名将言行録 / 『名将言行録』直江兼續 小田原の長陣と秀吉への言上
○小田原の役、秀吉城を攻ること數月なれども陥らず。依て兼續を召て意見を問ふ。兼續心に思ふ樣、小田原の城何にと攻め厭倦み給ふともよもや御歸陣あるべしとは思はれず、其故は兵糧以下惣て長陣の用意あればなり、然るに今我々を召出され御尋ねのことは、諸國の武士の氣を屈せざる樣に申せとのことなるべしと按じければ、畏て申樣、北條こと、累年數箇國を掌に納め、大軍籠城仕り候へば、五日十日御攻候て落城仕るべしとも存ぜず候、偖又父氏康は東國に名を得し武勇の將にて候へ共、今氏政は父には遙に生れ劣りたる愚將に候、去ればこそ、殿下の御敵とは成り候なれ。境目の城々も要害の結構、左のみ普請に替りもなく候て、安安と破られて候、然らば氏政が一門家の子まで勝れたる武功の者もなきかと存ぜられ候、其上に下として臣の禮を失ひ、君を蔑如し奉りたる天罰爭でか遁れ候べき、氏政が人數多しと雖も、殿下の御勢に比較せば、十分一にも足り候まじ、氏政が智謀と、殿下の御武略と、又日を同うして申べきにあらず、去れば今少し日を重ね、御攻め候はんには、落城遠かる間敷候、不義にして富めるは浮雲の如しと申候、今の氏政が上に當りて覺え候とありければ、秀吉大に喜び、太刀時服を賜はりけり。 ○秀吉嘗て曰く、陪臣にて直江山城、小早川左衞門、堀監物抔は天下の仕置するとも、仕兼間敷者なりと、稱譽せられたり。
新字:○小田原の役、秀吉城を攻ること数月なれども陥らず。依て兼続を召て意見を問ふ。兼続心に思ふ様、小田原の城何にと攻め厭倦み給ふともよもや御帰陣あるべしとは思はれず、其故は兵糧以下惣て長陣の用意あればなり、然るに今我々を召出され御尋ねのことは、諸国の武士の気を屈せざる様に申せとのことなるべしと按じければ、畏て申様、北条こと、累年数箇国を掌に納め、大軍籠城仕り候へば、五日十日御攻候て落城仕るべしとも存ぜず候、偖又父氏康は東国に名を得し武勇の将にて候へ共、今氏政は父には遥に生れ劣りたる愚将に候、去ればこそ、殿下の御敵とは成り候なれ。境目の城々も要害の結構、左のみ普請に替りもなく候て、安安と破られて候、然らば氏政が一門家の子まで勝れたる武功の者もなきかと存ぜられ候、其上に下として臣の礼を失ひ、君を蔑如し奉りたる天罰争でか遁れ候べき、氏政が人数多しと雖も、殿下の御勢に比較せば、十分一にも足り候まじ、氏政が智謀と、殿下の御武略と、又日を同うして申べきにあらず、去れば今少し日を重ね、御攻め候はんには、落城遠かる間敷候、不義にして富めるは浮雲の如しと申候、今の氏政が上に当りて覚え候とありければ、秀吉大に喜び、太刀時服を賜はりけり。 ○秀吉嘗て曰く、陪臣にて直江山城、小早川左衛門、堀監物抔は天下の仕置するとも、仕兼間敷者なりと、称誉せられたり。
書き下し
○小田原の役、秀吉城を攻ること數月なれども陥らず。依て兼續を召て意見を問ふ。兼續心に思ふ樣、小田原の城何にと攻め厭倦み給ふともよもや御歸陣あるべしとは思はれず、其故は兵糧以下惣て長陣の用意あればなり、然るに今我々を召出され御尋ねのことは、諸國の武士の氣を屈せざる樣に申せとのことなるべしと按じければ、畏て申樣、北條こと、累年數箇國を掌に納め、大軍籠城仕り候へば、五日十日御攻候て落城仕るべしとも存ぜず候、偖又父氏康は東國に名を得し武勇の將にて候へ共、今氏政は父には遙に生れ劣りたる愚將に候、去ればこそ、殿下の御敵とは成り候なれ。境目の城々も要害の結構、左のみ普請に替りもなく候て、安安と破られて候、然らば氏政が一門家の子まで勝れたる武功の者もなきかと存ぜられ候、其上に下として臣の禮を失ひ、君を蔑如し奉りたる天罰爭でか遁れ候べき、氏政が人數多しと雖も、殿下の御勢に比較せば、十分一にも足り候まじ、氏政が智謀と、殿下の御武略と、又日を同うして申べきにあらず、去れば今少し日を重ね、御攻め候はんには、落城遠かる間敷候、不義にして富めるは浮雲の如しと申候、今の氏政が上に當りて覺え候とありければ、秀吉大に喜び、太刀時服を賜はりけり。 ○秀吉嘗て曰く、陪臣にて直江山城、小早川左衞門、堀監物抔は天下の仕置するとも、仕兼間敷者なりと、稱譽せられたり。
現代語訳
小田原の役で、秀吉は城を攻めること数か月に及んだが落ちなかった。そこで兼続を召して意見を問うた。兼続は心中で、小田原の城をいかに攻めあぐねられても、まさか帰陣なさることはあるまい、それは兵糧をはじめ万事、長陣の用意があるからだ。それなのに今われわれを召して尋ねられるのは、諸国の武士の気を挫かないよう言上せよ、ということだろうと考え、かしこまって申し上げた。「北条は長年数か国を手中に収め、大軍が籠城しておりますので、五日十日お攻めになって落城するとは存じません。さて、父の氏康は東国に名を得た武勇の将でしたが、今の氏政は父よりはるかに生まれ劣った愚かな将です。だからこそ殿下の敵となったのです。境目の城々も守りの備えは立派ですが、さほど普請に変わりもなく、たやすく破られております。そうであれば、氏政の一門や家の子にも、すぐれた武功の者はいないのかと思われます。その上、下として臣の礼を失い、君を蔑ろにした天罰をどうして逃れましょう。氏政の人数が多いといっても、殿下の軍勢に比べれば十分の一にもなりますまい。氏政の智謀と殿下のご武略とは、同日に論じるべきものではありません。ですから、もう少し日を重ねてお攻めになれば、落城は遠くないでしょう。不義にして富めるは浮雲の如しと申します。今の氏政の身の上に当たると思われます」と言ったところ、秀吉は大いに喜び、太刀と時服を賜った。 秀吉がかつて言った。「陪臣で、直江山城、小早川左衛門、堀監物などは、天下の政治を行わせても、こなせないことはないだろう」と称賛された。
解説

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