名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 金を貯めず配る
○秀吉、出遊毎に銀錢を大財布に入れて持行き途中に遊び居る童子、又は乞食非人に、悉くまき與へて歸れり。又金藏に金銀充滿せしを、藏拂と名づけ、二度まで取出し諸大名に配分せり。其言に曰く、金銀多分積み置くは、能き士を牢へ押込め置くに等しとて、殘らず開き與へられたり。又秀吉諸大名へ加增を賜はるに、少しづつにてはなく、一箇二箇國抔賜はる、或者左樣にては御藏入少く成り候はんと申ければ、秀吉、我天下を取れば、大名に遣はすとても、皆我國なり、其藏入なくば、毎日諸大名より一飯を養はれて濟むことなりと言はれけり。 ○秀吉、諸大名の勝手不如意なる人之ある由を聞けば、某は身體ならざる由なり、普請を申付くべくと言はる。普請の法は假令ば二百人にて勤むべき程の普請を、四百人程の人積りにして扶持方を渡し、其大名の國元を罷出候日限を始として、普請成就までの内の扶持方を渡す故、普請を合力と思はる。又は合力四百人程のことにて、二百人程の普請出來は、自他ともに能きことゝの積りなり。
新字:○秀吉、出遊毎に銀銭を大財布に入れて持行き途中に遊び居る童子、又は乞食非人に、悉くまき与へて帰れり。又金蔵に金銀充満せしを、蔵払と名づけ、二度まで取出し諸大名に配分せり。其言に曰く、金銀多分積み置くは、能き士を牢へ押込め置くに等しとて、残らず開き与へられたり。又秀吉諸大名へ加增を賜はるに、少しづつにてはなく、一箇二箇国抔賜はる、或者左様にては御蔵入少く成り候はんと申ければ、秀吉、我天下を取れば、大名に遣はすとても、皆我国なり、其蔵入なくば、毎日諸大名より一飯を養はれて済むことなりと言はれけり。 ○秀吉、諸大名の勝手不如意なる人之ある由を聞けば、某は身体ならざる由なり、普請を申付くべくと言はる。普請の法は仮令ば二百人にて勤むべき程の普請を、四百人程の人積りにして扶持方を渡し、其大名の国元を罷出候日限を始として、普請成就までの内の扶持方を渡す故、普請を合力と思はる。又は合力四百人程のことにて、二百人程の普請出来は、自他ともに能きことゝの積りなり。
書き下し
○秀吉、出遊毎に銀錢を大財布に入れて持行き途中に遊び居る童子、又は乞食非人に、悉くまき與へて歸れり。又金藏に金銀充滿せしを、藏拂と名づけ、二度まで取出し諸大名に配分せり。其言に曰く、金銀多分積み置くは、能き士を牢へ押込め置くに等しとて、殘らず開き與へられたり。又秀吉諸大名へ加增を賜はるに、少しづつにてはなく、一箇二箇國抔賜はる、或者左樣にては御藏入少く成り候はんと申ければ、秀吉、我天下を取れば、大名に遣はすとても、皆我國なり、其藏入なくば、毎日諸大名より一飯を養はれて濟むことなりと言はれけり。 ○秀吉、諸大名の勝手不如意なる人之ある由を聞けば、某は身體ならざる由なり、普請を申付くべくと言はる。普請の法は假令ば二百人にて勤むべき程の普請を、四百人程の人積りにして扶持方を渡し、其大名の國元を罷出候日限を始として、普請成就までの内の扶持方を渡す故、普請を合力と思はる。又は合力四百人程のことにて、二百人程の普請出來は、自他ともに能きことゝの積りなり。
現代語訳
秀吉は外出のたびに、銀銭を大きな財布に入れて持って行き、道中で遊んでいる子どもや乞食、非人にまで残らず撒き与えて帰りました。また、金蔵に金銀が満ちあふれると、これを蔵払いと名づけ、二度まで取り出して諸大名に分配しました。その言葉は、金銀をたくさん積んでおくのは、よい士を牢に押し込めておくのと同じだと言って、残らず開いて与えました。また、秀吉は諸大名に加増するとき、少しずつではなく、一国、二国などを与えました。ある者が、それでは御蔵入りの領地が少なくなってしまうと申し上げると、秀吉は、私が天下を取れば、大名に与えるといっても皆私の国だ、蔵入りがなければ、毎日諸大名から一飯ずつ養われれば済むことだと言いました。 秀吉は、諸大名の中に財政が苦しい人がいると聞くと、某は困っているそうだから、普請を言いつけようと言いました。普請の方法は、たとえば二百人で勤まるほどの普請を、四百人ほどの見積もりにして扶持を渡し、その大名が国元を出る日から普請の完成まで扶持を渡すので、普請を援助と思うようにさせるのです。または、援助は四百人ほどのことで、二百人ほどの普請ができれば、自他ともによい、という見積もりでした。
解説

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名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 国病を治す三味の薬○秀吉、無學の人なれども、常に伽の者に、碩學の僧、又博聞の者を召し、臥しながら咄を聞て、國を治め天下を平らかにする道、敵を擒にし、城を攻るの策を問ふ。各和漢の書籍にあることを以て答ふ、心に叶ひしことあらば、即時に之を行へり。 ○秀吉、國病を治する三昧の妙藥あり、一に天を畏れ、二に身を修め、三に儉を守る。禁物四味、一に私を爲し、二に邪慾を思ひ、三に物に怠り、四に非義を行ふ。右四味を去り、三味を用ふれば、國病生ぜず。又加減關白圓と云ふあり。正直五兩、堪忍四兩、思案三兩、分別二兩、用捨一兩、禁物、無理、慮外、過言、無心、油斷。 ○秀吉、平日近臣への教訓、大酒飲むべからず、朝寢すべからず、物に退屈すべからず、女に心ゆるすな、少しの事も分別せよ愚痴なる者は恐れよ、我行末を思ひ、物爭すべからず、公儀を恐れよ、火を慎め、心に關をせよ、苦を樂にせよ、樂を苦にせよ。貴人は無理なるものと思へ、主人は被官に慈悲をせよ、被官は家を修めよ、人は義理を肝要とせよ、天道を恐れよ、公事すべからず、婦人憐むべし、假初にも虛言すべからず、人は氣魂を專らにすべし、婬欲を中道にすべし、死後の分別すべし、人の先途を見屆くべし、深ざれすべからず、醉狂人には道をよくべし。
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