名将言行録 / 『名将言行録』黑田孝高 吃る家臣と隆景の分別論
○孝高、中津川に下屋敷を造るとて、手塚久右衞門に命ぜり。此者口吃りて物言分らざりしが、心立正直なりければ、不便なりとて、其掛りを言付しなり。或日孝高、廣間にて四方を取放し、碁を圍みて居たりし所、久右衞門來り、何事をか用事を申とて、たゞッ〳〵と四つ五つ吃りければ、孝高碁を打ちながら、材木がなくば、買つてと言はれけり。元來材木なければ買ふべくや、伐らせ申べくやと伺ひに出たりしが、吃りたる計りにて物をも言はず事辨ぜしとぞ。 ○長政、一日小早川隆景に向ひ、貴公を天下の分別者と申候、分別は如何に仕候哉と尋ねければ、隆景、分別と申は智惠の事にて、智惠を以て其事々を分別仕ることにて候、世に如水軒程の智惠ある人は之なく候、中々此隆景式が及ぶことにて之なし、如水の言行を御學び候へば、天下の分別者に、御成り成され候、然るに、隆景を分別者と世上に唱へ、如水をさまで申さず候、如水は利根なる人故、何ぞ相談を致し候へば、夫は夫、是は是と、其儘埒明申候故、秀吉公抔の樣なる目口鼻は、能く見知りて、御取立も候へ共、夫より下の人は餘り頓作なる故、如何と存候、我等は鈍質にて候故、當座に究めたる事をも埒明けず、先づ一思案仕候て御相談申べくと申に付、急に埒明かぬ故、却て分別者の樣に取沙汰仕候へ共、如水の速なるには、劣りたること計りに候、分別者と言はれ給はんとならば、如水の智惠を以て、一しまりも靜に御思案候へと語りしとぞ。
新字:○孝高、中津川に下屋敷を造るとて、手塚久右衛門に命ぜり。此者口吃りて物言分らざりしが、心立正直なりければ、不便なりとて、其掛りを言付しなり。或日孝高、広間にて四方を取放し、碁を囲みて居たりし所、久右衛門来り、何事をか用事を申とて、たゞッ〳〵と四つ五つ吃りければ、孝高碁を打ちながら、材木がなくば、買つてと言はれけり。元来材木なければ買ふべくや、伐らせ申べくやと伺ひに出たりしが、吃りたる計りにて物をも言はず事弁ぜしとぞ。 ○長政、一日小早川隆景に向ひ、貴公を天下の分別者と申候、分別は如何に仕候哉と尋ねければ、隆景、分別と申は智恵の事にて、智恵を以て其事々を分別仕ることにて候、世に如水軒程の智恵ある人は之なく候、中々此隆景式が及ぶことにて之なし、如水の言行を御学び候へば、天下の分別者に、御成り成され候、然るに、隆景を分別者と世上に唱へ、如水をさまで申さず候、如水は利根なる人故、何ぞ相談を致し候へば、夫は夫、是は是と、其儘埒明申候故、秀吉公抔の様なる目口鼻は、能く見知りて、御取立も候へ共、夫より下の人は余り頓作なる故、如何と存候、我等は鈍質にて候故、当座に究めたる事をも埒明けず、先づ一思案仕候て御相談申べくと申に付、急に埒明かぬ故、却て分別者の様に取沙汰仕候へ共、如水の速なるには、劣りたること計りに候、分別者と言はれ給はんとならば、如水の智恵を以て、一しまりも静に御思案候へと語りしとぞ。
書き下し
○孝高、中津川に下屋敷を造るとて、手塚久右衞門に命ぜり。此者口吃りて物言分らざりしが、心立正直なりければ、不便なりとて、其掛りを言付しなり。或日孝高、廣間にて四方を取放し、碁を圍みて居たりし所、久右衞門來り、何事をか用事を申とて、たゞッ〳〵と四つ五つ吃りければ、孝高碁を打ちながら、材木がなくば、買つてと言はれけり。元來材木なければ買ふべくや、伐らせ申べくやと伺ひに出たりしが、吃りたる計りにて物をも言はず事辨ぜしとぞ。 ○長政、一日小早川隆景に向ひ、貴公を天下の分別者と申候、分別は如何に仕候哉と尋ねければ、隆景、分別と申は智惠の事にて、智惠を以て其事々を分別仕ることにて候、世に如水軒程の智惠ある人は之なく候、中々此隆景式が及ぶことにて之なし、如水の言行を御學び候へば、天下の分別者に、御成り成され候、然るに、隆景を分別者と世上に唱へ、如水をさまで申さず候、如水は利根なる人故、何ぞ相談を致し候へば、夫は夫、是は是と、其儘埒明申候故、秀吉公抔の樣なる目口鼻は、能く見知りて、御取立も候へ共、夫より下の人は餘り頓作なる故、如何と存候、我等は鈍質にて候故、當座に究めたる事をも埒明けず、先づ一思案仕候て御相談申べくと申に付、急に埒明かぬ故、却て分別者の樣に取沙汰仕候へ共、如水の速なるには、劣りたること計りに候、分別者と言はれ給はんとならば、如水の智惠を以て、一しまりも靜に御思案候へと語りしとぞ。
