名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 忠元の肝を試す
○島津の臣、新納武藏守忠元、初めて秀吉に謁見の時、秀吉まだ軍がしたきかと問ふ。忠元主人に敵對致されなば、幾度も軍を致すべしと答ふ。秀吉流石の勇士なりと賞め、陣羽織を脫して賜はる。忠元進みて拜受し、次の間に退く。又遣る物があるとて、側に立置きたる白刃の長刀螻蛄首を取り石突の方を出し投げられしに、忠元戰々として身振ひながら、近く進みて受取りたり。既に歸宅せしかば、少年の壯士共、忠元に、今日は如何成されしと問ふ。忠元、我等の手向ひする人にあらず、今日は武藏も、腰が拔けしと答へたり。是は忠元謁見の時、秀吉を一刀に刺んと語りし故なりとぞ。 ○秀吉、初め島津を伐んと欲し、先づ仙石權兵衞秀久を商賈と爲し、九州に遣はし、山々野々浦々島々の地理を見せしむ。三年逗留して委細に圖して歸る。秀吉、熟覽して、九州の地理を諳ず。秀吉の島津を伐ちしことは、只氣勢を恃みて思慮なきが如く見ゆれども、萬に心を用ふること斯の如し。
新字:○島津の臣、新納武蔵守忠元、初めて秀吉に謁見の時、秀吉まだ軍がしたきかと問ふ。忠元主人に敵対致されなば、幾度も軍を致すべしと答ふ。秀吉流石の勇士なりと賞め、陣羽織を脱して賜はる。忠元進みて拝受し、次の間に退く。又遣る物があるとて、側に立置きたる白刃の長刀螻蛄首を取り石突の方を出し投げられしに、忠元戦々として身振ひながら、近く進みて受取りたり。既に帰宅せしかば、少年の壮士共、忠元に、今日は如何成されしと問ふ。忠元、我等の手向ひする人にあらず、今日は武蔵も、腰が抜けしと答へたり。是は忠元謁見の時、秀吉を一刀に刺んと語りし故なりとぞ。 ○秀吉、初め島津を伐んと欲し、先づ仙石権兵衛秀久を商賈と為し、九州に遣はし、山々野々浦々島々の地理を見せしむ。三年逗留して委細に図して帰る。秀吉、熟覧して、九州の地理を諳ず。秀吉の島津を伐ちしことは、只気勢を恃みて思慮なきが如く見ゆれども、万に心を用ふること斯の如し。
書き下し
○島津の臣、新納武藏守忠元、初めて秀吉に謁見の時、秀吉まだ軍がしたきかと問ふ。忠元主人に敵對致されなば、幾度も軍を致すべしと答ふ。秀吉流石の勇士なりと賞め、陣羽織を脫して賜はる。忠元進みて拜受し、次の間に退く。又遣る物があるとて、側に立置きたる白刃の長刀螻蛄首を取り石突の方を出し投げられしに、忠元戰々として身振ひながら、近く進みて受取りたり。既に歸宅せしかば、少年の壯士共、忠元に、今日は如何成されしと問ふ。忠元、我等の手向ひする人にあらず、今日は武藏も、腰が拔けしと答へたり。是は忠元謁見の時、秀吉を一刀に刺んと語りし故なりとぞ。 ○秀吉、初め島津を伐んと欲し、先づ仙石權兵衞秀久を商賈と爲し、九州に遣はし、山々野々浦々島々の地理を見せしむ。三年逗留して委細に圖して歸る。秀吉、熟覽して、九州の地理を諳ず。秀吉の島津を伐ちしことは、只氣勢を恃みて思慮なきが如く見ゆれども、萬に心を用ふること斯の如し。
現代語訳
島津の家臣、新納武蔵守忠元が、初めて秀吉に謁見したとき、秀吉は、まだ戦がしたいか、と問うた。忠元は、主人に敵対されるなら、何度でも戦をいたします、と答えた。秀吉は、さすが勇士である、と誉め、陣羽織を脱いで賜った。忠元は進み出て拝受し、次の間に退いた。秀吉は、まだやるものがある、と言って、側に立てかけてあった白刃の長刀の螻蛄首を取って、石突の方を出して投げられたところ、忠元は戦々として身を震わせながら、近くに進んで受け取った。すでに帰宅すると、若い壮士たちが忠元に、今日はどうでしたか、と尋ねた。忠元は、我らの手向かいする相手ではない、今日は武蔵も腰が抜けた、と答えた。これは、忠元が謁見のとき、秀吉を一刀に刺そうと語っていたので、このようにしたのだという。 秀吉は、初め島津を討とうとして、まず仙石権兵衛秀久を商人に仕立てて九州に遣わし、山々、野々、浦々、島々の地理を見せさせた。三年逗留して詳細に図にして帰った。秀吉はそれを熟覧して、九州の地理を暗記した。秀吉が島津を討ったのは、ただ気勢を頼んで思慮がないように見えるけれども、万事に心を用いることはこのとおりである。
解説

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孫子・行軍篇故に兵は益々多きを貴ぶに非ざるなり。惟だ武進する無く、以て力を併せ、敵を料り、人を取るに足るのみ。夫れ惟だ慮り無くして敵を易る者は、必ず人に擒らわる。
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孫子・地形篇我出でて不利、彼出でて不利なるを、支と曰う。支形は、敵我を利すと雖も、我出づる無きなり。引きて之を去り、敵をして半ば出でしめて之を撃てば、利あり。
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『慎思録』巻之五古人以為へらく、地は東南に満たず、と。且つ謂ふ、先天の位、艮は山と為りて西北に居る。故に西北に山多し。兌は沢と為りて東南に居る。故に東南に水多し、と。又曰く、百川皆東海に朝宗す、と。皆是れ中夏の地勢を以て之を言ふ。天下を通論するに非ざるなり。夫れ中夏は崑崙の東に在り。故に地勢西北高くして、東南卑下なり。百川東海に流れ入る。只嶺南の諸州のみ、其の水南海に入る者有り。外国の四方に散在する者は、其の地勢各同じからず。先儒の中夏の地勢を以て天下の通論と為す者は、何ぞや。
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福沢諭吉小品集・旧藩情・第18段地理書を見れば、中津の外に日本あり、日本の外に西洋諸国あるを知るべし。なお進て、天文地質の論を聞けば、大空の茫々、日月星辰の運転に定則あるを知るべし。地皮の層々、幾千万年の天工に成りて、その物質の位置に順序の紊れざるを知るべし。歴史を読めば、中津藩もまたただ徳川時代三百藩の一のみ。徳川はただ日本一島の政権を執りし者のみ。日本の外には亜細亜諸国、西洋諸洲の歴史もほとんど無数にして、その間には古今英雄豪傑の事跡を見るべし。歴山王、ナポレオンの功業を察し、ニウトン、ワット、アダム・スミスの学識を想像すれば、海外に豊太閤なきに非ず、物徂徠も誠に東海の一小先生のみ。わずかに地理歴史の初歩を読むも、その心事はすでに旧套を脱却して高尚ならざるを得ず。いわんや彼の西洋諸大家の理論書を窺い、有形の物理より無形の人事に至るまで、逐一これを比較分解して、事々物々の原因と結果とを探索するにおいてをや。読てその奥に至れば、心事恍爾としてほとんど天外に在るの思をなすべし。この一段に至て、かえりみて世上の事相を観れば、政府も人事の一小区のみ、戦争も群児の戯に異ならず、中津旧藩のごとき、何ぞこれを歯牙に止るに足らん。
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孫子・始計篇地とは、高下・遠近・険易・広狭・死生なり。