名将言行録 / 『名将言行録』伊達政宗 小田原参陣と宇都宮の工作
○小田原の役、政宗間行して小田原に至り、底倉に屏居す。秀吉、人をして遲參のことを詰問せらる。政宗一々に陳謝し、以て命を待居りし時、千利休が秀吉の供して下り居りしに就て、茶の湯を稽古せり。秀吉聞て、政宗は遠國田舍の住居にて、夷狄の風に墮ち、無道の者と聞き及びし所、聞きしに事替り、萬事心の付きたる仕方、鄙の都人と言はんものぞと、褒稱せられけり。 ○此役終らば、秀吉會津發向すべきに付、先達て小田原表より出勢之あり、諸大名宇都宮近邊へ着陣あると均しく、政宗領分へ物聞、目付等を差遣はしけるに、一段と物靜にして、出勢籠城の支度箇間敷こととては少も之なくに付、諸陣共に不審を相立しとなり。然る所秀吉、宇都宮の城へ着陣ありければ、政宗、家老の片倉小十郎景綱、只一人召連れ手廻り人少にて、宇都宮へ至り、城下を隔てたる禪院に止宿し、大谷吉隆方へ、景綱を使者として申送りけるは、先日は初て御意を得、品々御取持に預り候段、過分の至りに候、其節申述候通り我等儀公儀を輕しめ申すと之あるにては之なく候へ共、一向の田舍育にて、事の辨なく、奧州邊の國風に任せ私小兵を動し候段、今更恐入、後悔仕る外之なく候、去るに依て、蘆名領の儀は申すに及ばず本領米澤の城地ともに、今度差上申候間、宜御沙汰あられ、伊達の名跡相續の義に於ては、偏に其元の御取持に預り申度候、此段前以て御意を得べく候へ共、道中より病氣、之に依りて其義能はず、先づ小十郎を以て申入候となり。景綱は、其口上を申終て後、封印したる箱二つを持出づ。一つの封を切り、是は蘆名舊領の繪圖目錄帳面にて候とて、吉隆へ渡し、又箱一つ是は政宗、先祖より傳へたる米澤領繪圖目錄にて候と申し、封を切らんと致したるを、吉隆見て之を押え、其箱の義は先づ封印の儘にて、我等預かり置き申べくと之あり留置き、政宗へは、景綱を以つて御申越の趣、遂一承届け候、是より申承はるべく候、病氣保養油斷あられ間敷旨返答に及び候となり。右の如く、政宗、降人となり、宇都宮へ參陣のこと、奧州筋所々へ聞え渡りたるに付き、出羽、奧州にあるとあらゆる大小の武士とも、大に驚き、我も/\と宇都宮へ出勢致し、或は名代を以て音信物を送て、秀吉の機嫌を相伺ふ如く罷成りたるに付、秀吉は前後宇都宮城に逗留致されながら、奧羽兩國悉く、手に入り申されしとなり。
新字:○小田原の役、政宗間行して小田原に至り、底倉に屏居す。秀吉、人をして遅参のことを詰問せらる。政宗一々に陳謝し、以て命を待居りし時、千利休が秀吉の供して下り居りしに就て、茶の湯を稽古せり。秀吉聞て、政宗は遠国田舎の住居にて、夷狄の風に堕ち、無道の者と聞き及びし所、聞きしに事替り、万事心の付きたる仕方、鄙の都人と言はんものぞと、褒称せられけり。 ○此役終らば、秀吉会津発向すべきに付、先達て小田原表より出勢之あり、諸大名宇都宮近辺へ着陣あると均しく、政宗領分へ物聞、目付等を差遣はしけるに、一段と物静にして、出勢籠城の支度箇間敷こととては少も之なくに付、諸陣共に不審を相立しとなり。然る所秀吉、宇都宮の城へ着陣ありければ、政宗、家老の片倉小十郎景綱、只一人召連れ手廻り人少にて、宇都宮へ至り、城下を隔てたる禅院に止宿し、大谷吉隆方へ、景綱を使者として申送りけるは、先日は初て御意を得、品々御取持に預り候段、過分の至りに候、其節申述候通り我等儀公儀を軽しめ申すと之あるにては之なく候へ共、一向の田舎育にて、事の弁なく、奥州辺の国風に任せ私小兵を動し候段、今更恐入、後悔仕る外之なく候、去るに依て、蘆名領の儀は申すに及ばず本領米沢の城地ともに、今度差上申候間、宜御沙汰あられ、伊達の名跡相続の義に於ては、偏に其元の御取持に預り申度候、此段前以て御意を得べく候へ共、道中より病気、之に依りて其義能はず、先づ小十郎を以て申入候となり。景綱は、其口上を申終て後、封印したる箱二つを持出づ。一つの封を切り、是は蘆名旧領の絵図目録帳面にて候とて、吉隆へ渡し、又箱一つ是は政宗、先祖より伝へたる米沢領絵図目録にて候と申し、封を切らんと致したるを、吉隆見て之を押え、其箱の義は先づ封印の儘にて、我等預かり置き申べくと之あり留置き、政宗へは、景綱を以つて御申越の趣、遂一承届け候、是より申承はるべく候、病気保養油断あられ間敷旨返答に及び候となり。右の如く、政宗、降人となり、宇都宮へ参陣のこと、奥州筋所々へ聞え渡りたるに付き、出羽、奥州にあるとあらゆる大小の武士とも、大に驚き、我も/\と宇都宮へ出勢致し、或は名代を以て音信物を送て、秀吉の機嫌を相伺ふ如く罷成りたるに付、秀吉は前後宇都宮城に逗留致されながら、奥羽両国悉く、手に入り申されしとなり。
