名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 評・敵を許す大量と尾藤の最期
人材を愛する大量歎ずべし。筋道さへ立てば、常に敵を許してゐる。江雪齋の持つてゐた正宗は、江雪齋正宗として有名である。 ○尾頭左衞門尉知定は秀吉の譜第なり。後讚岐一ヶ國を領す。(一ヶ國ではない。二、三萬石である。)筑紫陣の時、島津義久を討取らざる科にて改易天下を構らる〻故、小田原に往き、北條氏政に仕ふ。柴田勝家が猶子、佐久間久右衞門安次、同源六實政、賤ヶ嶽敗軍、勝家滅亡の後、其遺憾を晴さんとて、紀州へ駈入り、粉川法師、三池を語らひ、河内の三國峠霧坂に城を拵へ、秀吉に楯を突く。後は南河内、長野の烏帽子形城に籠り、度々手強き合戰しけれども、秀吉に攻落され、是も小田原に往き、氏政に仕ふ。小田原落城にて、佐久間兄弟金澤の稱名寺に駈入り罷在るを、秀吉聞込み、佐久間兄弟、伯父勝家が仇と思ひ、我と數度楯突と言ふとも叶はず、小田原へ駈入り、猶も遺憾を遂げんとせし、其志誠に大丈夫なり、最早四海皆秀吉が手に入りたれば、心を翻し降參し、秀吉を父と思ふべしとて、兄安次三萬五千石、弟實政に一萬石賜はり、蒲生氏鄕與力に付らる。是を知定聞て、敵の柴田一門だに赦免、增して秀吉小身の時代より、尾頭甚右衞門とて舊功ある吾なれば、免赦疑ひなきとて、剃髮染衣にて、七月十七日、秀吉小田原出發奧州へ動座の道筋へ出、畑中に罷在る。秀吉酒勾川に着し、あれに見えたる大坊主は何者にあるぞと尋ねらる。兼ねて内談したれば、籃輿廻りの衆、先年御改易になりたる尾藤と見え申候、小田原に罷在りしが染衣の姿になり、御馴染にあまへ、御目通りに罷出候と申す。秀吉公氣色俄に替り、佐久間兄弟が小田原に籠りたるは道理の至極なり。尾藤めは大罪なり、其故は誠に赦免を願は〻、洛外にも隱居し、此度小田原發向の先手にも加はり、陰の奉公をしてこそ尤もなれ、我と弓矢を取る氏政に奉公し、落城以後、箇樣の仕形言語道斷、惡き次第なりとて、歩行衆に引張らせ、備前長光の刀にて手討にせられたり。人皆尤ものことなりと言ひしとぞ。 尾藤は信長旗下の勇將である。あるとき、信長の軍が敗れたとき、(尾藤はゐないか)と、信長が訊いた。(三陣に控へて居ります)と、侍臣が答へると、(それなら安心だ)と信長が云つたほどの勇將である。戸次川の戰で失敗したのである。
新字:人材を愛する大量嘆ずべし。筋道さへ立てば、常に敵を許してゐる。江雪斎の持つてゐた正宗は、江雪斎正宗として有名である。 ○尾頭左衛門尉知定は秀吉の譜第なり。後讃岐一ヶ国を領す。(一ヶ国ではない。二、三万石である。)筑紫陣の時、島津義久を討取らざる科にて改易天下を構らる〻故、小田原に往き、北条氏政に仕ふ。柴田勝家が猶子、佐久間久右衛門安次、同源六実政、賤ヶ嶽敗軍、勝家滅亡の後、其遺憾を晴さんとて、紀州へ駈入り、粉川法師、三池を語らひ、河内の三国峠霧坂に城を拵へ、秀吉に楯を突く。後は南河内、長野の烏帽子形城に籠り、度々手強き合戦しけれども、秀吉に攻落され、是も小田原に往き、氏政に仕ふ。