名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 遅参した政宗を試す
○六月、伊達政宗、小田原の陣に來り、臣從せんことを請ふ。諸將、小田原陷らば、其次は必ず陸奧を征伐せられんと、政宗を患ひたる折節なれば、皆之を喜ぶ。秀吉思ひの外に遲參を怒て、政宗が胸中を商量するに、我と氏政との兵勢を覘て、我弱からば來らじと密に人を付置きたる所に、氏政の諸城皆降遁相繼ぎ、小田原も又拔れんこと旦暮にありと聞て、今此に來るならん、實に心服するにあらずとて、使を以て責められければ、政宗遲緩の過を謝す。二三日過て、秀吉具足羽織を着、床机に腰掛け禮を受けらる。政宗拜謁して退かんとする時、秀吉遲參を惡むと雖も、對顏を許すの上は、念に止めず、此まで遠來の馳走に陣營を見せん、後の山に上れとて、先に立れければ、政宗後に從て山に登る。秀吉曰く、汝奧州に於て小迫合には馴たれども、大合戰の人數配りは未だ見るべからず、爰の營は、此理なり、彼所の陣は此意なり、見置きて手本にせよと、一々指して敎へらる。此時秀吉、刀を政宗に持たせ、童子一人具し、片岸に立て、終に後を顧みず、政宗を盡く蟲とも思はぬ體なり。頃て、秀吉、政宗に暇を賜へり。侍臣曰く、今政宗を國に歸し給ふは、千里の野に虎を放つが如しと言て、眉を顰めり。秀吉笑て、汝等が管見何ぞ之を知らん、政宗が奧州に在りて威を振ふは、誠に井中の蛙なり、今此大軍の堂々たるを見て、戰慄恐懼せり、我刄に血ぬらずして奧州を平治するを見るべしと言はれけり。果して其言の如し。政宗、後ち人に語て曰く、我小田原に於て、太閤に謁せし時、斯ることあり、其時只恐入たる計りにて、一念の害心生ぜず、大器にして天威ありし人なりと。
新字:○六月、伊達政宗、小田原の陣に来り、臣従せんことを請ふ。諸将、小田原陥らば、其次は必ず陸奥を征伐せられんと、政宗を患ひたる折節なれば、皆之を喜ぶ。秀吉思ひの外に遅参を怒て、政宗が胸中を商量するに、我と氏政との兵勢を覘て、我弱からば来らじと密に人を付置きたる所に、氏政の諸城皆降遁相継ぎ、小田原も又抜れんこと旦暮にありと聞て、今此に来るならん、実に心服するにあらずとて、使を以て責められければ、政宗遅緩の過を謝す。二三日過て、秀吉具足羽織を着、床机に腰掛け礼を受けらる。政宗拝謁して退かんとする時、秀吉遅参を悪むと雖も、対顔を許すの上は、念に止めず、此まで遠来の馳走に陣営を見せん、後の山に上れとて、先に立れければ、政宗後に従て山に登る。秀吉曰く、汝奥州に於て小迫合には馴たれども、大合戦の人数配りは未だ見るべからず、爰の営は、此理なり、彼所の陣は此意なり、見置きて手本にせよと、一々指して教へらる。此時秀吉、刀を政宗に持たせ、童子一人具し、片岸に立て、終に後を顧みず、政宗を尽く虫とも思はぬ体なり。頃て、秀吉、政宗に暇を賜へり。侍臣曰く、今政宗を国に帰し給ふは、千里の野に虎を放つが如しと言て、眉を顰めり。秀吉笑て、汝等が管見何ぞ之を知らん、政宗が奥州に在りて威を振ふは、誠に井中の蛙なり、今此大軍の堂々たるを見て、戦慄恐懼せり、我刄に血ぬらずして奥州を平治するを見るべしと言はれけり。果して其言の如し。政宗、後ち人に語て曰く、我小田原に於て、太閤に謁せし時、斯ることあり、其時只恐入たる計りにて、一念の害心生ぜず、大器にして天威ありし人なりと。
書き下し