書き下し
○小田原の役、政宗間行して小田原に至り、底倉に屏居す。秀吉、人をして遲參のことを詰問せらる。政宗一々に陳謝し、以て命を待居りし時、千利休が秀吉の供して下り居りしに就て、茶の湯を稽古せり。秀吉聞て、政宗は遠國田舍の住居にて、夷狄の風に墮ち、無道の者と聞き及びし所、聞きしに事替り、萬事心の付きたる仕方、鄙の都人と言はんものぞと、褒稱せられけり。 ○此役終らば、秀吉會津發向すべきに付、先達て小田原表より出勢之あり、諸大名宇都宮近邊へ着陣あると均しく、政宗領分へ物聞、目付等を差遣はしけるに、一段と物靜にして、出勢籠城の支度箇間敷こととては少も之なくに付、諸陣共に不審を相立しとなり。然る所秀吉、宇都宮の城へ着陣ありければ、政宗、家老の片倉小十郎景綱、只一人召連れ手廻り人少にて、宇都宮へ至り、城下を隔てたる禪院に止宿し、大谷吉隆方へ、景綱を使者として申送りけるは、先日は初て御意を得、品々御取持に預り候段、過分の至りに候、其節申述候通り我等儀公儀を輕しめ申すと之あるにては之なく候へ共、一向の田舍育にて、事の辨なく、奧州邊の國風に任せ私小兵を動し候段、今更恐入、後悔仕る外之なく候、去るに依て、蘆名領の儀は申すに及ばず本領米澤の城地ともに、今度差上申候間、宜御沙汰あられ、伊達の名跡相續の義に於ては、偏に其元の御取持に預り申度候、此段前以て御意を得べく候へ共、道中より病氣、之に依りて其義能はず、先づ小十郎を以て申入候となり。景綱は、其口上を申終て後、封印したる箱二つを持出づ。一つの封を切り、是は蘆名舊領の繪圖目錄帳面にて候とて、吉隆へ渡し、又箱一つ是は政宗、先祖より傳へたる米澤領繪圖目錄にて候と申し、封を切らんと致したるを、吉隆見て之を押え、其箱の義は先づ封印の儘にて、我等預かり置き申べくと之あり留置き、政宗へは、景綱を以つて御申越の趣、遂一承届け候、是より申承はるべく候、病氣保養油斷あられ間敷旨返答に及び候となり。右の如く、政宗、降人となり、宇都宮へ參陣のこと、奧州筋所々へ聞え渡りたるに付き、出羽、奧州にあるとあらゆる大小の武士とも、大に驚き、我も/\と宇都宮へ出勢致し、或は名代を以て音信物を送て、秀吉の機嫌を相伺ふ如く罷成りたるに付、秀吉は前後宇都宮城に逗留致されながら、奧羽兩國悉く、手に入り申されしとなり。
現代語訳
小田原の役のとき、政宗は間道を通って小田原に至り、底倉に蟄居した。秀吉は人をやって遅参を問いただした。政宗は一つ一つ陳謝し、命を待っていたが、千利休が秀吉の供をして下っていたので、利休について茶の湯を稽古した。秀吉はそれを聞いて「政宗は遠国の田舎住まいで、夷狄の風に染まり、道理のない者と聞いていたが、聞いていたのとは大違いで、万事に気が付く振る舞いである。田舎の都人と言うべきだ」とほめられた。 この役が終われば、秀吉は会津に向かうはずなので、その前に小田原方面から出陣があり、諸大名が宇都宮の近辺に着陣すると同時に、政宗の領分へ偵察や目付などを遣わしたところ、非常に静かで、出陣や籠城の支度らしいことは少しもなかったので、諸陣はみな不審に思ったという。ところが秀吉が宇都宮の城に着陣すると、政宗は家老の片倉小十郎景綱ただ一人を連れ、手回りの人数も少なく宇都宮に至り、城下を隔てた禅院に宿泊し、大谷吉隆のもとへ景綱を使者として申し入れた。「先日は初めてお目にかかり、さまざまお取り持ちにあずかったことは過分のことです。その時申し述べたように、私は公儀を軽んじているわけではありませんが、まったくの田舎育ちで、物事の弁えがなく、奥州辺りの国風に任せて勝手に兵を動かしましたことは、今さら恐れ入り、後悔するばかりです。