名将言行録 / 『名将言行録』黑田孝高 跛足が天下を得ん
○秀吉、一日戲に近臣に向て、我死せば誰か我に代り天下を有つべきや、忌諱を憚らず、試に之を言へと言はる。是に於て、人々見る所を言ふに、皆五大老の中なり、秀吉頭を掉て曰く、否一人天下を得る者あり、汝等之を知らずやと。皆曰く知らずと。秀吉曰く、彼跛足之を得ん。皆曰く、彼の祿僅に十萬石なり、如何ぞ之を得ん。秀吉曰く、汝等未だ彼を知らず、故に疑ふなり、我嘗て高松を攻めし時、右府の訃音至る、依て夜を以て日に繼ぎ、東上して以て明智を伐亡せり。爾後交戰大小數回あり、我大節に臨み、呼息閉塞し、謀慮百端彼是決すること能はず、依て計を跛足に問ふに、立どころに裁斷し、慮る所輕忽粗鹵なりと雖も、盡く我が練熟するものと符合せり。或は遙に意表に出るもの數回あり、且つ其心剛健、能く人に任じ、宏度深遠天下に比類なし、我在世と雖も、彼若し得んと欲せば、輒ち得べし、我彼を見るに、諸大名の陋劣なる者に親暱懇款し、敢て表飾を爲さず、或は才智ある者に遇へば交を結び、鄙賤なりと雖も、禮儀を缺かず、機運を計り、時亂に乘じ、人をして粉骨努力せしむ。其半ばは之を得るに及び、藹然覆倒し、之を得るもの、彼跛足の尤も長ずる所なりと。或人之を孝高に告ぐ。孝高竊に曰く、南無三寶我家の禍なり、我痘頭梟の表あり、子孫の計を爲すに若かずと、是に於て髮を剃り、如水と號す。秀吉、常に世に怖しきものは德川と、黑田なり、然れども、德川は溫和なる人なり、黑田の瘡天窓は何にとも許し難きものなりと言はれしとぞ。
新字:○秀吉、一日戯に近臣に向て、我死せば誰か我に代り天下を有つべきや、忌諱を憚らず、試に之を言へと言はる。是に於て、人々見る所を言ふに、皆五大老の中なり、秀吉頭を掉て曰く、否一人天下を得る者あり、汝等之を知らずやと。皆曰く知らずと。秀吉曰く、彼跛足之を得ん。皆曰く、彼の禄僅に十万石なり、如何ぞ之を得ん。秀吉曰く、汝等未だ彼を知らず、故に疑ふなり、我嘗て高松を攻めし時、右府の訃音至る、依て夜を以て日に継ぎ、東上して以て明智を伐亡せり。爾後交戦大小数回あり、我大節に臨み、呼息閉塞し、謀慮百端彼是決すること能はず、依て計を跛足に問ふに、立どころに裁断し、慮る所軽忽粗鹵なりと雖も、尽く我が練熟するものと符合せり。或は遥に意表に出るもの数回あり、且つ其心剛健、能く人に任じ、宏度深遠天下に比類なし、我在世と雖も、彼若し得んと欲せば、輒ち得べし、我彼を見るに、諸大名の陋劣なる者に親暱懇款し、敢て表飾を為さず、或は才智ある者に遇へば交を結び、鄙賤なりと雖も、礼儀を欠かず、機運を計り、時乱に乗じ、人をして粉骨努力せしむ。其半ばは之を得るに及び、藹然覆倒し、之を得るもの、彼跛足の尤も長ずる所なりと。或人之を孝高に告ぐ。孝高窃に曰く、南無三宝我家の禍なり、我痘頭梟の表あり、子孫の計を為すに若かずと、是に於て髪を剃り、如水と号す。秀吉、常に世に怖しきものは徳川と、黒田なり、然れども、徳川は温和なる人なり、黒田の瘡天窓は何にとも許し難きものなりと言はれしとぞ。
書き下し
