名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 光秀の舌を巻かせた褒美
○明智光秀の臣、宮部加兵衞、初め秀吉に仕ふ。光秀、一日宮部に向ひ、其方嚮きに秀吉に奉公せしと聞く、秀吉の人を使ふ樣如何と尋ねければ、左せる異なることも之れなく候、去ながら誰にても少し出來たることには、思ひの外なる褒美にて驚く程のことにて候と申ければ、光秀、舌を振ひしとぞ。 ○秀吉は磊落の氣象故、人に對して詞常に傲れり。光秀は謹厚の人なれば、詞常に慇懃なり。一日秀吉、光秀に向ひ、貴殿は周山に夜普請して謀反を企てらるゝと、人皆言へり、如何なりと問ふ。光秀、やくたいもないことを言はるゝと言て、止みけるとぞ。 ○十年、信長、武田氏を亡せし時、秀吉は毛利に向て軍に從はず。勝頼死て甲斐平均せりと云を聞き、大息して曰く、あたら人を殺したることの殘り多さよ、我軍中に在るならば、強て諫めて勝頼に甲信二州を與へて、關東の先陣としたらんには、東國は平ら押しにすべきにと繰返し悔みけり。 ○秀吉備中に陣して毛利と和平せんことを計り、密に手立を運らし、中國の米を、價を貴く買ひしかば、城米を出して賣る者多し。小早川隆景一人、固く制して賣らせず、信長弑せられて、秀吉、毛利家と手切なるべかりしに、兵粮の豐かならざる故、終に和平に及べり。
新字:○明智光秀の臣、宮部加兵衛、初め秀吉に仕ふ。光秀、一日宮部に向ひ、其方嚮きに秀吉に奉公せしと聞く、秀吉の人を使ふ様如何と尋ねければ、左せる異なることも之れなく候、去ながら誰にても少し出来たることには、思ひの外なる褒美にて驚く程のことにて候と申ければ、光秀、舌を振ひしとぞ。 ○秀吉は磊落の気象故、人に対して詞常に傲れり。光秀は謹厚の人なれば、詞常に慇懃なり。一日秀吉、光秀に向ひ、貴殿は周山に夜普請して謀反を企てらるゝと、人皆言へり、如何なりと問ふ。光秀、やくたいもないことを言はるゝと言て、止みけるとぞ。 ○十年、信長、武田氏を亡せし時、秀吉は毛利に向て軍に従はず。勝頼死て甲斐平均せりと云を聞き、大息して曰く、あたら人を殺したることの残り多さよ、我軍中に在るならば、強て諫めて勝頼に甲信二州を与へて、関東の先陣としたらんには、東国は平ら押しにすべきにと繰返し悔みけり。 ○秀吉備中に陣して毛利と和平せんことを計り、密に手立を運らし、中国の米を、価を貴く買ひしかば、城米を出して売る者多し。小早川隆景一人、固く制して売らせず、信長弑せられて、秀吉、毛利家と手切なるべかりしに、兵粮の豊かならざる故、終に和平に及べり。
書き下し
○明智光秀の臣、宮部加兵衞、初め秀吉に仕ふ。光秀、一日宮部に向ひ、其方嚮きに秀吉に奉公せしと聞く、秀吉の人を使ふ樣如何と尋ねければ、左せる異なることも之れなく候、去ながら誰にても少し出來たることには、思ひの外なる褒美にて驚く程のことにて候と申ければ、光秀、舌を振ひしとぞ。 ○秀吉は磊落の氣象故、人に對して詞常に傲れり。光秀は謹厚の人なれば、詞常に慇懃なり。一日秀吉、光秀に向ひ、貴殿は周山に夜普請して謀反を企てらるゝと、人皆言へり、如何なりと問ふ。光秀、やくたいもないことを言はるゝと言て、止みけるとぞ。 ○十年、信長、武田氏を亡せし時、秀吉は毛利に向て軍に從はず。勝頼死て甲斐平均せりと云を聞き、大息して曰く、あたら人を殺したることの殘り多さよ、我軍中に在るならば、強て諫めて勝頼に甲信二州を與へて、關東の先陣としたらんには、東國は平ら押しにすべきにと繰返し悔みけり。 ○秀吉備中に陣して毛利と和平せんことを計り、密に手立を運らし、中國の米を、價を貴く買ひしかば、城米を出して賣る者多し。小早川隆景一人、固く制して賣らせず、信長弑せられて、秀吉、毛利家と手切なるべかりしに、兵粮の豐かならざる故、終に和平に及べり。
