名将言行録 / 『名将言行録』明智光秀 評・怒罵と儀礼の溝
秀吉など、賞められるときは、信長に顏を撫でられたと云ふが、賞めるのに叱るのに武將を子供扱ひにしたわけで、秀吉あたりだと信長の怒罵も嘲笑も(心易立)として受け流せるが、儀禮を重んじ、合理を忘れ得ない光秀としては、どうにも我慢出來なくなつてゐたのであらう。信長としては、體裁ぶつて光秀を、頭ごなしにやつつける方が、却つて痛快なので、とき〴〵手きびしくきめつけたのだらう。四十萬石もの大名にしてやつたのだから、怒る筈はないと、高をくくりながら……。信長は、賞賜の點は、思ひ切つたことをしてゐる丈に、却つて油斷してゐたのだらう。淺井長政が、叛旗を飜したときなども、淺井を好遇してゐた丈に、初は容易に信じなかつたのである。人材を見つけるには、非凡の才があつたが、自分自身に對する反省が足りないために、時々かうした過誤を犯して、それがつひには、生命取りになつたのである。 當時、主人を殺した者には、赤松滿祐を初め、松永久秀、齋藤道三、宇喜多直家などがあり、信長だつて、主家の斯波を倒して自立してゐるわけである。江戸時代の君臣道德で、光秀を律するのは酷である。秀吉なども、主家の子供なら殺してゐるのである。 士を愛したことは、いろ〳〵な逸話で分る通である。一人の裏切も出ずに、大事を決行し、多くの家來は、光秀のために、潔く殉じてゐるのだから、武將としては、相當な人傑であり、政治家としても立派な素質を持つた人物である。
新字:秀吉など、賞められるときは、信長に顔を撫でられたと云ふが、賞めるのに叱るのに武将を子供扱ひにしたわけで、秀吉あたりだと信長の怒罵も嘲笑も(心易立)として受け流せるが、儀礼を重んじ、合理を忘れ得ない光秀としては、どうにも我慢出来なくなつてゐたのであらう。信長としては、体裁ぶつて光秀を、頭ごなしにやつつける方が、却つて痛快なので、とき〴〵手きびしくきめつけたのだらう。四十万石もの大名にしてやつたのだから、怒る筈はないと、高をくくりながら……。信長は、賞賜の点は、思ひ切つたことをしてゐる丈に、却つて油断してゐたのだらう。浅井長政が、叛旗を翻したときなども、浅井を好遇してゐた丈に、初は容易に信じなかつたのである。人材を見つけるには、非凡の才があつたが、自分自身に対する反省が足りないために、時々かうした過誤を犯して、それがつひには、生命取りになつたのである。 当時、主人を殺した者には、赤松満祐を初め、松永久秀、斎藤道三、宇喜多直家などがあり、信長だつて、主家の斯波を倒して自立してゐるわけである。江戸時代の君臣道徳で、光秀を律するのは酷である。秀吉なども、主家の子供なら殺してゐるのである。 士を愛したことは、いろ〳〵な逸話で分る通である。一人の裏切も出ずに、大事を決行し、多くの家来は、光秀のために、潔く殉じてゐるのだから、武将としては、相当な人傑であり、政治家としても立派な素質を持つた人物である。
書き下し
秀吉など、賞められるときは、信長に顏を撫でられたと云ふが、賞めるのに叱るのに武將を子供扱ひにしたわけで、秀吉あたりだと信長の怒罵も嘲笑も(心易立)として受け流せるが、儀禮を重んじ、合理を忘れ得ない光秀としては、どうにも我慢出來なくなつてゐたのであらう。信長としては、體裁ぶつて光秀を、頭ごなしにやつつける方が、却つて痛快なので、とき〴〵手きびしくきめつけたのだらう。四十萬石もの大名にしてやつたのだから、怒る筈はないと、高をくくりながら……。信長は、賞賜の點は、思ひ切つたことをしてゐる丈に、却つて油斷してゐたのだらう。淺井長政が、叛旗を飜したときなども、淺井を好遇してゐた丈に、初は容易に信じなかつたのである。人材を見つけるには、非凡の才があつたが、自分自身に對する反省が足りないために、時々かうした過誤を犯して、それがつひには、生命取りになつたのである。 當時、主人を殺した者には、赤松滿祐を初め、松永久秀、齋藤道三、宇喜多直家などがあり、信長だつて、主家の斯波を倒して自立してゐるわけである。江戸時代の君臣道德で、光秀を律するのは酷である。秀吉なども、主家の子供なら殺してゐるのである。 士を愛したことは、いろ〳〵な逸話で分る通である。一人の裏切も出ずに、大事を決行し、多くの家來は、光秀のために、潔く殉じてゐるのだから、武將としては、相當な人傑であり、政治家としても立派な素質を持つた人物である。
現代語訳
秀吉など、褒められるときは、信長に顔を撫でられたと言うが、褒めるにも叱るにも武将を子供扱いにしたわけで、秀吉あたりなら信長の怒罵も嘲笑も「心易立て」と受け流せるが、儀礼を重んじ、合理を忘れられない光秀としては、どうにも我慢できなくなっていたのであろう。信長としては、体裁ぶっている光秀を、頭ごなしにやっつけるほうが、かえって痛快なので、ときどき手厳しくきめつけたのだろう。四十万石もの大名にしてやったのだから、怒る筈はないと、高をくくりながら……。信長は、賞賜の点は、思い切ったことをしているだけに、かえって油断していたのだろう。浅井長政が反旗を翻したときなども、浅井を好遇していただけに、初めは容易に信じなかったのである。人材を見つけるには、非凡の才があったが、自分自身に対する反省が足りないために、時々こうした過誤を犯して、それがついには、命取りになったのである。 当時、主人を殺した者には、赤松満祐をはじめ、松永久秀、斎藤道三、宇喜多直家などがあり、信長だって、主家の斯波を倒して自立しているわけである。江戸時代の君臣道徳で、光秀を律するのは酷である。秀吉なども、主家の子供なら殺しているのである。 士を愛したことは、いろいろな逸話で分かる通りである。一人の裏切りも出ずに、大事を決行し、多くの家来は、光秀のために、潔く殉じているのだから、武将としては、相当な人傑であり、政治家としても立派な素質を持った人物である。
解説

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