○六月、伊達政宗、小田原の陣に來り、臣從せんことを請ふ。諸將、小田原陷らば、其次は必ず陸奧を征伐せられんと、政宗を患ひたる折節なれば、皆之を喜ぶ。秀吉思ひの外に遲參を怒て、政宗が胸中を商量するに、我と氏政との兵勢を覘て、我弱からば來らじと密に人を付置きたる所に、氏政の諸城皆降遁相繼ぎ、小田原も又拔れんこと旦暮にありと聞て、今此に來るならん、實に心服するにあらずとて、使を以て責められければ、政宗遲緩の過を謝す。二三日過て、秀吉具足羽織を着、床机に腰掛け禮を受けらる。政宗拜謁して退かんとする時、秀吉遲參を惡むと雖も、對顏を許すの上は、念に止めず、此まで遠來の馳走に陣營を見せん、後の山に上れとて、先に立れければ、政宗後に從て山に登る。秀吉曰く、汝奧州に於て小迫合には馴たれども、大合戰の人數配りは未だ見るべからず、爰の營は、此理なり、彼所の陣は此意なり、見置きて手本にせよと、一々指して敎へらる。此時秀吉、刀を政宗に持たせ、童子一人具し、片岸に立て、終に後を顧みず、政宗を盡く蟲とも思はぬ體なり。頃て、秀吉、政宗に暇を賜へり。侍臣曰く、今政宗を國に歸し給ふは、千里の野に虎を放つが如しと言て、眉を顰めり。秀吉笑て、汝等が管見何ぞ之を知らん、政宗が奧州に在りて威を振ふは、誠に井中の蛙なり、今此大軍の堂々たるを見て、戰慄恐懼せり、我刄に血ぬらずして奧州を平治するを見るべしと言はれけり。果して其言の如し。政宗、後ち人に語て曰く、我小田原に於て、太閤に謁せし時、斯ることあり、其時只恐入たる計りにて、一念の害心生ぜず、大器にして天威ありし人なりと。
現代語訳
六月、伊達政宗は小田原の陣に来て、臣従することを願い出た。諸将は、小田原が落ちたら、その次は必ず陸奥を征伐されるだろうと政宗を案じていた折であったので、みなこれを喜んだ。秀吉は思いのほかに遅参したことを怒り、政宗の胸中を考えるに、自分と氏政の兵勢をうかがい、自分が弱ければ来るまいと、ひそかに人を付けておいたところ、氏政の諸城はみな降り、逃げ出す者が相次ぎ、小田原も落ちるのは朝夕のことと聞いて、今ここへ来たのだろう、本当に心服しているのではない、と言って、使いで責めたところ、政宗は遅れた過ちを謝した。二、三日過ぎて、秀吉は具足羽織を着て、床几に腰掛けて礼を受けられた。政宗が拝謁して退こうとしたとき、秀吉は、遅参を憎んだけれども、対面を許したからには気にとめない、ここまでの遠来の馳走に、陣営を見せよう、後ろの山に上れと言って、先に立たれたので、政宗は後に従って山に登った。秀吉は、汝は奥州で小競り合いには慣れているが、大合戦の人数配りはまだ見たことがあるまい、ここの陣営はこういう理で、あそこの陣はこの意図である、見て手本にせよと、一つ一つ指して教えられた。このとき秀吉は、刀を政宗に持たせ、童子を一人連れ、崖の端に立って、ついに後ろを顧みず、政宗を全く虫とも思わない様子であった。やがて、秀吉は政宗に暇を与えた。侍臣が、今、政宗を国に帰されるのは、千里の野に虎を放つようなものです、と言って眉をひそめた。秀吉は笑って、お前たちの狭い見識で何が分かるか、政宗が奥州で威を振るっているのは、まことに井の中の蛙である、今、この大軍の堂々たるさまを見て、震え恐れている、我が刃に血を塗らずに奥州を平定するのを見よ、と言われた。果たしてその言葉のとおりになった。政宗は後に人に語って言った。私が小田原で太閤に謁見したとき、このようなことがあった、そのときはただ恐れ入るばかりで、害心は一念も生じなかった、大器で天威のある人であったと。
解説

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