現代語訳
明智光秀の臣、宮部加兵衛は、初め秀吉に仕えた。光秀はある日、宮部に向かい、そなたは先に秀吉に奉公したと聞く、秀吉の人の使いようはどうか、と尋ねると、さほど変わったこともございません、しかしながら、だれでも少し出来たことには、思いのほかの褒美で驚くほどのことです、と申したので、光秀は舌を振るったということである。 秀吉は磊落な気性なので、人に対する言葉はいつも傲慢だった。光秀は謹厳で厚みのある人なので、言葉はいつも丁寧だった。ある日、秀吉が光秀に向かい、貴殿は周山で夜普請して謀反を企てていると、人は皆言っている、いかがか、と問うた。光秀は、くだらないことをおっしゃる、と言って、やめたということである。 十年、信長が武田氏を滅ぼしたとき、秀吉は毛利に向かって戦に従わなかった。勝頼が死に甲斐が平定されたと聞き、大息して言った、惜しいことに人を殺したことの心残りの多さよ、私が軍中にいたならば、強いて諫めて勝頼に甲信二州を与え、関東の先陣としたならば、東国は平押しにできたものを、と繰り返し悔やんだ。 秀吉は備中に陣して毛利と和平しようと計り、密かに手立てを巡らし、中国の米を高い値で買ったところ、城の米を出して売る者が多かった。小早川隆景ひとりが、固く制して売らせなかった。信長が弑されて、秀吉は毛利家と手切れとなるはずだったが、兵糧が豊かでなかったので、ついに和平に及んだ。
解説

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名将言行録・『名将言行録』明智光秀 士を愛し民を撫でる○光秀、稻葉貞通の家人、齋藤內藏助利三を、多くの祿を與へて召抱たり。貞通求むれども返さず。貞通怒り、信長に告ぐ。信長戾せと下知せしかども肯はず。信長怒て光秀の髪を捽み引伏せて譴めらるゝ。光秀國を賜はり候へ共身の爲めに致すことなく、士を養ふを第一とする由答へ申しゝかば、信長怒りながら、偖止みけり。其士を好むこと斯の如くなれば、當時知名の士、多く其門に集まれり。光秀能く士を恤み、民を撫せり、依て士民之が用たるを樂めり。 ○光秀、未だ十萬石計りの時、堀邊兵太と云ふ浪人あり。荷俵を負ひ來り、千石賜はらんやと言ふ。光秀之を聞き、料理抔申付け、其內密に荷俵を開かせ見れば、長身の刀鎗を如何にも、見事に研立て入置きけるを見て、面白き志の侍なりと言ひ、即ち望みに任せ千石を賜はり召抱たり。其後數度武功あり。丹波にて光秀、負軍の時堀邊一番に取て返し、討死せり。人其明鑑に服せり。 ○武田氏亡びし時、光秀半役にて、丹波勢五千餘騎召連れたり。人馬裝束一際諸將に拔んでたり。是等信長に忌まるゝの一事なりと云ふ。 ○光秀曰く、佛の嘘をば方便と言ひ、武士の嘘をば武略と言ふ。是を以て之を見れば、士民百姓は可愛きことなりと。
