名将言行録 / 『名将言行録』黑田孝高 朝鮮の仕置きへの意見
○此役(朝鮮の役)、一日秀吉、諸大老と朝鮮の事を議せらる。孝高壁越しに聞て、秀吉の耳に入る樣に高聲にて、去年大軍を朝鮮へ遣はされし時、家康か、利家か兩人の中、一人を總督として遣はされ、萬事二人の下知より出なば、軍法能く行はれて滯りあるまじ、若し又右の兩人を遣はさるゝこと成り難く思召さば、軍の道を知りたる某を遣はされば、軍法定まりて果敢行くべし、朝鮮人安堵して日本人に歸服せば、明は征伐せんこと安かるべし、加藤、小西若き大將なれば、血氣の勇のみにて、軍の道を知らず、其上兩人中惡しければ、清正が仕置をば、行長之を破り、行長が法令をば、清正之を用ひず、仕置一樣ならざる故に、朝鮮の人民、日本の下知法度を信ぜずして頼みなく思ひ、山林へ逃隱れて、安堵の思ひなし、日本より朝鮮へ、路遠ければ、兵粮武具等日本より運送すること成り難し、朝鮮の民を懷け、耕作元の如くさせ、兵糧の如き彼に徴すること然るべきに、仕置惡くして、日本人の通る、朝鮮の三道は、人民散失し、荒野と成て五穀なし、此の如く朝鮮巳に亡國となりぬれば、明に入るべき基なし、朝鮮の人民散失し、日本の運送も、亦相續きて成り難くば、此後味方の糧盡き、朝鮮の在陣不自由にして、士卒の苦勞堪へ難くば、思立ちたる大功必ず成就有る間敷由言ひければ、秀吉、壁越に聞き、實に尤と思はれけるとぞ。
新字:○此役(朝鮮の役)、一日秀吉、諸大老と朝鮮の事を議せらる。孝高壁越しに聞て、秀吉の耳に入る様に高声にて、去年大軍を朝鮮へ遣はされし時、家康か、利家か両人の中、一人を総督として遣はされ、万事二人の下知より出なば、軍法能く行はれて滞りあるまじ、若し又右の両人を遣はさるゝこと成り難く思召さば、軍の道を知りたる某を遣はされば、軍法定まりて果敢行くべし、朝鮮人安堵して日本人に帰服せば、明は征伐せんこと安かるべし、加藤、小西若き大将なれば、血気の勇のみにて、軍の道を知らず、其上両人中悪しければ、清正が仕置をば、行長之を破り、行長が法令をば、清正之を用ひず、仕置一様ならざる故に、朝鮮の人民、日本の下知法度を信ぜずして頼みなく思ひ、山林へ逃隠れて、安堵の思ひなし、日本より朝鮮へ、路遠ければ、兵粮武具等日本より運送すること成り難し、朝鮮の民を懐け、耕作元の如くさせ、兵糧の如き彼に徴すること然るべきに、仕置悪くして、日本人の通る、朝鮮の三道は、人民散失し、荒野と成て五穀なし、此の如く朝鮮巳に亡国となりぬれば、明に入るべき基なし、朝鮮の人民散失し、日本の運送も、亦相続きて成り難くば、此後味方の糧尽き、朝鮮の在陣不自由にして、士卒の苦労堪へ難くば、思立ちたる大功必ず成就有る間敷由言ひければ、秀吉、壁越に聞き、実に尤と思はれけるとぞ。
書き下し
○此役(朝鮮の役)、一日秀吉、諸大老と朝鮮の事を議せらる。孝高壁越しに聞て、秀吉の耳に入る樣に高聲にて、去年大軍を朝鮮へ遣はされし時、家康か、利家か兩人の中、一人を總督として遣はされ、萬事二人の下知より出なば、軍法能く行はれて滯りあるまじ、若し又右の兩人を遣はさるゝこと成り難く思召さば、軍の道を知りたる某を遣はされば、軍法定まりて果敢行くべし、朝鮮人安堵して日本人に歸服せば、明は征伐せんこと安かるべし、加藤、小西若き大將なれば、血氣の勇のみにて、軍の道を知らず、其上兩人中惡しければ、清正が仕置をば、行長之を破り、行長が法令をば、清正之を用ひず、仕置一樣ならざる故に、朝鮮の人民、日本の下知法度を信ぜずして頼みなく思ひ、山林へ逃隱れて、安堵の思ひなし、日本より朝鮮へ、路遠ければ、兵粮武具等日本より運送すること成り難し、朝鮮の民を懷け、耕作元の如くさせ、兵糧の如き彼に徴すること然るべきに、仕置惡くして、日本人の通る、朝鮮の三道は、人民散失し、荒野と成て五穀なし、此の如く朝鮮巳に亡國となりぬれば、明に入るべき基なし、朝鮮の人民散失し、日本の運送も、亦相續きて成り難くば、此後味方の糧盡き、朝鮮の在陣不自由にして、士卒の苦勞堪へ難くば、思立ちたる大功必ず成就有る間敷由言ひければ、秀吉、壁越に聞き、實に尤と思はれけるとぞ。