小田原落城にて、佐久間兄弟金沢の称名寺に駈入り罷在るを、秀吉聞込み、佐久間兄弟、伯父勝家が仇と思ひ、我と数度楯突と言ふとも叶はず、小田原へ駈入り、猶も遺憾を遂げんとせし、其志誠に大丈夫なり、最早四海皆秀吉が手に入りたれば、心を翻し降参し、秀吉を父と思ふべしとて、兄安次三万五千石、弟実政に一万石賜はり、蒲生氏郷与力に付らる。是を知定聞て、敵の柴田一門だに赦免、增して秀吉小身の時代より、尾頭甚右衛門とて旧功ある吾なれば、免赦疑ひなきとて、剃髪染衣にて、七月十七日、秀吉小田原出発奥州へ動座の道筋へ出、畑中に罷在る。秀吉酒勾川に着し、あれに見えたる大坊主は何者にあるぞと尋ねらる。兼ねて内談したれば、籃輿廻りの衆、先年御改易になりたる尾藤と見え申候、小田原に罷在りしが染衣の姿になり、御馴染にあまへ、御目通りに罷出候と申す。秀吉公気色俄に替り、佐久間兄弟が小田原に籠りたるは道理の至極なり。尾藤めは大罪なり、其故は誠に赦免を願は〻、洛外にも隠居し、此度小田原発向の先手にも加はり、陰の奉公をしてこそ尤もなれ、我と弓矢を取る氏政に奉公し、落城以後、箇様の仕形言語道断、悪き次第なりとて、歩行衆に引張らせ、備前長光の刀にて手討にせられたり。人皆尤ものことなりと言ひしとぞ。 尾藤は信長旗下の勇将である。あるとき、信長の軍が敗れたとき、(尾藤はゐないか)と、信長が訊いた。(三陣に控へて居ります)と、侍臣が答へると、(それなら安心だ)と信長が云つたほどの勇将である。戸次川の戦で失敗したのである。
書き下し
人材を愛する大量歎ずべし。筋道さへ立てば、常に敵を許してゐる。江雪齋の持つてゐた正宗は、江雪齋正宗として有名である。 ○尾頭左衞門尉知定は秀吉の譜第なり。後讚岐一ヶ國を領す。(一ヶ國ではない。二、三萬石である。)筑紫陣の時、島津義久を討取らざる科にて改易天下を構らる〻故、小田原に往き、北條氏政に仕ふ。柴田勝家が猶子、佐久間久右衞門安次、同源六實政、賤ヶ嶽敗軍、勝家滅亡の後、其遺憾を晴さんとて、紀州へ駈入り、粉川法師、三池を語らひ、河内の三國峠霧坂に城を拵へ、秀吉に楯を突く。後は南河内、長野の烏帽子形城に籠り、度々手強き合戰しけれども、秀吉に攻落され、是も小田原に往き、氏政に仕ふ。小田原落城にて、佐久間兄弟金澤の稱名寺に駈入り罷在るを、秀吉聞込み、佐久間兄弟、伯父勝家が仇と思ひ、我と數度楯突と言ふとも叶はず、小田原へ駈入り、猶も遺憾を遂げんとせし、其志誠に大丈夫なり、最早四海皆秀吉が手に入りたれば、心を翻し降參し、秀吉を父と思ふべしとて、兄安次三萬五千石、弟實政に一萬石賜はり、蒲生氏鄕與力に付らる。是を知定聞て、敵の柴田一門だに赦免、增して秀吉小身の時代より、尾頭甚右衞門とて舊功ある吾なれば、免赦疑ひなきとて、剃髮染衣にて、七月十七日、秀吉小田原出發奧州へ動座の道筋へ出、畑中に罷在る。秀吉酒勾川に着し、あれに見えたる大坊主は何者にあるぞと尋ねらる。兼ねて内談したれば、籃輿廻りの衆、先年御改易になりたる尾藤と見え申候、小田原に罷在りしが染衣の姿になり、御馴染にあまへ、御目通りに罷出候と申す。秀吉公氣色俄に替り、佐久間兄弟が小田原に籠りたるは道理の至極なり。