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名将言行録・『名将言行録』明智光秀 評・怒罵と儀礼の溝秀吉など、賞められるときは、信長に顏を撫でられたと云ふが、賞めるのに叱るのに武將を子供扱ひにしたわけで、秀吉あたりだと信長の怒罵も嘲笑も(心易立)として受け流せるが、儀禮を重んじ、合理を忘れ得ない光秀としては、どうにも我慢出來なくなつてゐたのであらう。信長としては、體裁ぶつて光秀を、頭ごなしにやつつける方が、却つて痛快なので、とき〴〵手きびしくきめつけたのだらう。四十萬石もの大名にしてやつたのだから、怒る筈はないと、高をくくりながら……。信長は、賞賜の點は、思ひ切つたことをしてゐる丈に、却つて油斷してゐたのだらう。淺井長政が、叛旗を飜したときなども、淺井を好遇してゐた丈に、初は容易に信じなかつたのである。人材を見つけるには、非凡の才があつたが、自分自身に對する反省が足りないために、時々かうした過誤を犯して、それがつひには、生命取りになつたのである。 當時、主人を殺した者には、赤松滿祐を初め、松永久秀、齋藤道三、宇喜多直家などがあり、信長だつて、主家の斯波を倒して自立してゐるわけである。江戸時代の君臣道德で、光秀を律するのは酷である。秀吉なども、主家の子供なら殺してゐるのである。 士を愛したことは、いろ〳〵な逸話で分る通である。一人の裏切も出ずに、大事を決行し、多くの家來は、光秀のために、潔く殉じてゐるのだから、武將としては、相當な人傑であり、政治家としても立派な素質を持つた人物である。
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名将言行録・『名将言行録』明智光秀 評・自力で得た知行明智光秀は、美濃の土岐氏の士族で、信長に仕へる前も、軍學者で可なり有名であつたらしく、三十九歳のとき四五千石で、信長に召し抱へられたと云ふから、子飼でもなければ譜代恩顧でもない。だから、本能寺異變後に、家臣に語つた言葉として(織田家に來て十七年になりぬれども、强いて信長の譜代恩顧と云ふには非ず。尤も君恩とは云ひながら、さのみ君恩と云ふに非るべし。只武勇の鋒先を以て軍功ある故なり、誠に晝夜安堵に住はず今日に至りぬ) と、ある。結局、自分の力で取つた知行だと云ふのであらう。これは、云ひ譯と云ふよりも、光秀のありのまゝの氣持であらう。 信長も、充分その實力を認めて(丹波國日向守の働き、天下の面目を施し候)と云つてゐる。とにかく、秀吉を山陽道に、光秀を山陰道に、振り分けた位だから、信長の信用も相當であつた。 謀反については、いろ〳〵な說があるが、教養があり形式を重んずる——どちらかと云へば、勿體ぶつた光秀と、戰國的豪傑である信長の奔放活達の形式破りの性格とが知らない間に相克したわけである。
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名将言行録・『名将言行録』竹中重治 相手の短を暴かない器○長篠の役、勝負未だ何れとも知れざりし時、武田勝賴右備を秀吉の陣の左の方へ、二町餘に移し備へしを、秀吉の臣谷大膳亮衞好之を見て、此方の備も武田が勢に從ひ移し候ふべしと下知しける所に、重治否々あの備は本の陣へ歸るべき勢なり、只其儘備を固め然るべしと申しゝかども、衞好聽かず、秀吉に申し敵の向ふに從ひ、味方の勢をも備を直し然るべく候はんと申しゝを、重治違て惡かりなんと言つゝ評論せしを、秀吉聞て何を爭ひ候ぞや、我勢は我次第たるべしとて衞好差圖の所へ勢を移したり。然るに重治手勢千計りは、動ぜず、彌々備を固くして居たる所に、半時も未だ過ぎざるに、勝賴備を元の陣に返しかば、秀吉の勢も又元の陣に返し來りしなり。