兵衛が立ち止まって「我をどこへ連れて行くのか」と尋ねました。利安がしかじかの由を告げると、吉兵衛は聞くなり、「父君を捨て置いて、どこへ行けようか。武士は逃げるということはないものだと、常に教えられたではないか」と言って、乗っている馬を蹴立てて引き返しました。利安も感涙を流し、「まことに父君の御子です」と言って、急いで柴へ引き返した、ということです。
解説

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