名将言行録 / 『名将言行録』黑田孝高 黒田官兵衛の若き決断
美濃守職隆の子、勘解由次官に任す。後髮を剃り、如水圓清と號す、豐前六郡に封ぜられ、中津城に住す、慶長九年三月二十日卒、年五十九。 ○孝高、幼名萬吉と曰ふ。七歳の時、父職隆、寺に入れ書を學ばしむ、孝高、性筆紙を好まず、只射御を事とせり。十四歳の時、母を喪ひ慟哭他人に超越せり。十七八歳より和歌を嗜み頗る精を勵ませり。僧圓滿之を諫む。依て中道にして廢し、之より專ら弓箭の道を勉勵せり。 ○小寺藤兵衞政職、一日麾下の者及び、老臣を集めて、今天下の形勢を見るに、織田、毛利、三好の三家鼎足の如し、何れへ附き家を興さばや、各々心底を包まず申すべしとありければ、孝高進み出で、向後天下の權を握らん者は、必ず織田ならん、三好は主君を弑したる罪あれば、天などか、之を亡さゞらん、毛利は、一門に吉川、小早川の羽翼ありと雖も、軍法果敢行かず、信長は尾張半國より起り、義昭を取立將軍と成すに依り、諸人思付き、今は早や山城も手に入りぬ。後年天下の權を執らん者は必ず此人ならんと言ふ。一座の人々皆之に同じければ、乃ち孝高を使として、信長に一味の信を通じけり。時に天正元年七月なり。信長大に喜び、談話刻を移せり。辭するに及びて、信長、他日我中國を伐つ時、必ず汝を以て先鋒と爲さんと言はる。孝高諾して歸れり。此時木下藤吉郎秀吉の英姿あるを見て、深く結納せり。五年、秀吉播磨へ下向ありし時、阿彌陀ヶ宿に出迎ひ、姫路の城を掃除して、秀吉を迎へ、中國に向て弓箭を執るべき三策を定めたり。秀吉、孝高の智謀に感じ、盟書を取交はし、兄弟の約を結ばれたり。
新字:美濃守職隆の子、勘解由次官に任す。後髪を剃り、如水円清と号す、豊前六郡に封ぜられ、中津城に住す、慶長九年三月二十日卒、年五十九。 ○孝高、幼名万吉と曰ふ。七歳の時、父職隆、寺に入れ書を学ばしむ、孝高、性筆紙を好まず、只射御を事とせり。十四歳の時、母を喪ひ慟哭他人に超越せり。十七八歳より和歌を嗜み頗る精を励ませり。僧円満之を諫む。依て中道にして廃し、之より専ら弓箭の道を勉励せり。 ○小寺藤兵衛政職、一日麾下の者及び、老臣を集めて、今天下の形勢を見るに、織田、毛利、三好の三家鼎足の如し、何れへ附き家を興さばや、各々心底を包まず申すべしとありければ、孝高進み出で、向後天下の権を握らん者は、必ず織田ならん、三好は主君を弑したる罪あれば、天などか、之を亡さゞらん、毛利は、一門に吉川、小早川の羽翼ありと雖も、軍法果敢行かず、信長は尾張半国より起り、義昭を取立将軍と成すに依り、諸人思付き、今は早や山城も手に入りぬ。後年天下の権を執らん者は必ず此人ならんと言ふ。一座の人々皆之に同じければ、乃ち孝高を使として、信長に一味の信を通じけり。時に天正元年七月なり。信長大に喜び、談話刻を移せり。辞するに及びて、信長、他日我中国を伐つ時、必ず汝を以て先鋒と為さんと言はる。孝高諾して帰れり。此時木下藤吉郎秀吉の英姿あるを見て、深く結納せり。五年、秀吉播磨へ下向ありし時、阿弥陀ヶ宿に出迎ひ、姫路の城を掃除して、秀吉を迎へ、中国に向て弓箭を執るべき三策を定めたり。秀吉、孝高の智謀に感じ、盟書を取交はし、兄弟の約を結ばれたり。
書き下し