現代語訳
孝高は、中津川に下屋敷を造ろうとして、手塚久右衛門に命じました。この者は口がどもって話が通じにくかったのですが、心立てが正直だったので、不憫だと思い、その掛かりを言い付けたのでした。ある日、孝高が広間で四方を開け放して碁を打っていたところ、久右衛門が来て、何か用事を申し上げようとして、ただ「た、た」と四つ五つどもりました。孝高は碁を打ちながら「材木がなければ、買ってこい」と言いました。もともと「材木がないので、買いましょうか、伐らせましょうか」と伺いに出たのでしたが、どもっただけで、ものを言わずに用が足りた、ということです。 長政が、ある日、小早川隆景に向かって、「貴公を天下の分別者と申します。分別はどのようにするものですか」と尋ねました。隆景は「分別とは知恵のことで、知恵によって事ごとに分別するのです。世に如水軒ほどの知恵ある人はなく、この隆景などの及ぶところではありません。如水の言行をお学びになれば、天下の分別者になれるでしょう。それなのに、隆景を分別者と世間は唱え、如水をそれほどには申しません。如水は利発な人なので、何か相談をすると、それはそれ、これはこれと、そのまま片付けてしまいます。ですから秀吉公のような目鼻立ちのはっきりした人はよく見分けて取り立てますが、それより下の人には、あまりにてきぱきとしすぎて、どうかと思います。私は鈍い性質なので、その場で決めたことも片付けず、ひとまず一思案してご相談しようと言います。急に片付かないために、かえって分別者のように取りざたされますが、如水の速さには劣ることばかりです。分別者と言われたいなら、如水の知恵をもって、少し静かにお考えなさい」と語った、ということです。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 分別の肝要は仁愛○隆景曰く、孝高の智は甚だ敏にして、是非を決するに造作もなきこと利刀にて竹を二ッに割るが如し、天下に及ぶ者なし。然るに只才覺武略の譽はありて、思慮の譽はなし。我孝高の才智には遙に劣れり、孝高の思慮せずして即時に決斷することを、我は返す〱思案して漸く孝高の即時の智に及ぶ。然れども世上の人我を却て思案ありと言ふは、才鈍きにより即時に決斷することならずして、思案を好む故なるべしと。 ○黑田長政、隆景に向ひ、分別は如何したるが能く候やと問ふ。隆景、別の仔細なし。只久く思案して遲く決斷するが能く候と答ふ。長政、又同分別にも肝要ありやと問ふ。隆景、之あり、分別の肝要は仁愛なり、萬事を決斷するに、仁愛を本として分別すれば、萬一其思慮理に當らざることありとも遠からず、仁愛なき分別は才智巧みなりとも、皆僻事なりと知り給ふべしと答へけり。 ○隆景、平生人の善言を取り用ふ。士は申に及ばず、下部にも其者の知るべきことをば尋ね問て、其者の申所然るべきことあれば取用て行ひける。其上是は何の某と曰ふ者が申たるにより、箇樣にするなりと言はれけり。故に人々進みて言を獻ぜしとぞ。 ○隆景、初め堪忍の二字を書きて壁に掛けしが、後には思案の二字に書替られたりとぞ。 ○隆景、或時急速のことありて、右筆に物を書かするに、急用のことなり、靜に書すべしと言はれしとぞ。 ○隆景、資性廉直、信義を重んじ、苟も戲言なし。若し一たび出言すれば、聊も變改せしことなしとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 茶事と決断の違い○隆景、嘗て茶事を好めり。