名将言行録 / 『名将言行録』太田資正 小田原攻めへの直言
○直江兼續曰く、方今日本に於て大身小身の名將多くある中に、撰みて主人にせん時は、太田三樂と我君謙信公に若くはなしと、他家にて其沙汰あると聞きしは實に尤もなりと。 ○十八年、秀吉小田原城を攻ること數月なれども、落ちず、之に依り資正を召し此城數月攻れども更に弱らず、若し今年中に落間敷は一と先づ上京して、來年又下向すべしと思ふなり。其方の心に思はん樣包まず語れと言はれければ、資正畏りて申樣抑と此城一方は荒海にて、舟の進退自由ならず、三方に難所の山を抱へたり、又氏綱、氏康、氏政、能く早雲の掟を守りて候へば、兵粮も澤山に候べし。但し一つ父祖の法に違ふ事の之あるは、士を敬ふことをせず、士を敬ふことをせず、去れば籠城の兵士五六萬も之あるべく、何れも坂東魂の勇士ながら、心に北條を疎み思ふ時節なれば、御計略も候はんに、何條御上京とは仰せらるゝにや、況て力攻抔にては、左右なく落城仕間敷と。秀吉忽ち氣色替はり三樂は北條に追はれて岩槻、松山を失ひし時に引きたる臆病風の未だ癒ざるかと、言はれければ、資正、樣惡しく退出しけるが、次の間にて聲高く、三樂が岩槻、松山を失ひしは、武略の足らざるに似たりと申べけれども、一度も氏政に押付を見せしことは候はず、偖又御計略にて、欺れ候はゞ、格別、武功を以て攻落され候はゞ、入道が命を奉るべきにて候と、にが〱しけに申て退きしとぞ。後果して資正の言の如く、力攻には成り難く、扱にて城落けり。
新字:○直江兼続曰く、方今日本に於て大身小身の名将多くある中に、撰みて主人にせん時は、太田三楽と我君謙信公に若くはなしと、他家にて其沙汰あると聞きしは実に尤もなりと。 ○十八年、秀吉小田原城を攻ること数月なれども、落ちず、之に依り資正を召し此城数月攻れども更に弱らず、若し今年中に落間敷は一と先づ上京して、来年又下向すべしと思ふなり。其方の心に思はん様包まず語れと言はれければ、資正畏りて申様抑と此城一方は荒海にて、舟の進退自由ならず、三方に難所の山を抱へたり、又氏綱、氏康、氏政、能く早雲の掟を守りて候へば、兵粮も沢山に候べし。但し一つ父祖の法に違ふ事の之あるは、士を敬ふことをせず、士を敬ふことをせず、去れば籠城の兵士五六万も之あるべく、何れも坂東魂の勇士ながら、心に北条を疎み思ふ時節なれば、御計略も候はんに、何条御上京とは仰せらるゝにや、況て力攻抔にては、左右なく落城仕間敷と。秀吉忽ち気色替はり三楽は北条に追はれて岩槻、松山を失ひし時に引きたる臆病風の未だ癒ざるかと、言はれければ、資正、様悪しく退出しけるが、次の間にて声高く、三楽が岩槻、松山を失ひしは、武略の足らざるに似たりと申べけれども、一度も氏政に押付を見せしことは候はず、偖又御計略にて、欺れ候はゞ、格別、武功を以て攻落され候はゞ、入道が命を奉るべきにて候と、にが〱しけに申て退きしとぞ。後果して資正の言の如く、力攻には成り難く、扱にて城落けり。
書き下し
○直江兼續曰く、方今日本に於て大身小身の名將多くある中に、撰みて主人にせん時は、太田三樂と我君謙信公に若くはなしと、他家にて其沙汰あると聞きしは實に尤もなりと。 ○十八年、秀吉小田原城を攻ること數月なれども、落ちず、之に依り資正を召し此城數月攻れども更に弱らず、若し今年中に落間敷は一と先づ上京して、來年又下向すべしと思ふなり。其方の心に思はん樣包まず語れと言はれければ、資正畏りて申樣抑と此城一方は荒海にて、舟の進退自由ならず、三方に難所の山を抱へたり、又氏綱、氏康、氏政、能く早雲の掟を守りて候へば、兵粮も澤山に候べし。