名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 謙信信玄も頼朝も友達
○秀吉、小田原より奧州に赴く時、宇都宮にて、佐野天德寺夜話に出て、上杉謙信、武田信玄、弓矢盛りのことゞもを語りたり。秀吉、ヤア天德寺、其謙信、信玄の兩坊主も、早く死て外聞が能きぞ、今まで生きて居らば、我乘物の先へ立、朱傘をかたげさせ、上洛の供をさすべきに、早く死て一段の仕合なり、何んの車懸座備皆たはごとなることゞもなりと言はれしとぞ。 ○小田原平ぎて後、秀吉、鎌倉を巡見し、白旗の宮へ行き、賴朝の木像を見、其像に向て、微少なる身にて、天下を伐平げ、四海を掌の内に握りしは、御身と、我なり、去ながら、御身は多田滿仲の後胤にて、王氏を出ること遠からず、殊に賴義、義家、東國の守護にて、諸人皆其馴染深し、殊に爲義、義朝、關東を管領したる故に、御身流人と成られても、諸人之を慕ひ奪ぶ。此故に兵を擧ぐると等しく、關東皆屬從して、天下一統に手間入らざりき。我は元と卑賤にて、氏も系圖もなき身なるに、筒樣に天下を取りたること、御身よりは我功勝れり、去ながら、御身と我は、天下友達なりとて、木像の背をほと〱たゝかれたり。 ○秀吉既に北條氏を亡し、其故國を以て家康を封じ、居所は江戸城然るべしと言はれたり。其頃江戸は、城も形計りにて、城の樣にも之なく、町家杯も百計りもあるか、なしの體にて、淺間敷こと言はん方なし、人皆鎌倉か、小田原なるべしと言ひしが、案の外なりき。去れども江戸は日に月に繁榮しければ、人初めて秀吉の明鑒に服せり。
新字:○秀吉、小田原より奥州に赴く時、宇都宮にて、佐野天徳寺夜話に出て、上杉謙信、武田信玄、弓矢盛りのことゞもを語りたり。秀吉、ヤア天徳寺、其謙信、信玄の両坊主も、早く死て外聞が能きぞ、今まで生きて居らば、我乗物の先へ立、朱傘をかたげさせ、上洛の供をさすべきに、早く死て一段の仕合なり、何んの車懸座備皆たはごとなることゞもなりと言はれしとぞ。 ○小田原平ぎて後、秀吉、鎌倉を巡見し、白旗の宮へ行き、頼朝の木像を見、其像に向て、微少なる身にて、天下を伐平げ、四海を掌の内に握りしは、御身と、我なり、去ながら、御身は多田満仲の後胤にて、王氏を出ること遠からず、殊に頼義、義家、東国の守護にて、諸人皆其馴染深し、殊に為義、義朝、関東を管領したる故に、御身流人と成られても、諸人之を慕ひ奪ぶ。此故に兵を挙ぐると等しく、関東皆属従して、天下一統に手間入らざりき。我は元と卑賤にて、氏も系図もなき身なるに、筒様に天下を取りたること、御身よりは我功勝れり、去ながら、御身と我は、天下友達なりとて、木像の背をほと〱たゝかれたり。 ○秀吉既に北条氏を亡し、其故国を以て家康を封じ、居所は江戸城然るべしと言はれたり。其頃江戸は、城も形計りにて、城の様にも之なく、町家杯も百計りもあるか、なしの体にて、浅間敷こと言はん方なし、人皆鎌倉か、小田原なるべしと言ひしが、案の外なりき。去れども江戸は日に月に繁栄しければ、人初めて秀吉の明鑒に服せり。
書き下し
○秀吉、小田原より奧州に赴く時、宇都宮にて、佐野天德寺夜話に出て、上杉謙信、武田信玄、弓矢盛りのことゞもを語りたり。秀吉、ヤア天德寺、其謙信、信玄の兩坊主も、早く死て外聞が能きぞ、今まで生きて居らば、我乘物の先へ立、朱傘をかたげさせ、上洛の供をさすべきに、早く死て一段の仕合なり、何んの車懸座備皆たはごとなることゞもなりと言はれしとぞ。 ○小田原平ぎて後、秀吉、鎌倉を巡見し、白旗の宮へ行き、賴朝の木像を見、其像に向て、微少なる身にて、天下を伐平げ、四海を掌の内に握りしは、御身と、我なり、去ながら、御身は多田滿仲の後胤にて、王氏を出ること遠からず、殊に賴義、義家、東國の守護にて、諸人皆其馴染深し、殊に爲義、義朝、關東を管領したる故に、御身流人と成られても、諸人之を慕ひ奪ぶ。此故に兵を擧ぐると等しく、關東皆屬從して、天下一統に手間入らざりき。我は元と卑賤にて、氏も系圖もなき身なるに、筒樣に天下を取りたること、御身よりは我功勝れり、去ながら、御身と我は、天下友達なりとて、木像の背をほと〱たゝかれたり。 ○秀吉既に北條氏を亡し、其故國を以て家康を封じ、居所は江戸城然るべしと言はれたり。其頃江戸は、城も形計りにて、城の樣にも之なく、町家杯も百計りもあるか、なしの體にて、淺間敷こと言はん方なし、人皆鎌倉か、小田原なるべしと言ひしが、案の外なりき。去れども江戸は日に月に繁榮しければ、人初めて秀吉の明鑒に服せり。
現代語訳