或時人に語て曰く、茶の湯の翫びは塵世の紛冗を避け、巖栖野居の趣を爲し、水雲烏魚の閑を追て、心跡を安くするものなれば、尤嗜み好むべきことなりと思ひつるに、倩々世間の人身を擲て、好む者の狀態を察するに、茶器の價の高下を談じ、千緡の器を百緡に買ひ得たる人をば、目が靈利なりと稱歎して、甚だ羨む心を生じ、或は賤く買て貴く賣んことを欲し、抔することを主意として茶の本意を失へり。左なきだに人の心は物の爲めに移され易きものなれば、と言て其後は好まれずとぞ。 ○隆景、嘗て黑田孝高に語て曰く、貴殿は事を決斷して後悔み給ふことあるべし、何にとなれば、貴殿の才智甚だ敏にして、一を聞て二を知る程の聰明なれば、人の言を聞くと等しく即時に善惡を決斷し給ふこと水の卑きに就くが如し。之に依て十分に思慮を盡し給はずして、事に依り貴殿の本意にあらざることもありて、後悔せらるゝこともあるべし、我等が才は甚だ鈍き故に人の言を聞て、忽に是非を決すること成難ければ、心を盡くし久く思案して、漸く其是非を辨ずるによりて、毎事我心に十分の思慮を盡す故、既に決斷しては是も非も我心に在る所の力を悉く盡す故、後悔寡しとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 掛け出しを怒る○隆景上京の時、算勘者なくてはとて、或町人を撰びて、鵜飼新右衞門、下司に召具せり。下向の後總勘定せしに、八貫目の懸出し勘定に載せたり。鵜飼を始め何れも其才覺に感じ、其由披露して恩賞にこそ預らしめんと思ひしに、隆景却て大に怒り缺耗と云ふことはあるとも、懸出しと云ふことあるべきにあらず、天より降り地より湧出たるにもあるべからず、只人に遣はし、又は買物する時、價輕く與へつらん、輕く與へたらんには、隆景に恥を買はしむるなり、重く遣はして若干の缺耗とこそ算用すべきに、憎き奴原哉頸を刎よと言はれけり。何れも案に相違のことなれば大に驚き、缺耗と申直してこそ事濟みたりけれ。 ○伏見の城にて、秀吉、菊亭右大臣晴季と圍碁せらるゝ時に、德川家康、上杉景勝抔見物なり、其碁甚だ六ケ敷成り、秀吉思案に餘りければ、此分別は流石隆景にても成間敷と言はれしかば、家康御意の通に候と挨拶ありしとぞ。 ○隆景曰く、異見をして見るに直に請合ふ者に、其異見を保つ者なし。異見をする人の詞を能く聞きて我心に考へ合點ならぬと思ふ所をば、一ト問答も二タ問答もして、理に詰りて後尤と請る者は、後ちまで其異見を用ふる者なりと。
-
名将言行録・『名将言行録』黑田孝高 始末と惜しまぬ心○長政、戰ふ毎に先鋒に出て指麾す、人皆危きことなりと言ふ。孝高聞て、長政は先手に出て指麾するが善し、左なくば軍に負くべし、我如く旗本に在ては、とても長政分にては叶ふ間敷と言はれけり。 ○孝高、瓜のある時分、家中及び、町人杯より多分獻じたるを、小性伽坊主抔の相詰め居たる者を召呼び、食はせける。皮を剝く者に、厚く剝かせし故、いとゞ小き瓜を厚く剝きては食ふ所少くなり申べくとありければ、否一つ二つにて足らずば、幾つも食すべし、偖其皮を長持の蓋に入れさせ、臺所賄人を呼出し、あれなる瓜の皮を鹽漬にせよ、臺所にて飯を食ふに菜の無き者多し、其等の菜にさせよ、總じて、茄子以下の皮、其外野菜の切はづし、魚の骨、少しも捨てず、夫々に拵へ、菜の無き者に食はせよと言はるゝに依り、不斷其仕合なれば、鹽汁計りの者共も、栗も有りけるとぞ。濕時分なれば、折紙、箱包の革籠、百重張細工人には、申付けず、大小性、兒小性、馬廻、何れにも張らせ、反古を食ひ裂き口中に溜りたる板に吸付させ、坊主共に申付け、少しも散らぬ様に取集め、白土の寸莎にさせたり、何にても廢ることを嫌ひ、平生は何にとも言ふに言はれぬ細かに吝く墨きこと世にも稀なるべしと思ふ人なり。