但し一つ父祖の法に違ふ事の之あるは、士を敬ふことをせず、士を敬ふことをせず、去れば籠城の兵士五六萬も之あるべく、何れも坂東魂の勇士ながら、心に北條を疎み思ふ時節なれば、御計略も候はんに、何條御上京とは仰せらるゝにや、況て力攻抔にては、左右なく落城仕間敷と。秀吉忽ち氣色替はり三樂は北條に追はれて岩槻、松山を失ひし時に引きたる臆病風の未だ癒ざるかと、言はれければ、資正、樣惡しく退出しけるが、次の間にて聲高く、三樂が岩槻、松山を失ひしは、武略の足らざるに似たりと申べけれども、一度も氏政に押付を見せしことは候はず、偖又御計略にて、欺れ候はゞ、格別、武功を以て攻落され候はゞ、入道が命を奉るべきにて候と、にが〱しけに申て退きしとぞ。後果して資正の言の如く、力攻には成り難く、扱にて城落けり。
現代語訳
直江兼続は言った。「いま日本には大身小身の名将が多くいるが、その中から選んで主君にするとなれば、太田三楽と我が君謙信公に及ぶ者はない。他家でもそう評判していると聞いたが、まことにもっともなことだ。」 十八年、秀吉は小田原城を数か月攻めたが、落ちなかった。そこで資正を召して言った。「この城を数か月攻めても少しも弱らない。もし今年中に落ちそうにないなら、いったん上京して、来年また下向しようと思う。そなたが心に思うところを隠さず語れ。」資正はかしこまって言った。「そもそもこの城は一方が荒海で舟の進退が自由にならず、三方に難所の山を抱えています。また氏綱、氏康、氏政は、よく早雲の掟を守っておりますので、兵糧も十分でしょう。ただ一つだけ、父祖の法に背いていることがあります。それは士を敬わないことです。士を敬わないのです。ですから籠城の兵は五、六万もいるでしょうが、いずれも坂東魂の勇士でありながら、心の中で北条を疎んじている時節ですので、御計略もございましょうに、どうして上京などと仰せになるのですか。まして力攻めでは、たやすく落城はしますまい。」秀吉はたちまち顔色を変え、「三楽は北条に追われて岩槻・松山を失ったときに出た臆病風が、まだ治っていないのか」と言った。資正は体裁悪く退出したが、次の間で声高く、「三楽が岩槻・松山を失ったのは、武略が足りなかったように見えるかもしれないが、一度も氏政に背を見せたことはない。さて御計略で欺かれるならともかく、武功をもって攻め落とされるなら、入道の命を差し上げよう」と苦々しげに言って退いたという。後に果たして資正の言うとおり、力攻めでは落とせず、交渉で城は落ちた。
解説

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『晏子春秋』外篇上・景公坐路寢曰誰將有此晏子諫景公路寝に坐して、曰く、「美なるかな室、其れ誰か将に此を有たんとするか」と。晏子対えて曰く、「其れ田氏か。田無宇は垾を為せり」と。公曰く、「然らば則ち奈何」と。晏子対えて曰く、「善を為す者は、君上の勧むる所なり。豈に禁ず可けんや。夫れ田氏は、国門に柝を撃つの家にして、父は以て其の子に托し、兄は以て其の弟に托し、今に於て三世なり。山の木は市の如くにして、山に加えず。魚塩蚌蜃は、海に加えず。民財之が為に帰す。今歳凶饑にして、蒿種芼斂は半ばならず、道路に死人有り。斉の旧四量は、四升を豆と為し、豆四にして区、区四にして釜、釜十にして鐘なり。田氏の四量は、各々一を加う。家の量を以て貸し、公の量を以て収む。則ち糴する所以、百姓の死命を澤うこと多し。今公家は驕汰にして、田氏は慈恵なり。国の澤は是に焉くにか帰せん。田氏は徳無しと雖も、民に施す有り。公厚く斂め、田氏は厚く施す。詩に曰く、『汝に与うる徳無しと雖も、式て歌い且つ舞う』と。田氏の施しは、民之を歌舞するなり。国の帰するも、亦た宜ならずや」と。