重治尋常の人ならんには、偖右往左往なる體とて笑み〱しかるべきに、却つて笑止なる樣に言ひしかば、衞好殊の外面目なき由申しゝなり。其頃重治振舞長さ〱敷こと哉と言て感じけり。都て己が長を舒んと思ふ心もなく、他の短を顯はさんともせず、如何にも大樣にありて、大形は信長に似たることもありしと時人は言ひあへり。 ○秀吉、中國陣の時、兵糧不足なるべし、心元なしと言はれし時、重治聞て御氣遣成さるまじとて、大阪尼崎邊辻々に札を立て、今度羽柴筑前守中國へ發向候、八木早速運送するに於ては、定まり相場一倍に代價相渡すべし云々と書きたり。之に依り兵糧澤山に湊ひたりとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 信長の死と毛利○天正十年織田信長、羽柴秀吉をして備中の國に攻入り、高松城を攻しむ。輝元、元春、隆景、數萬騎を牽ゐ後援す。信長の軍勢、又雲霞の如く攻め下ると聞えしかば、毛利の人々相議し、備中、備後、伯耆三ケ國を信長に避け渡し、和睦すべしとて、秀吉の許に使を立てゝ、長く兩家の好みを結ぶべき由を言送ること度々に及べり。斯る所に六月二日、信長、明智光秀が爲めに失はれし由、秀吉の陣に聞ゆ。秀吉少しも包まず。毛利の使に向ひ、織田殿既に逆臣の爲めに失はれ給ひぬ。斯ても猶輝元が、秀吉と好み結ばんこと、初より聞く所の如くにやあらん、今は又違ふことやあるべき、汝速に歸りて此由を語り、汝が主の思はん樣を急度承はりて來れ、其上にこそ返答に及ぶべけれとて歸さる。輝元諸將を集めて此事を詮議す。當家信長にこそ和睦せんと言けれ、秀吉が爲めにあらず、信長忽ち打たれしこと偏に當家の幸なり、一ト先本國に引返し、世の成り行き御覽候へかしと、皆一同に申けり。隆景之を聞き、隆景が存ずる所各々の議に同じからず、抑々本朝の兵革頻りに勤て爰に百餘年、天下の亂既に極まりぬ。
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名将言行録・『名将言行録』明智光秀 天王山と使者の言葉○施藥院秀成、秀吉に從ひ中國に在り。本能寺の報ありし時、秀吉、秀成に暇を與へ、歸京せしむ。秀成是非與に上らんと乞ふ。秀吉否々家の爲めにてある間、必ず上らるべし、道中用心の爲めとて、鎗一本を與へて、偖其方は仕合の能き人なり、此已後天下を取るべきは、某と明智なり。雙方に挨拶能ければ、家の爲めには善きぞと言はる。偖明智に傳言致すべし、毎度合戰は致せども、大將と直の太刀打を致さず二三日の内に上り、主の敵なれば直の太刀打にて勝負を決すべしとなり。光秀は、下鳥羽に陣を取て居たる所へ、秀成行て、秀吉の傳言を達す。光秀曰く、其方は仕合者なり、天下は某か築前斂取るべし、其方は誰にも挨拶能しと、秀吉の言ひしと同じ。秀成暇を告ぐ。光秀否や待たれよ盃を指んとて、盃取替はし、洛中騷がしければ、用心の爲めとて槍一本贈くる。是も秀吉と同じかりしとぞ。 ○山崎の役、光秀先づ天王山を取る者勝んと言て、前夜半計りに、松田政近に命じ、汝案內者なれば、急ぎ天王山に登り、山崎を見下し備を立、敵寄せ來らば、弓銃を打掛けよ、去る程ならば、此方の勝利疑ひなしとて、鳥銃三百挺、都合七百餘騎天王山に擧上せければ、秀吉にも先づ天王山を取る者勝んと言て、堀尾吉晴、堀秀政をして、同く天王山に上らせける。松田戰利あらずして、討死せしかども、英雄の見る所、暗合冥符せり。