○秀吉、一日戲に近臣に向て、我死せば誰か我に代り天下を有つべきや、忌諱を憚らず、試に之を言へと言はる。是に於て、人々見る所を言ふに、皆五大老の中なり、秀吉頭を掉て曰く、否一人天下を得る者あり、汝等之を知らずやと。皆曰く知らずと。秀吉曰く、彼跛足之を得ん。皆曰く、彼の祿僅に十萬石なり、如何ぞ之を得ん。秀吉曰く、汝等未だ彼を知らず、故に疑ふなり、我嘗て高松を攻めし時、右府の訃音至る、依て夜を以て日に繼ぎ、東上して以て明智を伐亡せり。爾後交戰大小數回あり、我大節に臨み、呼息閉塞し、謀慮百端彼是決すること能はず、依て計を跛足に問ふに、立どころに裁斷し、慮る所輕忽粗鹵なりと雖も、盡く我が練熟するものと符合せり。或は遙に意表に出るもの數回あり、且つ其心剛健、能く人に任じ、宏度深遠天下に比類なし、我在世と雖も、彼若し得んと欲せば、輒ち得べし、我彼を見るに、諸大名の陋劣なる者に親暱懇款し、敢て表飾を爲さず、或は才智ある者に遇へば交を結び、鄙賤なりと雖も、禮儀を缺かず、機運を計り、時亂に乘じ、人をして粉骨努力せしむ。其半ばは之を得るに及び、藹然覆倒し、之を得るもの、彼跛足の尤も長ずる所なりと。或人之を孝高に告ぐ。孝高竊に曰く、南無三寶我家の禍なり、我痘頭梟の表あり、子孫の計を爲すに若かずと、是に於て髮を剃り、如水と號す。秀吉、常に世に怖しきものは德川と、黑田なり、然れども、德川は溫和なる人なり、黑田の瘡天窓は何にとも許し難きものなりと言はれしとぞ。
現代語訳
秀吉があるとき、戯れに近臣に向かって、私が死んだら誰が私に代わって天下を保つだろうか、忌み言葉を憚らず、試しに言ってみよと言いました。そこで人々は思うところを言いましたが、皆五大老の中の者でした。秀吉は首を振って、いや、一人、天下を得る者がいる、おまえたちはこれを知らないのかと言いました。皆、知りませんと言いました。秀吉は、あの跛足がこれを得るだろうと言いました。皆、彼の禄はわずか十万石です、どうしてこれを得ましょうと言いました。秀吉は、おまえたちはまだ彼を知らないから疑うのだ、私は以前、高松を攻めていたとき、右府の訃報が届いたので、夜を日に継いで東へ上り、明智を討ち滅ぼした。その後も大小数回の戦いがあった。私は大きな節目に臨むと、息が詰まって、謀りごとが百通りも浮かび、あれこれと決められなくなる。そこで計略を跛足に尋ねると、たちどころに裁断し、思うところは軽率で粗いように見えても、すべて私の練り上げたものと符合した。あるいは、はるかに意表に出るものも数回あった。かつ、その心は剛健で、よく人に任せ、度量の広く深いことは天下に比類がない。私が生きていても、彼がもし得ようと望めば、たやすく得られる。私は彼を見るに、諸大名の卑しい者にも親しく懇ろにし、あえて表向きを飾ることをせず、あるいは才智ある者に会えば交わりを結び、身分が低くても礼儀を欠かさず、機運を計り、時の乱れに乗じて、人に粉骨努力させる。その半分は得られれば、穏やかに覆い倒れ、これを得るのが、あの跛足の最も長じているところだと言いました。ある人がこれを孝高に告げました。孝高はひそかに、南無三宝、我が家の禍だ、私に痘頭梟の相がある、子孫の計をするに越したことはない、と言い、そこで髪を剃り、如水と号しました。秀吉は常に、世に恐ろしいものは徳川と黒田だ、しかし徳川は温和な人だ、黒田のかさ頭は何にしても許しがたいものだと言ったということです。
解説

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