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史記 高祖本紀且つ吾の軍を霸上に還す所以は、諸侯の至るを待ちて約束を定めんのみ。」と。乃ち人をして秦の吏と県郷邑を行かしめ、之に告諭す。秦人大いに喜び、争ひて牛羊酒食を持ちて軍士に献饗す。沛公又譲りて受けず、曰く、「倉粟多し、乏しきに非ず、人に費さしむるを欲せず。」と。人又益々喜び、唯だ沛公の秦王と為らざらんことを恐る。
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『弁道』第二十四則「之を継ぐ者は善」とは、天を継ぐの継の如し。善とは善人を謂ふなり。流行と訓ずる者は継の字の義を失へり。「之を成す者は性」とは、人各〻性の近き所に随ひて務めを成すを謂ふなり。凡そ徳と言ふ者、怨に対して言ふ者有り、財に対して言ふ者有り。其の単に言ふ者は、皆性の徳なり。爾らずんば、「徳に拠る」、何ぞ其れ荒唐なるや。人心とは民心なり。朽索の馭の如し。故に危ふしと曰ふ。道心とは民心を導くなり。其の機甚だ微なり。故に微なりと曰ふ。
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言志四録・言志録 第百八十一条 勢に因りて利導す人情の気機は、一定を以て求むべからず。之を誘へば勧み、之を禁ずれば遏む、順なり。之を導けば反つて阻み、之を抑ふれば益揚る、逆なり。是の故に駕馭の道は、当に其の向背を察し、其の軽重を審らかにし、勢に因りて之を利導し、機に応じて之を激励し、其をして自ら其の然る所以を覚えざらしむべし。此れを之れ得たりと為す。
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『呻吟語』内篇・應務・一の拙法有り世人の相與するは、面上に非ざれば則ち口中なり。人の心は固より面と口とに掩ふ能はず。而して測る可からざる者は則ち面と口とに盡きざるなり。故に惟だ人心のみ最も畏る可く、人心最も知る可からず。此れ天下の陷阱にして、古今生死の衢なり。余に一の拙法有り。之を推すに至誠を以てし、之を施すに至厚を以てし、之を持するに至慎を以てし、是非を遠ざけ、利名を讓り、後下に處せば、則ち夷狄鳥獸も骨肉腹心とす可し。將に深き者をして且つ心を傾けしめ、險なる者をして且つ德に化せしめんとす。而して何ぞ陷阱の予に及ばんや。
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『新書』連語紂は、天子の後なり、天下を有して宜しく然るべし。苟くも道に背き義を棄て、敬慎を釈てて驕肆を行えば、則ち天下の人、其の之に離るること崩るるが若く、其の之に背くや約せずして期するが若し。夫れ人主たる者、誠に奈何ぞ慎まざらんや。紂将に武王と戦わんとし、紂其の卒を陳ね、左臆右臆、之を鼓するも進まず、皆其の刃を還して、顧みて以て紂に鄉う。紂走りて寝廟の上に還り、身ら闘いて死す、左右肯て助けず。紂の官衛紂の躯を輿して、之を玉門の外に棄つ。民の観る者皆進みて之を蹴り、其の腹を蹈み、其の腎を蹶し、其の肺を践み、其の肝を履む。周の武王乃ち人をして帷して之を守らしむ、民の観る者帷を搴げて入り、石を提げて之にする者猶お未だ止むを肯んぜず。悲しむ可きなり。夫れ埶は民の主たるに、直ちに民と仇を為し、殃忿此くの若し。夫れ民尚お其の躯を践盤す、而るを況んや其の民を有ち政教するをや。羞ずること甚だし。臣竊かに之を聞くに曰く、「善は小にして益無しと謂う可からず、不善は小にして傷無しと謂う可からず」と。夫れ牛の胎と為るや、細きこと鼷鼠の若し、紂の天下を損ずるは、象箸自り始まる。故に小悪も大悪も一類なり、過敗小なりと雖も、皆紂の罪なり。周諺に曰く、「前車覆れば後車戒む」と。