秀吉は小田原から奥州に赴く途中、宇都宮で、佐野天徳寺が夜話に出て、上杉謙信、武田信玄の、弓矢の盛んだったことなどを語った。秀吉は、ヤア天徳寺、その謙信、信玄の二人の坊主も、早く死んで外聞がよかったぞ、今まで生きていたら、我が乗り物の先に立たせ、朱傘をかざさせて、上洛の供をさせるところだった、早く死んで一段のしあわせだ、何の車懸り、座備えも皆たわごとになってしまった、と言われたという。 小田原が平定された後、秀吉は鎌倉を巡見し、白旗の宮に行き、頼朝の木像を見て、その像に向かって、小さな身で、天下を討ち平らげ、四海を掌のうちに握ったのは、御身と、我である、とはいえ、御身は多田満仲の後胤で、王氏を出ること遠くなく、殊に頼義、義家は東国の守護で、人々はみなそれに馴染みが深く、殊に為義、義朝は関東を管領したので、御身は流人となられても、人々はこれを慕い尊んだ。このため、兵を挙げるとすぐに、関東はみな従って、天下一統に手間がかからなかった。我はもとは卑賤で、氏も系図もない身であるのに、このように天下を取ったことは、御身よりも我の功が勝っている、とはいえ、御身と我は、天下の友達である、と言って、木像の背をほとほとと叩かれた。 秀吉はすでに北条氏を滅ぼし、その旧領を家康に与え、居所は江戸城がよいと言われた。そのころの江戸は、城も形ばかりで、城の様子もなく、町家なども百軒ほどあるかないかの様子で、あさましいと言うほかなく、人はみな鎌倉か小田原であろうと言っていたが、案に相違した。しかし江戸は日に月に繁栄したので、人々は初めて秀吉の明鑑に感服した。
解説

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名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 人を和ませる器量○土屋檢校曰く、甲州者申すは、信玄長命ならば、天下を取り給はんとなり、其節吾等も左思ひしが、只今存ずるに、左にはあらず、仔細は佐野天德寺、信玄、謙信へ目見に出しに、兩人ながら急度致したる挨拶なり、天德寺、顏を擧げ對せんと思ひけれども、威强くして能はず、後又天德寺、秀吉に目見に出でし時に、披露すると均く、天德寺參られたるかとて、傍へ寄られ、さても久しくこそ參られたると、膝を叩き、殊の御念比にてありしなり。故に染々と大切に存奉りしと言へり。是を以て考ふるに、箇樣の器量にてこそ人も和し、下も自から掌握に入らめ、信玄、謙信抔とは違ひたりと。 ○秀吉の家臣、暇を願ふ者あれば、暇乞として是へ出づべしと、呼て手づから茶を立てもてなし、其上にて脇差抔引き與へ、何方へ行ても思は敷なくば、又歸り來るべし、何つにても抱へ得さすべしと、最と懇に言はれて、其者に暇を賜はりけり。偖外へ在付兼ねし者、再び立歸れば、本地を與へ、元の如くにして召使はれけり。
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名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 義経評と刀当て○秀吉、諸臣と古今の人物を評論せし時、諸士皆一同に義經が一の谷、八島の功を稱し、名將なりと言ふ。秀吉、義經少し勇あれども、威儀なし、然らば將帥の器にあらず、如何となれば梶原と逆櫓の論を以て見るべし、頼朝の連枝にして、殊更軍の都督たり、夫に梶原が猪武者抔と申しゝことあるを以て見るべし、是偏に義經が威儀なきによれり、美稱するに足らんや、但古より功の卓落たるは、我と頼朝とのみ。然れども頼朝は源家の嫡々たれば、功を成し易し。我は匹夫よりして、應仁以來縷の如く亂れたる天下を、悉く打靡て、今四海を掌握にす、然らば予が功は、頼朝に百倍なりと言はれけり。 ○秀吉、伏見にて、一日廣間に出られしに、五腰の刀を見て、試みに其名を言はんとて指れしに、少しも違はず。前田玄以、誠に神智のおはせしよと驚きければ、秀吉笑て、何の子細もなきことなり、秀家は美麗を好む故に、黄金を鐫めたる刀是なるべし、景勝は、父の時より長刀を好めり、寸の延びたる刀を是にて當てたりき。利家は又左衞門と言ひし時より魁殿の武功により、今大國を領すれども、昔を忘れず革まきたる柄の刀、是他の主にあらずと思へり。輝元は異風を好めり、異なる體に飾なせる刀是ならん。家康は大勇にして、一劍を頼むの心なし、取繕ひたることもなく、又美麗もなき刀、其志に叶ひたり、此を以て察しけるに、違はざりけりと言はれけり。
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