名将言行録 / 『名将言行録』黑田孝高 神罰より恐い臣下百姓の罰
○孝高、筑前に入りて、太宰府の菅廟を始め、宮崎志賀の宮の衰廢せしを興し、明神を崇敬せしかども、嘗て曰く、天神の罰より、君の罰恐るべし、君の罰より、臣下百姓の罰恐るべし、其故は神の罰は祈りて免るべし、君の罰は詫て救しを受くべし、只臣下百姓に疎ぜられては、祈りても詫ても、免れ難し、必ず國家を失ふに至る。最も恐るべしと。 ○孝高、病に臥し、死前三十日計りの間、罵辱す。諸臣思ふに病氣甚しく、殊に亂心の體なり、別に諫むべき人なしとて、長政に告ぐ。長政尤もと思ひ、孝高に、諸臣畏れ候間、少し寛にし給へと云ふ。孝高之を聞き、耳を寄せよと言はれし故、長政寄せければ、是は汝が爲めなり、亂心にあらずと小聲に言はれけり。是は諸臣に厭かれて、早く長政の代に成れかしと思はせん爲めなりとぞ。
新字:○孝高、筑前に入りて、太宰府の菅廟を始め、宮崎志賀の宮の衰廃せしを興し、明神を崇敬せしかども、嘗て曰く、天神の罰より、君の罰恐るべし、君の罰より、臣下百姓の罰恐るべし、其故は神の罰は祈りて免るべし、君の罰は詫て救しを受くべし、只臣下百姓に疎ぜられては、祈りても詫ても、免れ難し、必ず国家を失ふに至る。最も恐るべしと。 ○孝高、病に臥し、死前三十日計りの間、罵辱す。諸臣思ふに病気甚しく、殊に乱心の体なり、別に諫むべき人なしとて、長政に告ぐ。長政尤もと思ひ、孝高に、諸臣畏れ候間、少し寛にし給へと云ふ。孝高之を聞き、耳を寄せよと言はれし故、長政寄せければ、是は汝が為めなり、乱心にあらずと小声に言はれけり。是は諸臣に厭かれて、早く長政の代に成れかしと思はせん為めなりとぞ。
書き下し
○孝高、筑前に入りて、太宰府の菅廟を始め、宮崎志賀の宮の衰廢せしを興し、明神を崇敬せしかども、嘗て曰く、天神の罰より、君の罰恐るべし、君の罰より、臣下百姓の罰恐るべし、其故は神の罰は祈りて免るべし、君の罰は詫て救しを受くべし、只臣下百姓に疎ぜられては、祈りても詫ても、免れ難し、必ず國家を失ふに至る。最も恐るべしと。 ○孝高、病に臥し、死前三十日計りの間、罵辱す。諸臣思ふに病氣甚しく、殊に亂心の體なり、別に諫むべき人なしとて、長政に告ぐ。長政尤もと思ひ、孝高に、諸臣畏れ候間、少し寛にし給へと云ふ。孝高之を聞き、耳を寄せよと言はれし故、長政寄せければ、是は汝が爲めなり、亂心にあらずと小聲に言はれけり。是は諸臣に厭かれて、早く長政の代に成れかしと思はせん爲めなりとぞ。
現代語訳
孝高は、筑前に入ってから、太宰府の菅廟(天満宮)をはじめ、宮崎や志賀の宮の衰え廃れたものを再興し、明神を崇敬しましたが、かつてこう言いました。「天神の罰より、君の罰を恐れるべきだ。君の罰より、臣下や百姓の罰を恐れるべきだ。その理由は、神の罰は祈れば免れ、君の罰はわびて許しを受けられるが、ただ臣下や百姓にそっぽを向かれては、祈ってもわびても免れがたく、必ず国家を失うに至る。これが最も恐ろしい」と。 孝高は病に臥し、死ぬ前の三十日ばかりの間、人を罵り辱めました。家臣たちは、病気が甚だしく、ことに乱心の様子だと思い、ほかに諌める人もいないので、長政に告げました。長政ももっともだと思い、孝高に「家臣たちが恐れておりますので、少しお控えください」と言いました。孝高はこれを聞いて「耳を寄せよ」と言ったので、長政が寄せると、「これはお前のためだ。乱心ではない」と小声で言われました。これは家臣たちに嫌われて、早く長政の代になればと思わせるためだった、ということです。
解説

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史記 高祖功臣侯者年表太史公曰く、古者人臣の功に五品有り。徳を以て宗廟を立て社稷を定むるを勲と曰ひ、言を以てするを労と曰ひ、力を用ふるを功と曰ひ、其の等を明らかにするを伐と曰ひ、日を積むを閲と曰ふ。封爵の誓ひに曰く、「河をして帯の如く、泰山をして厲の若くならしむとも、国以て永く寧く、爰に苗裔に及ばん」と。始め未だ嘗て其の根本を固めんと欲せずんばあらず、而して枝葉稍く陵夷衰微す。余、高祖の侯功臣を読み、其の首封と、之を失ふ所以の者とを察して、曰く、異なるかな新たに聞く所と。書に曰く「万国を協和す」と、夏商に遷りて、或いは数千歳。蓋し周は八百を封じ、幽厲の後も春秋に見はる。尚書に唐虞の侯伯有り、三代を歴て千有余載、自ら全うして以て天子に蕃衛す、豈に仁義に篤く、上の法を奉ずるに非ずや。漢興りて、功臣の封を受くる者百有余人。天下初めて定まる、故に大城名都散亡し、戸口の得て数ふべき者十に二三、是を以て大侯も万家に過ぎず、小なる者は五六百戸。後数世、民咸郷里に帰り、戸益々息し、蕭・曹・絳・灌の属は或いは四万に至り、小侯も自ら倍し、富厚之の如し。子孫驕溢し、其の先を忘れ、淫嬖す。太初に至るまで百年の間、見侯五、余は皆法に坐して命を隕し国を亡ぼし、秏す。罔も亦少しく密なり、然れども皆身に当世の禁に兢兢たること無しと云ふ。今の世に居りて、古の道を志すは、自ら鏡みる所以なり、未だ必ずしも尽くは同じからず。帝王は各々礼を殊にし務めを異にす、要は成功を以て統紀と為す、豈に緄すべけんや。尊寵を得る所以及び廃辱せらるる所以を観れば、亦当世の得失の林なり、何ぞ必ずしも旧聞ならん。是に於いて其の終始を謹み、其の文を表し、頗る本末を尽くさざる所有り。其の明らかなるを著し、疑はしき者は之を闕く。後に君子有りて、推して之を列せんと欲すれば、以て覧るを得ん。
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『新書』保傅殷は天子と為ること三十余世にして周之を受け、周は天子と為ること三十余世にして秦之を受け、秦は天子と為ること二世にして亡ぶ。人の性は甚だしくは相遠からざるに、何ぞ殷周の君は道有りて長く、秦は無道の暴なるや。其の故は知る可きなり。
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