現代語訳
この朝鮮の役のとき、ある日、秀吉が諸大老と朝鮮のことを議論しました。孝高は壁越しに聞いて、秀吉の耳に入るように高い声で、こう言いました。去年大軍を朝鮮へ遣わされたとき、家康か利家か、二人のうち一人を総督として遣わされ、万事、その二人の指図から出ていれば、軍法がよく行われて滞りはなかったでしょう。もしまたその二人を遣わすことが難しいと思われるなら、軍の道を知っている私を遣わされれば、軍法が定まって、はかどるでしょう。朝鮮人が安心して日本人に帰服すれば、明は征伐することが容易です。加藤、小西は若い大将ですから、血気の勇ばかりで、軍の道を知りません。そのうえ、二人は仲が悪いので、清正の取り計らいを行長が破り、行長の法令を清正が用いません。仕置きが一様でないので、朝鮮の人民は日本の指図や法度を信用せず、頼りなく思い、山林へ逃げ隠れて、安心できません。日本から朝鮮へは道が遠く、兵糧や武具などを日本から運ぶことはできません。朝鮮の民を手なずけ、耕作を元のようにさせ、兵糧のようなものも現地で徴収するのがよいのに、仕置きが悪いので、日本人が通る朝鮮の三道は、人民が散り失せて荒れ野となり、五穀もありません。このように朝鮮がすでに亡国となってしまっては、明に入る基礎がありません。朝鮮の人民が散り失せ、日本からの運送も続けて行うことが難しければ、今後は味方の糧が尽き、朝鮮での在陣は不自由になり、兵士の苦労は耐えがたくなって、思い立った大功は必ず成就しません、と。秀吉は壁越しに聞いて、まことにもっともだと思ったということです。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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孫子・地形篇夫れ地形は、兵の助けなり。敵を料りて勝を制し、険厄遠近を計るは、上将の道なり。此を知りて戦いを用うる者は必ず勝ち、此を知らずして戦いを用うる者は必ず敗る。
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『長短経』覇図然れども大王の楚に背かざる者は、漢を以て弱しと為せばなり。夫れ楚兵は強しと雖も、天下は之に不義の名を負わす。其の約に背きて義帝を殺せるを以てなり。然り而して楚王は将に戦勝を以て自ら強しとせんとす。漢王は諸侯を収め、還りて滎陽を守り、蜀漢の粟を下し、溝を深くし塁を高くし、卒を分かちて徼を守り塞に乗る。楚人、兵を還すに、間つるに梁地を以てし、敵国に深入すること八九百里。戦わんと欲すれば則ち得ず、城を攻むれば則ち力能わず、老弱もて糧を千里の外に転ず。楚兵、滎陽・城皋に至るも、漢は堅守して動かず。進めば則ち攻むるを得ず、退けば則ち解くを得ず。故に曰く、楚は恃むに足らざるなり、と。楚をして勝たしむれば、則ち諸侯自ら危懼して相い救わん。夫れ楚の強きは、適だ以て天下の兵を致すに足るのみ。故に楚の漢に如かざるは、其の勢い見易きなり。