名将言行録 / 『名将言行録』小早川隆景 茶事と決断の違い
○隆景、嘗て茶事を好めり。或時人に語て曰く、茶の湯の翫びは塵世の紛冗を避け、巖栖野居の趣を爲し、水雲烏魚の閑を追て、心跡を安くするものなれば、尤嗜み好むべきことなりと思ひつるに、倩々世間の人身を擲て、好む者の狀態を察するに、茶器の價の高下を談じ、千緡の器を百緡に買ひ得たる人をば、目が靈利なりと稱歎して、甚だ羨む心を生じ、或は賤く買て貴く賣んことを欲し、抔することを主意として茶の本意を失へり。左なきだに人の心は物の爲めに移され易きものなれば、と言て其後は好まれずとぞ。 ○隆景、嘗て黑田孝高に語て曰く、貴殿は事を決斷して後悔み給ふことあるべし、何にとなれば、貴殿の才智甚だ敏にして、一を聞て二を知る程の聰明なれば、人の言を聞くと等しく即時に善惡を決斷し給ふこと水の卑きに就くが如し。之に依て十分に思慮を盡し給はずして、事に依り貴殿の本意にあらざることもありて、後悔せらるゝこともあるべし、我等が才は甚だ鈍き故に人の言を聞て、忽に是非を決すること成難ければ、心を盡くし久く思案して、漸く其是非を辨ずるによりて、毎事我心に十分の思慮を盡す故、既に決斷しては是も非も我心に在る所の力を悉く盡す故、後悔寡しとぞ。
新字:○隆景、嘗て茶事を好めり。或時人に語て曰く、茶の湯の翫びは塵世の紛冗を避け、巖栖野居の趣を為し、水雲烏魚の閑を追て、心跡を安くするものなれば、尤嗜み好むべきことなりと思ひつるに、倩々世間の人身を擲て、好む者の状態を察するに、茶器の価の高下を談じ、千緡の器を百緡に買ひ得たる人をば、目が霊利なりと称嘆して、甚だ羨む心を生じ、或は賤く買て貴く売んことを欲し、抔することを主意として茶の本意を失へり。左なきだに人の心は物の為めに移され易きものなれば、と言て其後は好まれずとぞ。 ○隆景、嘗て黒田孝高に語て曰く、貴殿は事を決断して後悔み給ふことあるべし、何にとなれば、貴殿の才智甚だ敏にして、一を聞て二を知る程の聰明なれば、人の言を聞くと等しく即時に善悪を決断し給ふこと水の卑きに就くが如し。之に依て十分に思慮を尽し給はずして、事に依り貴殿の本意にあらざることもありて、後悔せらるゝこともあるべし、我等が才は甚だ鈍き故に人の言を聞て、忽に是非を決すること成難ければ、心を尽くし久く思案して、漸く其是非を弁ずるによりて、毎事我心に十分の思慮を尽す故、既に決断しては是も非も我心に在る所の力を悉く尽す故、後悔寡しとぞ。
書き下し
○隆景、嘗て茶事を好めり。或時人に語て曰く、茶の湯の翫びは塵世の紛冗を避け、巖栖野居の趣を爲し、水雲烏魚の閑を追て、心跡を安くするものなれば、尤嗜み好むべきことなりと思ひつるに、倩々世間の人身を擲て、好む者の狀態を察するに、茶器の價の高下を談じ、千緡の器を百緡に買ひ得たる人をば、目が靈利なりと稱歎して、甚だ羨む心を生じ、或は賤く買て貴く賣んことを欲し、抔することを主意として茶の本意を失へり。左なきだに人の心は物の爲めに移され易きものなれば、と言て其後は好まれずとぞ。 ○隆景、嘗て黑田孝高に語て曰く、貴殿は事を決斷して後悔み給ふことあるべし、何にとなれば、貴殿の才智甚だ敏にして、一を聞て二を知る程の聰明なれば、人の言を聞くと等しく即時に善惡を決斷し給ふこと水の卑きに就くが如し。之に依て十分に思慮を盡し給はずして、事に依り貴殿の本意にあらざることもありて、後悔せらるゝこともあるべし、我等が才は甚だ鈍き故に人の言を聞て、忽に是非を決すること成難ければ、心を盡くし久く思案して、漸く其是非を辨ずるによりて、毎事我心に十分の思慮を盡す故、既に決斷しては是も非も我心に在る所の力を悉く盡す故、後悔寡しとぞ。
現代語訳
隆景はかつて茶事を好みました。ある時、人に語って言いました。茶の湯の楽しみは、世俗の煩わしさを避け、岩間や野の家に住むような趣をなし、水や雲、鳥や魚の閑を追って心の跡を安らかにするものであるから、大いにたしなみ好むべきことと思っていた。しかしよくよく、世間の人が身を投げ打って好む者の様子を見ると、茶器の値の高い安いを論じ、千緡の器を百緡で買い得た人を目が利くと褒め称えて、ひどくうらやむ心を生じ、あるいは安く買って高く売ろうと欲し、などということを主眼として茶の本意を失っている。そうでなくても人の心は物のために移されやすいものであるから、と言って、その後は好まれなかったということです。 隆景はかつて黒田孝高に語って言いました。貴殿は事を決断して後に悔やまれることがあるでしょう。なぜなら、貴殿の才智はたいへん鋭く、一を聞いて二を知るほどの聡明さで、人の言葉を聞くとすぐに善悪を決断なさることは、水が低きにつくようだからです。それゆえ十分に思慮を尽くされず、事によっては貴殿の本意でないこともあって、後悔されることもあるでしょう。私の才はたいへん鈍いので、人の言葉を聞いてすぐに是非を決することができず、心を尽くして長く思案し、ようやくその是非を弁じます。それで毎事、私の心に十分の思慮を尽くすので、すでに決断してしまえば、是も非も私の心にある力をことごとく尽くしているので、後悔が少ないということです。
解説

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