名将言行録 / 『名将言行録』伊達政宗 三つの大事の場(上)
○政宗、一日侍臣に語て曰く、小田原陣の時、某兎角小田原へ上り、太閤へ歸服せんと言ふ。家老共何んの御氣遣かあらん、そこ/\へ人數を出だして守り防がば、太閤を容易く寄せさせ間敷と言ふ。否々太閤は只者にてなし。降參の志を見せんとて、打立つ、然らば多勢にて然るべくと言つれども、僅に十騎計にて、早速上り酒匂に一宿し、供の者を大方殘し置き、金襴の具足羽織を着し、太閤の御前近く出たり。取次は富田左近なり。左近腰の物を是へ給はれと言ふ。何ぞ侍に刀脇差を脱けとはとて聞入れずして進む。太閤は床几に腰掛ておはせしが、某を遙に見て、伊達殿上られたるか、是へとなり。其時其儘刀脇差を傍へ投棄て往く。太閤否苦しからずとて、某が手を御取り、偖も奇特に參られたりとて、指當る咄抔ありて、奧州の事心元なし、早く歸られよとて、暇を賜はる。忝なしとて早速酒匂へ歸て、歸國せしなり、是一つ。秀次公御生害の時、某を太閤御疑ありしに、十騎計りにて上る。牧方へ石田、富田、施藥院三人御使にて來り、其方は秀次公と別て親しきこと隱くれなきに依て、委細を尋ねよとの御事なりと言ふ。某申は、如何にも秀次公と親しきなり、太閤の御發明にさへ、御目鑑違たる故か、箇樣成らせらる、秀次公に、天下を御讓り關白までに任ぜられたれば、吾等が片目にて見損じたるは道理と存ずる、其上萬事を秀次公へ仰付られて、御隱居とあるからはと存て、折角秀次公へ取入りたり。若し之を咎め思召さば、是非なきなり、私が頸を剃られよ、本望なりと言ふ。施藥院、左樣には申上げられまじ、何にとぞにべもあらんやと言ふ。某施藥院をはたと睨み、其方は病人のことこそ功者にてあらん、武士道のことは知るまじ、有の儘に申上げよと言ふ。其故三人共に返りしが、翌日富田左近方より、明日山里にて御茶下さるべきとの御意と申越に付、只二騎召連れ、大阪へ行く。左近方より案内者とて侍一人來るを連れて城中へ行く。
新字:○政宗、一日侍臣に語て曰く、小田原陣の時、某兎角小田原へ上り、太閤へ帰服せんと言ふ。家老共何んの御気遣かあらん、そこ/\へ人数を出だして守り防がば、太閤を容易く寄せさせ間敷と言ふ。否々太閤は只者にてなし。降参の志を見せんとて、打立つ、然らば多勢にて然るべくと言つれども、僅に十騎計にて、早速上り酒匂に一宿し、供の者を大方残し置き、金襴の具足羽織を着し、太閤の御前近く出たり。取次は富田左近なり。左近腰の物を是へ給はれと言ふ。何ぞ侍に刀脇差を脱けとはとて聞入れずして進む。太閤は床几に腰掛ておはせしが、某を遥に見て、伊達殿上られたるか、是へとなり。其時其儘刀脇差を傍へ投棄て往く。太閤否苦しからずとて、某が手を御取り、偖も奇特に参られたりとて、指当る咄抔ありて、奥州の事心元なし、早く帰られよとて、暇を賜はる。忝なしとて早速酒匂へ帰て、帰国せしなり、是一つ。秀次公御生害の時、某を太閤御疑ありしに、十騎計りにて上る。牧方へ石田、富田、施薬院三人御使にて来り、其方は秀次公と別て親しきこと隠くれなきに依て、委細を尋ねよとの御事なりと言ふ。某申は、如何にも秀次公と親しきなり、太閤の御発明にさへ、御目鑑違たる故か、箇様成らせらる、秀次公に、天下を御譲り関白までに任ぜられたれば、吾等が片目にて見損じたるは道理と存ずる、其上万事を秀次公へ仰付られて、御隠居とあるからはと存て、折角秀次公へ取入りたり。若し之を咎め思召さば、是非なきなり、私が頸を剃られよ、本望なりと言ふ。施薬院、左様には申上げられまじ、何にとぞにべもあらんやと言ふ。某施薬院をはたと睨み、其方は病人のことこそ功者にてあらん、武士道のことは知るまじ、有の儘に申上げよと言ふ。其故三人共に返りしが、翌日富田左近方より、明日山里にて御茶下さるべきとの御意と申越に付、只二騎召連れ、大阪へ行く。左近方より案内者とて侍一人来るを連れて城中へ行く。
書き下し
