葉隠 / 聞書第一
鐵山、老後に申し候は、「取手は相撲には違ひ、一旦下になりても、後に勝ちさへすれば濟む事と心得罷り在り。近年存當り候は、一旦下になりて居る時、若し誰ぞ取りさかへ候はば負けになるべし。始めに勝つが始終の勝ちなり。」と申され候由。
新字:鉄山、老後に申し候は、「取手は相撲には違ひ、一旦下になりても、後に勝ちさへすれば済む事と心得罷り在り。近年存当り候は、一旦下になりて居る時、若し誰ぞ取りさかへ候はば負けになるべし。始めに勝つが始終の勝ちなり。」と申され候由。
書き下し
鉄山(てつざん)、老後に申し候は、「取手は相撲には違い、一旦(いったん)下になりても、後に勝ちさえすれば済む事と心得罷(まか)り在り。近年存じ当たり候は、一旦下になりて居る時、若(も)し誰(だれ)ぞ取りさかえ候わば負けになるべし。始めに勝つが始終の勝ちなり。」と申され候由。
現代語訳
組み討ちの武術は、下になれば負ける。初めに勝つことが最後の勝ちにつながるのだ。もし途中で形勢を取って代わられれば、負けになってしまう。鉄山という達人が老いてから語ったところによれば、「組み討ちは相撲とは違い、一度は下になっても、後で勝ちさえすればよいと心得ていた。だが近年になって思い当たったのは、一度下になっているときに、もし誰かに形勢を奪われて代わられたら、それきりだということ。だから初めに勝つことが最後まで通じる勝ちなのだ」と申されたそうである。
解説
組み討ちの武術を例に、初めの主導権がいかに大切かを説いた一節です。達人・鉄山は若い頃、一度下になっても後で挽回すればよいと考えていました。しかし老いて思い当たったのは、いったん劣勢に立たされたところで相手に完全に主導権を握られれば、もう挽回の機会すらないということでした。だから「始めに勝つが始終の勝ち」、最初に上を取ることこそが最後まで通じる勝ちだというのです。命のやり取りでは「後で挽回」という前提そのものが崩れかねません。現代でも、交渉や勝負事、仕事の初動で最初に主導権を握れるかどうかが、その後の展開を大きく左右します。達人が晩年にたどり着いた、初手の重さを教える言葉です。
この章句が説くこと
初動の主導権先手組み討ち挽回できない前提勝負の機微達人の悟り
関連する章句
-
孫子・虚実篇孫子曰く、凡そ先に戦地に処して敵を待つ者は佚く、後に戦地に処して戦いに趨く者は労す。
-
尉繚子・戰威善く兵を用うる者は、能く人を奪いて人に奪われず。
-
戦国策・或謂公仲或るひと公仲に謂いて曰く、「今一舉にして以て主に忠にし、國に便にし、身に利する可き有り、願わくは公の之を行わんことを。今天下散じて秦に事うれば、則ち韓最も輕んぜられん。天下合して秦を離るれば、則ち韓最も弱からん。合離の相續けば、則ち韓最も先に危うからん。此れ君國長民の大患なり。今公韓を以て先に秦に合すれば、天下之に隨わん、是れ韓天下を以て秦に事うるなり、秦の韓を德とすること厚し。韓天下と與に秦に朝すれども、獨り厚く德を取れば、公の之を行うの計、是れ其の主に於けるや至忠なり。天下秦に合せず、秦令すれども聽かざれば、秦必ず兵を起こして服せざるを誅せん。秦久しく天下と怨みを結び難を構え、兵決せず、韓士民を息めて以て其の亹を待たば、公の之を行うの計、是れ其の國に於けるや、大便なり。昔者周佼西周を以て秦に善くして、梗陽に封ぜられ、周啟東周を以て秦に善くして、平原に封ぜらる。今公韓を以て秦に善くすれば、韓の兩周に重きこと計る無く、秦の機を爭うや、周の時より萬なり。今公韓を以て天下に先んじて秦に合すれば、秦必ず公を以て諸侯と為し、以て明らかに天下に示さん、公の之を行うの計、是れ其の身に於けるや大利なり。願わくは公の務めを加えんことを。」
-
李衛公問対・卷中兵は主為るを貴び、客為るを貴ばず。速やかなるを貴び、久しきを貴ばず。
-
孫子・虚実篇夫れ兵の形は水に象る。水の行くは高きを避けて下きに趨く。兵の勝つは実を避けて虚を撃つ。
-
孫子・地形篇孫子曰く、凡そ地形には通なる者、掛なる者、支なる者、隘なる者、険なる者、遠なる者あり。我も以て往くべく、彼も以て来たるべきを、通と曰う。通形には、先ず高陽に居り、糧道を利にして、以て戦えば則ち利あり。