名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 義経評と刀当て
○秀吉、諸臣と古今の人物を評論せし時、諸士皆一同に義經が一の谷、八島の功を稱し、名將なりと言ふ。秀吉、義經少し勇あれども、威儀なし、然らば將帥の器にあらず、如何となれば梶原と逆櫓の論を以て見るべし、頼朝の連枝にして、殊更軍の都督たり、夫に梶原が猪武者抔と申しゝことあるを以て見るべし、是偏に義經が威儀なきによれり、美稱するに足らんや、但古より功の卓落たるは、我と頼朝とのみ。然れども頼朝は源家の嫡々たれば、功を成し易し。我は匹夫よりして、應仁以來縷の如く亂れたる天下を、悉く打靡て、今四海を掌握にす、然らば予が功は、頼朝に百倍なりと言はれけり。 ○秀吉、伏見にて、一日廣間に出られしに、五腰の刀を見て、試みに其名を言はんとて指れしに、少しも違はず。前田玄以、誠に神智のおはせしよと驚きければ、秀吉笑て、何の子細もなきことなり、秀家は美麗を好む故に、黄金を鐫めたる刀是なるべし、景勝は、父の時より長刀を好めり、寸の延びたる刀を是にて當てたりき。利家は又左衞門と言ひし時より魁殿の武功により、今大國を領すれども、昔を忘れず革まきたる柄の刀、是他の主にあらずと思へり。輝元は異風を好めり、異なる體に飾なせる刀是ならん。家康は大勇にして、一劍を頼むの心なし、取繕ひたることもなく、又美麗もなき刀、其志に叶ひたり、此を以て察しけるに、違はざりけりと言はれけり。
新字:○秀吉、諸臣と古今の人物を評論せし時、諸士皆一同に義経が一の谷、八島の功を称し、名将なりと言ふ。秀吉、義経少し勇あれども、威儀なし、然らば将帥の器にあらず、如何となれば梶原と逆櫓の論を以て見るべし、頼朝の連枝にして、殊更軍の都督たり、夫に梶原が猪武者抔と申しゝことあるを以て見るべし、是偏に義経が威儀なきによれり、美称するに足らんや、但古より功の卓落たるは、我と頼朝とのみ。然れども頼朝は源家の嫡々たれば、功を成し易し。我は匹夫よりして、応仁以来縷の如く乱れたる天下を、悉く打靡て、今四海を掌握にす、然らば予が功は、頼朝に百倍なりと言はれけり。 ○秀吉、伏見にて、一日広間に出られしに、五腰の刀を見て、試みに其名を言はんとて指れしに、少しも違はず。前田玄以、誠に神智のおはせしよと驚きければ、秀吉笑て、何の子細もなきことなり、秀家は美麗を好む故に、黄金を鐫めたる刀是なるべし、景勝は、父の時より長刀を好めり、寸の延びたる刀を是にて当てたりき。利家は又左衛門と言ひし時より魁殿の武功により、今大国を領すれども、昔を忘れず革まきたる柄の刀、是他の主にあらずと思へり。輝元は異風を好めり、異なる体に飾なせる刀是ならん。家康は大勇にして、一剣を頼むの心なし、取繕ひたることもなく、又美麗もなき刀、其志に叶ひたり、此を以て察しけるに、違はざりけりと言はれけり。
書き下し
○秀吉、諸臣と古今の人物を評論せし時、諸士皆一同に義經が一の谷、八島の功を稱し、名將なりと言ふ。秀吉、義經少し勇あれども、威儀なし、然らば將帥の器にあらず、如何となれば梶原と逆櫓の論を以て見るべし、頼朝の連枝にして、殊更軍の都督たり、夫に梶原が猪武者抔と申しゝことあるを以て見るべし、是偏に義經が威儀なきによれり、美稱するに足らんや、但古より功の卓落たるは、我と頼朝とのみ。然れども頼朝は源家の嫡々たれば、功を成し易し。我は匹夫よりして、應仁以來縷の如く亂れたる天下を、悉く打靡て、今四海を掌握にす、然らば予が功は、頼朝に百倍なりと言はれけり。 ○秀吉、伏見にて、一日廣間に出られしに、五腰の刀を見て、試みに其名を言はんとて指れしに、少しも違はず。前田玄以、誠に神智のおはせしよと驚きければ、秀吉笑て、何の子細もなきことなり、秀家は美麗を好む故に、黄金を鐫めたる刀是なるべし、景勝は、父の時より長刀を好めり、寸の延びたる刀を是にて當てたりき。利家は又左衞門と言ひし時より魁殿の武功により、今大國を領すれども、昔を忘れず革まきたる柄の刀、是他の主にあらずと思へり。輝元は異風を好めり、異なる體に飾なせる刀是ならん。家康は大勇にして、一劍を頼むの心なし、取繕ひたることもなく、又美麗もなき刀、其志に叶ひたり、此を以て察しけるに、違はざりけりと言はれけり。
現代語訳
秀吉が家臣たちと古今の人物を評論したとき、家臣は皆そろって、義経の一の谷、屋島の功績をほめ、名将だと言いました。秀吉は、義経は少し勇気はあるが威儀がない、それなら大将の器ではない、なぜなら梶原との逆櫓の論争で見るがよい、頼朝の弟で、そのうえ軍の都督であったのに、梶原が猪武者などと言ったことで分かる、これはひとえに義経に威儀がなかったからだ、ほめるに足りない、ただし昔から功績が卓越したのは、私と頼朝だけだ、しかし頼朝は源氏の嫡流であるから功を成しやすい、私は匹夫から出て、応仁以来糸のように乱れた天下をことごとく従わせ、今は四海を掌中にした、それなら私の功は頼朝の百倍だ、と言いました。 秀吉が伏見で、ある日、広間に出て、五振りの刀を見て、試みにその持ち主の名を言い当てようと言って指さすと、少しも違いませんでした。前田玄以が、まことに神のような智だと驚くと、秀吉は笑って、何も理由のないことではない、秀家は美麗を好むので金を象嵌した刀がこれだ、景勝は父の代から長刀を好んだ、寸の延びた刀がこれだ、利家は又左衛門と言った頃から先駆けの武功で今は大国を領しているが、昔を忘れず革巻きの柄の刀、これは他の主ではない、輝元は異風を好む、変わった飾りの刀がこれだ、家康は大勇で一振りに頼む心がなく、取り繕わず美麗でもない刀が、その志に合う、こうして察したので間違いなかったと言いました。
解説

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