尾藤めは大罪なり、其故は誠に赦免を願は〻、洛外にも隱居し、此度小田原發向の先手にも加はり、陰の奉公をしてこそ尤もなれ、我と弓矢を取る氏政に奉公し、落城以後、箇樣の仕形言語道斷、惡き次第なりとて、歩行衆に引張らせ、備前長光の刀にて手討にせられたり。人皆尤ものことなりと言ひしとぞ。 尾藤は信長旗下の勇將である。あるとき、信長の軍が敗れたとき、(尾藤はゐないか)と、信長が訊いた。(三陣に控へて居ります)と、侍臣が答へると、(それなら安心だ)と信長が云つたほどの勇將である。戸次川の戰で失敗したのである。
現代語訳
人材を愛する大きな度量には感嘆すべきである。筋道さえ立てば、常に敵を許している。江雪斎が持っていた正宗は、江雪斎正宗として有名である。 尾藤左衛門尉知定は秀吉の譜代である。後に讃岐一国を領した。(一国ではない。二、三万石である。)筑紫の陣のとき、島津義久を討ち取らなかった科によって改易され、天下に居場所を構えることを許されなかったので、小田原に行き、北条氏政に仕えた。柴田勝家の猶子、佐久間久右衛門安次、同じく源六実政は、賤ヶ岳の敗戦、勝家滅亡の後、その遺憾を晴らそうと、紀州へ駆け入り、粉川法師、三池を語らい、河内の三国峠霧坂に城を築き、秀吉に楯突いた。後は南河内、長野の烏帽子形城に籠り、たびたび手強い合戦をしたけれども、秀吉に攻め落とされ、これも小田原に行き、氏政に仕えた。小田原落城で、佐久間兄弟は金沢の称名寺に駆け込んでいたのを、秀吉は聞き込み、佐久間兄弟は、伯父勝家の仇と思い、自分に数度楯突いたといっても敵わず、小田原へ駆け込み、なおも遺憾を遂げようとした、その志はまことに大丈夫である、もはや四海はみな秀吉の手に入ったので、心を翻して降参し、秀吉を父と思うがよい、と言って、兄の安次に三万五千石、弟の実政に一万石を賜り、蒲生氏郷の与力に付けられた。これを知定が聞いて、敵の柴田一門ですら赦免された、まして秀吉が小身の時代から、尾藤甚右衛門として旧功のある私であれば、赦免は疑いないと思い、剃髪して染衣の姿で、七月十七日、秀吉が小田原を出発して奥州へ動座する道筋に出て、畑の中に控えていた。秀吉は酒匂川に着き、あそこに見える大坊主は何者か、と尋ねられた。かねて内談していたので、籃輿の廻りの者が、先年ご改易になった尾藤と見えます、小田原におりましたが、染衣の姿になり、お馴染みに甘えて、お目通りに罷り出ました、と申した。秀吉公は顔色が急に変わり、佐久間兄弟が小田原に籠ったのは道理の至極である。尾藤めは大罪である、そのわけは、まことに赦免を願うなら、洛外にも隠居し、このたびの小田原出陣の先手にも加わり、陰の奉公をしてこそもっともなのに、私と弓矢を取る氏政に奉公し、落城以後、このような仕業は言語道断、悪い次第である、と言って、歩行衆に引っ張らせ、備前長光の刀で手討ちにされた。人はみなもっともなことだと言ったという。 尾藤は信長の旗下の勇将である。あるとき、信長の軍が敗れたとき、(尾藤はいないか)と信長が尋ねた。(三陣に控えております)と侍臣が答えると、(それなら安心だ)と信長が言ったほどの勇将である。戸次川の戦で失敗したのである。
解説

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