そこで、蘆名領はもとより、本領の米沢の城地ともども、このたび差し上げますので、よろしくご処置ください。伊達の家名の相続については、ひとえにあなたのお取り持ちにあずかりたいと思います。このことは事前に直接申し上げるべきでしたが、道中から病気となり、かないませんので、まず小十郎をもって申し入れます」ということであった。景綱はその口上を申し終えたのち、封印した箱二つを持ち出した。一つの封を切り、「これは蘆名旧領の絵図目録帳面です」と言って吉隆に渡し、さらに箱一つを「これは政宗が先祖から伝えた米沢領の絵図目録です」と言って、封を切ろうとしたところ、吉隆は見てこれを押しとどめ、「その箱のことは、まず封印のまま私が預かっておきましょう」と言って留め置き、政宗には、景綱を通して申し越した趣旨を、逐一承ったので、こちらからお知らせする、病気療養を怠らないように、と返答した。こうして政宗が降人となって宇都宮へ参陣したことは奥州筋の所々に聞こえ渡ったので、出羽・奥州にいるすべての大小の武士たちは大いに驚き、われもわれもと宇都宮へ出向き、あるいは名代をもって贈り物を送り、秀吉の機嫌をうかがうようになった。そのため秀吉は前後して宇都宮城に逗留しながら、奥羽両国をことごとく手に入れたという。
解説

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名将言行録・『名将言行録』伊達政宗 箱をめぐる対面其後吉隆方より秀吉公御對面之あるに付、片倉を召連れ明早天登城致さるべくとのことに付、翌日に至り、政宗出仕の所、秀吉對面あり、其上岡江雪相伴にて、政宗、景綱へ料理賜はり、茶抔も相濟み候、已後又秀吉前へ政宗を呼出され、吉隆、件の箱を持出、政宗前に差置く。秀吉申されけるは、蘆名舊領の地は召上げ候、其方持參り候、本領米澤の義も今度差上ぐると雖も、手前心入を以て返し與へ候條、相替はらず領地尤もなり、我等も追付歸京候條、早々歸り然るべきとて、首尾能く暇を賜はりたるに付、政宗、其箱を押裁き一禮を述べ罷歸りしとなり。其節吉隆は、景綱に向ひ、會津の義は何つ頃明渡し申さるやと尋ねければ、景綱曰く、黑川を始め、其外の城々の義も、悉く明け候て、城番の侍足輕、少々居殘候までの義に候間、明日にも差上ぐべくと申たり。政宗は申すに及ばず、景綱も只尋常の者にては之なしと、其頃取沙汰せしとなり。
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名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 長陣と謡の策○秀吉、小田原城を攻む。數月にして陷らず。時に清洲城の留守たりし隆景を召寄られ、此城近日落べしとも見えず、長陣に士卒疲勞せり、之に依り石垣山の砦には秀次を差置き、御邊を輔佐とし、大概の事は德川氏を賴み、一兩月の間暫く歸京して政務を沙汰し、又々下向せんと言はれければ、隆景、之を承はり、愚按には此度の長陣御武運に叶ひ、御勝利の根本と存ずるなり、今少し御逗留あるべし、先づ城攻を休め、弓鐵砲を靜め、仕寄を丁寧にし、夜討の用心を堅固にせられ、味方の者共に長陣の覺悟を極めさせ、敵方にても、長陣と云ふを悟る樣にせられ、然る後、長陣に勞ぬ樣にとて、今樣を謠はせ、亂舞踊を興行させ、猶々敵に長陣と云ことを知らせ給へと申す。秀吉打笑ひ、御邊の申さるゝ所實に以て、感服せり、御亡父にも斯の如き手段ありて、勝利を得られしことありやと尋ければ、隆景、父元就代にも、品は替り候へ共、幾度も箇樣の手段候と申けり。秀吉長陣の仕度はありしかども、隆景が言に從ひ、今樣亂舞抔を興行させたり。斯りければ、流石風流なる上方勢なれば、品々今樣を作り謠ひ、爰の山、彼の嶺にて、思ひ〳〵の興行ありて、何れも長陣の憂を忘れたり。其後隆景、秀吉に、東國の先方なれば德川殿と御相談ありて、城中へ御計策然るべし、時節來り候ひぬ、と申ければ、秀吉又其言に從ひ、宇喜多秀家をして、城將太田氏房に酒肴抔を贈らせ、交和の策を施されたり。後幾程もなく小田原落去せり。果して隆景の計りし如し。