名将言行録 / 『名将言行録』伊達政宗 評・政宗の観望
○伊達氏は、藤原氏で左大臣魚名の後である。藤原利仁、田原藤太、九州の菊池、少貳大友、工藤祐經など、藤原氏出身の武將も、可なり多かつたが、殘つたのは伊達氏位である。祖先の朝宗が、賴朝に從つて藤原泰衡を討つて功あり、伊達信夫二郡を貰つて伊達氏を稱したのである。大名としては名家でもあり、古くもある。政宗は、天正十二年十八歲で、父の後を繼ぎ、天正十七年には、會津の蘆名氏を斃して、その所領は百五十萬石に達して、寶に奧羽の一大勢力となり、居を黑川城(後の若松城)に移して、南下の勢を示してゐたのである。彼は、小田原の北條と結んで、常陸の佐竹を衝かうとしてゐたのである。ところが、翌十八年三月に、秀吉の小田原征伐が始まつたのである。政宗は、外交家としても相當なもので、兼てから秀吉の側臣達とも音問を通じたり、付け届けをしてゐるのだから、小田原へ馳けつければ、舊領安堵は心配ないのだが、秀吉の意に反して攻め取つた會津領は返さなければならない。折角、攻め取つた五、六十萬石を返すのは残念である。北條が、どの程度に頑張るか、秀吉がよほど手古づるやうなら、北條と示し合はせて前後から挾撃してやらう。さうした肚もあつて、形勢を觀望したわけである。少し、觀望し過ぎたのである。だが、彼はこりや駄目だと氣がつくと、裸になつて秀吉の膝下に飛び込んで、死中に活を求めたのである。
新字:○伊達氏は、藤原氏で左大臣魚名の後である。藤原利仁、田原藤太、九州の菊池、少貳大友、工藤祐経など、藤原氏出身の武将も、可なり多かつたが、残つたのは伊達氏位である。祖先の朝宗が、頼朝に従つて藤原泰衡を討つて功あり、伊達信夫二郡を貰つて伊達氏を称したのである。大名としては名家でもあり、古くもある。政宗は、天正十二年十八歳で、父の後を継ぎ、天正十七年には、会津の蘆名氏を斃して、その所領は百五十万石に達して、宝に奥羽の一大勢力となり、居を黒川城(後の若松城)に移して、南下の勢を示してゐたのである。彼は、小田原の北条と結んで、常陸の佐竹を衝かうとしてゐたのである。ところが、翌十八年三月に、秀吉の小田原征伐が始まつたのである。政宗は、外交家としても相当なもので、兼てから秀吉の側臣達とも音問を通じたり、付け届けをしてゐるのだから、小田原へ馳けつければ、旧領安堵は心配ないのだが、秀吉の意に反して攻め取つた会津領は返さなければならない。折角、攻め取つた五、六十万石を返すのは残念である。北条が、どの程度に頑張るか、秀吉がよほど手古づるやうなら、北条と示し合はせて前後から挟撃してやらう。さうした肚もあつて、形勢を観望したわけである。少し、観望し過ぎたのである。だが、彼はこりや駄目だと気がつくと、裸になつて秀吉の膝下に飛び込んで、死中に活を求めたのである。
書き下し
○伊達氏は、藤原氏で左大臣魚名の後である。藤原利仁、田原藤太、九州の菊池、少貳大友、工藤祐經など、藤原氏出身の武將も、可なり多かつたが、殘つたのは伊達氏位である。祖先の朝宗が、賴朝に從つて藤原泰衡を討つて功あり、伊達信夫二郡を貰つて伊達氏を稱したのである。大名としては名家でもあり、古くもある。政宗は、天正十二年十八歲で、父の後を繼ぎ、天正十七年には、會津の蘆名氏を斃して、その所領は百五十萬石に達して、寶に奧羽の一大勢力となり、居を黑川城(後の若松城)に移して、南下の勢を示してゐたのである。彼は、小田原の北條と結んで、常陸の佐竹を衝かうとしてゐたのである。ところが、翌十八年三月に、秀吉の小田原征伐が始まつたのである。政宗は、外交家としても相當なもので、兼てから秀吉の側臣達とも音問を通じたり、付け届けをしてゐるのだから、小田原へ馳けつければ、舊領安堵は心配ないのだが、秀吉の意に反して攻め取つた會津領は返さなければならない。折角、攻め取つた五、六十萬石を返すのは残念である。北條が、どの程度に頑張るか、秀吉がよほど手古づるやうなら、北條と示し合はせて前後から挾撃してやらう。さうした肚もあつて、形勢を觀望したわけである。少し、觀望し過ぎたのである。だが、彼はこりや駄目だと氣がつくと、裸になつて秀吉の膝下に飛び込んで、死中に活を求めたのである。
現代語訳
伊達氏は藤原氏で、左大臣魚名の後である。藤原利仁、田原藤太、九州の菊池、少弐、大友、工藤祐経など、藤原氏出身の武将もかなり多かったが、残ったのは伊達氏くらいである。祖先の朝宗が、頼朝に従って藤原泰衡を討って功があり、伊達・信夫二郡をもらって伊達氏を称したのである。大名としては名家でもあり、古くもある。政宗は、天正十二年、十八歳で父の後を継ぎ、天正十七年には、会津の蘆名氏を倒して、その所領は百五十万石に達し、実に奥羽の一大勢力となり、居を黒川城(後の若松城)に移して、南下の勢いを示していたのである。彼は、小田原の北条と結んで、常陸の佐竹を衝こうとしていたのである。ところが、翌十八年三月に、秀吉の小田原征伐が始まったのである。政宗は、外交家としても相当なもので、かねてから秀吉の側近たちとも音信を通じたり、付け届けをしているのだから、小田原へ駆けつければ、旧領安堵は心配ないのだが、秀吉の意に反して攻め取った会津領は返さなければならない。せっかく攻め取った五、六十万石を返すのは残念である。北条がどの程度に頑張るか、秀吉がよほど手こずるようなら、北条と示し合わせて前後から挟撃してやろう。そうした腹もあって、形勢を観望したわけである。少し、観望し過ぎたのである。だが、彼はこれは駄目だと気づくと、裸になって秀吉の膝下に飛び込んで、死中に活を求めたのである。
解説

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