名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 将棋と作り髭に見る人物
○黒田孝高、嘗て人に語て曰く、我將基を好めり、關白秀次公は、我よりは少し强かりし故に、度々召寄せられ、將棊の御相手に成りたり。一番さして關白御勝に成れば、態と負ろかと聲言して、一番一番勝ち給ふ毎に立せらる、太閤は將棊の駒の行樣を漸々知り給ふ程にて、天下の將棊の上手を相手にして、態と負るを知りながら押付て、勝て喜び給ふ。關白あの小業にては、中々太閤の後を受嗣て天下を治め給ふことは成間敷と言ひしが、果して其言の如し。 秀吉と秀次との人物の大小察すべし。好逸話なるかな。 ○伏見松の丸普請の時、秀吉床机に腰を掛け、前に石田、増田、大谷抔居れり。時に秀吉、大肌脱になりて、石田を切る眞似して一時計りの談議なり、眞鍋某遙か遠くに居たりしが、否なことゝ見居る内、秀吉奥へ入らる。其跡にて眞鍋、近習の衆に樣子を尋ねければ、其事にや、天下を秀次公へ渡され、頓て朝鮮へ入らせられ、朝鮮者を先立て、明へ打入らるゝとのことなり、且つ明國には、王餘多有る中に、大王と曰ふあり、餘の王は入らず、其惣大王を御手打成され候眞似なり、石田大王になりし處なりと語りしとぞ。 ○此役、秀吉博多宿陣の時曰く、明韓人は髭を賞翫す、我に髭なし、作り髭致すべき由を命ず。早速細工人を呼びて申付る。秀吉、顏の寸法入り候はゞ遠慮なく寸を取り申すべき旨申さる。夫には及び申さずとて下地を組みて上る。秀吉其大髭を付け、博多町を押し、那古耶の城に入られしとぞ。
新字:○黒田孝高、嘗て人に語て曰く、我将基を好めり、関白秀次公は、我よりは少し強かりし故に、度々召寄せられ、将棋の御相手に成りたり。一番さして関白御勝に成れば、態と負ろかと声言して、一番一番勝ち給ふ毎に立せらる、太閤は将棋の駒の行様を漸々知り給ふ程にて、天下の将棋の上手を相手にして、態と負るを知りながら押付て、勝て喜び給ふ。関白あの小業にては、中々太閤の後を受嗣て天下を治め給ふことは成間敷と言ひしが、果して其言の如し。 秀吉と秀次との人物の大小察すべし。好逸話なるかな。 ○伏見松の丸普請の時、秀吉床机に腰を掛け、前に石田、増田、大谷抔居れり。時に秀吉、大肌脱になりて、石田を切る真似して一時計りの談議なり、真鍋某遥か遠くに居たりしが、否なことゝ見居る内、秀吉奥へ入らる。其跡にて真鍋、近習の衆に様子を尋ねければ、其事にや、天下を秀次公へ渡され、頓て朝鮮へ入らせられ、朝鮮者を先立て、明へ打入らるゝとのことなり、且つ明国には、王余多有る中に、大王と曰ふあり、余の王は入らず、其惣大王を御手打成され候真似なり、石田大王になりし処なりと語りしとぞ。 ○此役、秀吉博多宿陣の時曰く、明韓人は髭を賞翫す、我に髭なし、作り髭致すべき由を命ず。早速細工人を呼びて申付る。秀吉、顔の寸法入り候はゞ遠慮なく寸を取り申すべき旨申さる。夫には及び申さずとて下地を組みて上る。秀吉其大髭を付け、博多町を押し、那古耶の城に入られしとぞ。
書き下し
○黒田孝高、嘗て人に語て曰く、我將基を好めり、關白秀次公は、我よりは少し强かりし故に、度々召寄せられ、將棊の御相手に成りたり。一番さして關白御勝に成れば、態と負ろかと聲言して、一番一番勝ち給ふ毎に立せらる、太閤は將棊の駒の行樣を漸々知り給ふ程にて、天下の將棊の上手を相手にして、態と負るを知りながら押付て、勝て喜び給ふ。關白あの小業にては、中々太閤の後を受嗣て天下を治め給ふことは成間敷と言ひしが、果して其言の如し。 秀吉と秀次との人物の大小察すべし。好逸話なるかな。 ○伏見松の丸普請の時、秀吉床机に腰を掛け、前に石田、増田、大谷抔居れり。時に秀吉、大肌脱になりて、石田を切る眞似して一時計りの談議なり、眞鍋某遙か遠くに居たりしが、否なことゝ見居る内、秀吉奥へ入らる。其跡にて眞鍋、近習の衆に樣子を尋ねければ、其事にや、天下を秀次公へ渡され、頓て朝鮮へ入らせられ、朝鮮者を先立て、明へ打入らるゝとのことなり、且つ明國には、王餘多有る中に、大王と曰ふあり、餘の王は入らず、其惣大王を御手打成され候眞似なり、石田大王になりし處なりと語りしとぞ。 ○此役、秀吉博多宿陣の時曰く、明韓人は髭を賞翫す、我に髭なし、作り髭致すべき由を命ず。早速細工人を呼びて申付る。秀吉、顏の寸法入り候はゞ遠慮なく寸を取り申すべき旨申さる。夫には及び申さずとて下地を組みて上る。秀吉其大髭を付け、博多町を押し、那古耶の城に入られしとぞ。
現代語訳
黒田孝高は、かつて人に語って言った。私は将棋を好む。関白秀次公は私より少し強かったので、たびたび召し寄せられ、将棋のお相手になった。一番指して関白がお勝ちになると、わざと負けようかと声を出して、一番一番、勝ちなさるごとに席を立たれた。太閤は将棋の駒の動きを、ようやく知っておられる程度で、天下の将棋の上手を相手にして、わざと負けるのを知りながら、押し付けて、勝って喜ばれる。関白のあの小さな業では、とても太閤の後を受け継いで天下を治めることはできまい、と言ったが、果たしてその言葉のとおりになった。 秀吉と秀次との人物の大きさ小ささが察せられる。よい逸話である。 伏見の松の丸の普請のとき、秀吉は床几に腰を掛け、前には石田、増田、大谷などがいた。そのとき秀吉は、大肌脱ぎになって、石田を斬る真似をして、一時ばかり談議をしていた。真鍋某は遥か遠くにいて、いやなことだと見ていたところ、秀吉は奥へ入られた。その跡で真鍋は、近習の衆に様子を尋ねたところ、そのことは、天下を秀次公へ渡され、やがて朝鮮へ入られ、朝鮮の者を先立てて、明へ討ち入るというお話で、かつ明国には王が数多くいる中に、大王というのがある、他の王は要らない、その総大王をお手討ちになる真似であった、石田が大王になったところである、と語ったという。 この役で、秀吉が博多に宿陣したとき言った。明や韓の人は髭を賞玩する。私には髭がない。作り髭をつけるように、と命じた。早速に細工人を呼んで申し付けた。秀吉は、顔の寸法が必要ならば遠慮なく採るがよい、と申された。それには及ばないと言って、下地を組んで差し上げた。秀吉はその大髭を付け、博多の町を押し歩き、名護屋の城に入られたという。
解説

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