○政宗、一日侍臣に語て曰く、小田原陣の時、某兎角小田原へ上り、太閤へ歸服せんと言ふ。家老共何んの御氣遣かあらん、そこ/\へ人數を出だして守り防がば、太閤を容易く寄せさせ間敷と言ふ。否々太閤は只者にてなし。降參の志を見せんとて、打立つ、然らば多勢にて然るべくと言つれども、僅に十騎計にて、早速上り酒匂に一宿し、供の者を大方殘し置き、金襴の具足羽織を着し、太閤の御前近く出たり。取次は富田左近なり。左近腰の物を是へ給はれと言ふ。何ぞ侍に刀脇差を脱けとはとて聞入れずして進む。太閤は床几に腰掛ておはせしが、某を遙に見て、伊達殿上られたるか、是へとなり。其時其儘刀脇差を傍へ投棄て往く。太閤否苦しからずとて、某が手を御取り、偖も奇特に參られたりとて、指當る咄抔ありて、奧州の事心元なし、早く歸られよとて、暇を賜はる。忝なしとて早速酒匂へ歸て、歸國せしなり、是一つ。秀次公御生害の時、某を太閤御疑ありしに、十騎計りにて上る。牧方へ石田、富田、施藥院三人御使にて來り、其方は秀次公と別て親しきこと隱くれなきに依て、委細を尋ねよとの御事なりと言ふ。某申は、如何にも秀次公と親しきなり、太閤の御發明にさへ、御目鑑違たる故か、箇樣成らせらる、秀次公に、天下を御讓り關白までに任ぜられたれば、吾等が片目にて見損じたるは道理と存ずる、其上萬事を秀次公へ仰付られて、御隱居とあるからはと存て、折角秀次公へ取入りたり。若し之を咎め思召さば、是非なきなり、私が頸を剃られよ、本望なりと言ふ。施藥院、左樣には申上げられまじ、何にとぞにべもあらんやと言ふ。某施藥院をはたと睨み、其方は病人のことこそ功者にてあらん、武士道のことは知るまじ、有の儘に申上げよと言ふ。其故三人共に返りしが、翌日富田左近方より、明日山里にて御茶下さるべきとの御意と申越に付、只二騎召連れ、大阪へ行く。左近方より案内者とて侍一人來るを連れて城中へ行く。
現代語訳
政宗はある日、侍臣に語って言った。「小田原の陣のとき、私はとにかく小田原へ上り、太閤に帰服しようと言った。家老たちは『何のご心配がありましょう。あちこちに人数を出して守り防げば、太閤を容易には寄せつけないでしょう』と言った。いや、太閤はただ者ではない。降参の志を見せようと出発した。それなら大勢で行くのがよいと言ったが、私はわずか十騎ほどで、すぐに上り、酒匂に一泊し、供の者を大方残し置き、金襴の具足羽織を着て、太閤の御前近くに出た。取次は富田左近であった。左近は『腰の物をこちらへ』と言った。何だ、侍に刀や脇差を脱げとは、と言って聞き入れずに進んだ。太閤は床几に腰掛けておられたが、私を遠くから見て、『伊達殿が上られたか。こちらへ』と言った。そのとき私はそのまま刀と脇差を傍らへ投げ捨てて行った。太閤は『いや、苦しからず』と言って、私の手を取り、『よくぞ奇特に参られた』と言い、さしあたっての話などがあり、『奥州のことが気がかりだ。早く帰られよ』と暇を賜った。かたじけないと言って、すぐ酒匂へ帰って、帰国した。これが一つ。秀次公の自害のとき、私を太閤が疑われたが、十騎ほどで上った。牧方へ石田、富田、施薬院の三人が使者として来て、『そなたは秀次公と格別に親しいことが隠れないので、委細を尋ねよとのことである』と言った。私は『いかにも秀次公と親しい。太閤の御賢明をもってしても、お目鏡が違ったのでこうなったのか。秀次公に天下をお譲りになって関白に任じられたのだから、私の片目で見損じたのは当然と思う。その上、万事を秀次公に仰せ付けられて、ご隠居になられたからには、と思い、せっかく秀次公に取り入ったのだ。もしこれを咎めようとお考えなら、仕方がない。私の首を剃られよ。本望である』と言った。施薬院が『そのようには申し上げられますまい。何とか穏やかな言い方もありましょう』と言うので、私は施薬院をはたと睨み、『そなたは病人のことには詳しいのだろうが、武士道のことは知るまい。ありのままに申し上げよ』と言った。そこで三人とも帰ったが、翌日、富田左近から『明日、山里で茶を下さるとのご意向』と申し越しがあったので、ただ二騎を召し連れて大坂へ行った。左近の方から案内者として侍一人が来るのを連れて城中へ行った。
解説

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