○公儀の事か、下々に物を取らする時は、少しも惜まず、銀十枚取らせよと言はるゝ時、殊の外過ぎ申べく、三枚か、五枚にて然るべきと申せば、否々我常に儉約をするは、取らせ度者に思ふさま取らせ遣し度爲めなり、使ふ間敷ならば、金にてはなく、貯へ置ては詮なしとて、諸人の思寄より大分與へられけり。食ひ裂き紙を白土の寸莎にせずとも、事闕かぬは、能く知れけれども、少しの物も廢り費にならぬ様に、常に始末をして、用立つことは、惜まず遣ひたるが能きと、家中の者共に能く知らせ度思ひ、不断箇様に致されけり。家中の者共、武具、馬具不似合に奇麗に支度し、何時乘出しても、人にも事を闕かず、借金のある者は之なく、貯へのある者は多かりけるとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』黑田孝高 黒田官兵衛の若き決断美濃守職隆の子、勘解由次官に任す。後髮を剃り、如水圓清と號す、豐前六郡に封ぜられ、中津城に住す、慶長九年三月二十日卒、年五十九。 ○孝高、幼名萬吉と曰ふ。七歳の時、父職隆、寺に入れ書を學ばしむ、孝高、性筆紙を好まず、只射御を事とせり。十四歳の時、母を喪ひ慟哭他人に超越せり。十七八歳より和歌を嗜み頗る精を勵ませり。僧圓滿之を諫む。依て中道にして廢し、之より專ら弓箭の道を勉勵せり。 ○小寺藤兵衞政職、一日麾下の者及び、老臣を集めて、今天下の形勢を見るに、織田、毛利、三好の三家鼎足の如し、何れへ附き家を興さばや、各々心底を包まず申すべしとありければ、孝高進み出で、向後天下の權を握らん者は、必ず織田ならん、三好は主君を弑したる罪あれば、天などか、之を亡さゞらん、毛利は、一門に吉川、小早川の羽翼ありと雖も、軍法果敢行かず、信長は尾張半國より起り、義昭を取立將軍と成すに依り、諸人思付き、今は早や山城も手に入りぬ。後年天下の權を執らん者は必ず此人ならんと言ふ。一座の人々皆之に同じければ、乃ち孝高を使として、信長に一味の信を通じけり。時に天正元年七月なり。信長大に喜び、談話刻を移せり。辭するに及びて、信長、他日我中國を伐つ時、必ず汝を以て先鋒と爲さんと言はる。孝高諾して歸れり。此時木下藤吉郎秀吉の英姿あるを見て、深く結納せり。五年、秀吉播磨へ下向ありし時、阿彌陀ヶ宿に出迎ひ、姫路の城を掃除して、秀吉を迎へ、中國に向て弓箭を執るべき三策を定めたり。秀吉、孝高の智謀に感じ、盟書を取交はし、兄弟の約を結ばれたり。
-
名将言行録・『名将言行録』黑田孝高 跛足が天下を得ん○秀吉、一日戲に近臣に向て、我死せば誰か我に代り天下を有つべきや、忌諱を憚らず、試に之を言へと言はる。是に於て、人々見る所を言ふに、皆五大老の中なり、秀吉頭を掉て曰く、否一人天下を得る者あり、汝等之を知らずやと。皆曰く知らずと。秀吉曰く、彼跛足之を得ん。皆曰く、彼の祿僅に十萬石なり、如何ぞ之を得ん。秀吉曰く、汝等未だ彼を知らず、故に疑ふなり、我嘗て高松を攻めし時、右府の訃音至る、依て夜を以て日に繼ぎ、東上して以て明智を伐亡せり。爾後交戰大小數回あり、我大節に臨み、呼息閉塞し、謀慮百端彼是決すること能はず、依て計を跛足に問ふに、立どころに裁斷し、慮る所輕忽粗鹵なりと雖も、盡く我が練熟するものと符合せり。或は遙に意表に出るもの數回あり、且つ其心剛健、能く人に任じ、宏度深遠天下に比類なし、我在世と雖も、彼若し得んと欲せば、輒ち得べし、我彼を見るに、諸大名の陋劣なる者に親暱懇款し、敢て表飾を爲さず、或は才智ある者に遇へば交を結び、鄙賤なりと雖も、禮儀を缺かず、機運を計り、時亂に乘じ、人をして粉骨努力せしむ。其半ばは之を得るに及び、藹然覆倒し、之を得るもの、彼跛足の尤も長ずる所なりと。或人之を孝高に告ぐ。孝高竊に曰く、南無三寶我家の禍なり、我痘頭梟の表あり、子孫の計を爲すに若かずと、是に於て髮を剃り、如水と號す。秀吉、常に世に怖しきものは德川と、黑田なり、然れども、德川は溫和なる人なり、黑田の瘡天窓は何にとも許し難きものなりと言はれしとぞ。