名将言行録 / 『名将言行録』黑田孝高 小田原の評と松田父子の処断
○小田原の役、秀吉諸營を巡見し、歸りて近世斯の如き大軍を聞かず、昔頼朝、富士川へ寄せんとせし時の勢、二十萬騎と聞く、其後北條千劔破、吉野の兩城を攻めし時の兵、二十萬人と筆せり、夫は上代なれば、定めて百萬の軍兵をも引廻はす良將も多からん、今此多勢を自由に使はんずる者、恐らくは六十餘州の中にあるべしとは覺えず、と言はれしが、良々ありて、またも掛引して見ん者は、黑田勘解由なり、外には知らずと言はれり。 ○此役、北條氏の世臣、松田憲秀返忠のこと、初めは堀秀政に寄りて內通す。秀政死後は、孝高に寄れり、然るに憲秀の二男、左馬介、此事を氏直に訴へたる故、反逆露顯し、憲秀も嫡子笠原新六郎も押籠めらる。落城の後、秀吉、孝高を呼で松田が子は父を訴へし者なれば、誅戮せよと命ぜらる。孝高、聞違ひし振して、新六郎を殺し、左馬介を助け置く。秀吉聞て、何にとて新六郎を殺せしや、左馬介は我にこそ忠あれ、尾張父子を氏直へ訴へし憎き奴なれば、殺せと申付けしにとあり。孝高、某が承り違ひしは無念なり、去ながら、尾張新六は譜第の主人を背きし者なれば、武道に背き、先祖の顏まで穢し候へば忠孝ともになきものなり、左馬介は父には背き、主人には忠あり、左馬介と取違ひ、新六郎を殺したりとて、損とは申されまじと申しければ、秀吉聞て、又跛足めが空とぼけせしと言はれ、左馬介其分に差置かる。人皆孝高が計らひを稱美せり。
新字:○小田原の役、秀吉諸営を巡見し、帰りて近世斯の如き大軍を聞かず、昔頼朝、富士川へ寄せんとせし時の勢、二十万騎と聞く、其後北条千剣破、吉野の両城を攻めし時の兵、二十万人と筆せり、夫は上代なれば、定めて百万の軍兵をも引廻はす良将も多からん、今此多勢を自由に使はんずる者、恐らくは六十余州の中にあるべしとは覚えず、と言はれしが、良々ありて、またも掛引して見ん者は、黒田勘解由なり、外には知らずと言はれり。 ○此役、北条氏の世臣、松田憲秀返忠のこと、初めは堀秀政に寄りて内通す。秀政死後は、孝高に寄れり、然るに憲秀の二男、左馬介、此事を氏直に訴へたる故、反逆露顕し、憲秀も嫡子笠原新六郎も押籠めらる。落城の後、秀吉、孝高を呼で松田が子は父を訴へし者なれば、誅戮せよと命ぜらる。孝高、聞違ひし振して、新六郎を殺し、左馬介を助け置く。秀吉聞て、何にとて新六郎を殺せしや、左馬介は我にこそ忠あれ、尾張父子を氏直へ訴へし憎き奴なれば、殺せと申付けしにとあり。孝高、某が承り違ひしは無念なり、去ながら、尾張新六は譜第の主人を背きし者なれば、武道に背き、先祖の顔まで穢し候へば忠孝ともになきものなり、左馬介は父には背き、主人には忠あり、左馬介と取違ひ、新六郎を殺したりとて、損とは申されまじと申しければ、秀吉聞て、又跛足めが空とぼけせしと言はれ、左馬介其分に差置かる。人皆孝高が計らひを称美せり。
書き下し
○小田原の役、秀吉諸營を巡見し、歸りて近世斯の如き大軍を聞かず、昔頼朝、富士川へ寄せんとせし時の勢、二十萬騎と聞く、其後北條千劔破、吉野の兩城を攻めし時の兵、二十萬人と筆せり、夫は上代なれば、定めて百萬の軍兵をも引廻はす良將も多からん、今此多勢を自由に使はんずる者、恐らくは六十餘州の中にあるべしとは覺えず、と言はれしが、良々ありて、またも掛引して見ん者は、黑田勘解由なり、外には知らずと言はれり。 ○此役、北條氏の世臣、松田憲秀返忠のこと、初めは堀秀政に寄りて內通す。秀政死後は、孝高に寄れり、然るに憲秀の二男、左馬介、此事を氏直に訴へたる故、反逆露顯し、憲秀も嫡子笠原新六郎も押籠めらる。落城の後、秀吉、孝高を呼で松田が子は父を訴へし者なれば、誅戮せよと命ぜらる。孝高、聞違ひし振して、新六郎を殺し、左馬介を助け置く。秀吉聞て、何にとて新六郎を殺せしや、左馬介は我にこそ忠あれ、尾張父子を氏直へ訴へし憎き奴なれば、殺せと申付けしにとあり。孝高、某が承り違ひしは無念なり、去ながら、尾張新六は譜第の主人を背きし者なれば、武道に背き、先祖の顏まで穢し候へば忠孝ともになきものなり、左馬介は父には背き、主人には忠あり、左馬介と取違ひ、新六郎を殺したりとて、損とは申されまじと申しければ、秀吉聞て、又跛足めが空とぼけせしと言はれ、左馬介其分に差置かる。人皆孝高が計らひを稱美せり。
現代語訳
小田原の役のとき、秀吉は諸営を見回り、帰って、近ごろこのような大軍は聞いたことがない、昔、頼朝が富士川へ攻め寄せようとしたとき、勢は二十万騎と聞く、その後、北条が千早、吉野の両城を攻めたとき、兵は二十万人と書かれている、それは上代のことだから、きっと百万の軍勢を引き回すような良将も多かっただろう、今この多勢を自由に使えるような者は、おそらく六十余州の中にいるとは思えない、と言いました。しばらくして、またも駆け引きをして見られる者は黒田勘解由だけだ、他は知らない、と言ったということです。 この役で、北条氏の譜代の臣・松田憲秀が寝返ったことは、初めは堀秀政を通じて内通し、秀政の死後は孝高を通じました。ところが憲秀の二男・左馬介が、このことを氏直に訴えたので、反逆が露顕し、憲秀も嫡子の笠原新六郎も押し込められました。落城の後、秀吉は孝高を呼び、松田の子は父を訴えた者であるから誅せよと命じました。孝高は聞き違えたふりをして、新六郎を殺し、左馬介を助けておきました。秀吉は聞いて、どうして新六郎を殺したのか、左馬介は私には忠があるが、尾張父子を氏直に訴えた憎い奴であるから殺せと言いつけたのに、と言いました。孝高は、私が承り違えたのは無念ですが、そうは言っても、尾張・新六は譜代の主人に背いた者であるので、武道に背き、先祖の顔まで汚すことになり、忠孝ともにない者です、左馬介は父に背き、主人には忠があります、左馬介と取り違えて新六郎を殺したとしても、損とは言えないでしょうと申しました。秀吉は聞いて、またあの跛足めが空とぼけをしたと言い、左馬介はそのままにして置かれました。人は皆、孝高の計らいをほめたたえました。
解説

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