美濃守職隆の子、勘解由次官に任す。後髮を剃り、如水圓清と號す、豐前六郡に封ぜられ、中津城に住す、慶長九年三月二十日卒、年五十九。 ○孝高、幼名萬吉と曰ふ。七歳の時、父職隆、寺に入れ書を學ばしむ、孝高、性筆紙を好まず、只射御を事とせり。十四歳の時、母を喪ひ慟哭他人に超越せり。十七八歳より和歌を嗜み頗る精を勵ませり。僧圓滿之を諫む。依て中道にして廢し、之より專ら弓箭の道を勉勵せり。 ○小寺藤兵衞政職、一日麾下の者及び、老臣を集めて、今天下の形勢を見るに、織田、毛利、三好の三家鼎足の如し、何れへ附き家を興さばや、各々心底を包まず申すべしとありければ、孝高進み出で、向後天下の權を握らん者は、必ず織田ならん、三好は主君を弑したる罪あれば、天などか、之を亡さゞらん、毛利は、一門に吉川、小早川の羽翼ありと雖も、軍法果敢行かず、信長は尾張半國より起り、義昭を取立將軍と成すに依り、諸人思付き、今は早や山城も手に入りぬ。後年天下の權を執らん者は必ず此人ならんと言ふ。一座の人々皆之に同じければ、乃ち孝高を使として、信長に一味の信を通じけり。時に天正元年七月なり。信長大に喜び、談話刻を移せり。辭するに及びて、信長、他日我中國を伐つ時、必ず汝を以て先鋒と爲さんと言はる。孝高諾して歸れり。此時木下藤吉郎秀吉の英姿あるを見て、深く結納せり。五年、秀吉播磨へ下向ありし時、阿彌陀ヶ宿に出迎ひ、姫路の城を掃除して、秀吉を迎へ、中國に向て弓箭を執るべき三策を定めたり。秀吉、孝高の智謀に感じ、盟書を取交はし、兄弟の約を結ばれたり。
現代語訳
美濃守職隆の子で、勘解由次官に任じられました。後に髪を剃り、如水円清と号し、豊前六郡に封じられ、中津城に住みました。慶長九年三月二十日に亡くなり、年は五十九でした。 孝高は幼名を万吉といいました。七歳の時、父の職隆は寺に入れて書を学ばせましたが、孝高は生まれつき筆と紙を好まず、ただ弓馬の道に励みました。十四歳の時、母を亡くし、その嘆き悲しみようは他人にはるかに超えていました。十七、八歳から和歌を嗜み、大変に精を出しました。僧の円満がこれを諫めました。そこで途中でやめて、それからはもっぱら弓矢の道に励みました。 小寺藤兵衛政職は、ある日、配下の者と老臣を集めて、今天下の形勢を見ると、織田、毛利、三好の三家が鼎の足のようである、どこへ付いて家を興そうか、それぞれ本心を隠さず申せと言いました。孝高が進み出て、今後天下の権を握るのは、必ず織田でしょう、三好は主君を殺した罪があるので、天がどうしてこれを滅ぼさないことがありましょう、毛利は一門に吉川、小早川の羽翼がありますが、軍法が果敢に行われません、信長は尾張の半国から起こり、義昭を取り立てて将軍にしたので、人々が思い付き、今はすでに山城も手に入れました、後年天下の権を執るのは必ずこの人でしょう、と言いました。一座の人々は皆これに同意したので、孝高を使者として、信長に味方の信を通じました。時に天正元年七月でした。信長は大いに喜び、談話に時を移しました。辞する時、信長は、他日、中国を討つ時は、必ず汝を先鋒にすると言いました。孝高は承知して帰りました。このとき木下藤吉郎秀吉の英姿を見て、深く結びを交わしました。五年、秀吉が播磨に下向した時、阿弥陀ヶ宿に出迎え、姫路の城を掃除して秀吉を迎え、中国に向けて弓矢を執る三つの策を定めました。秀吉は孝高の智謀に感心し、盟書を取り交わして、兄弟の約束を結びました。
解説

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