名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 沼田を渡して名分を得る
○秀吉屢々北條氏政に上京を勸めけれども、聽かず。眞田昌幸が沼田を渡されなば、上京せんと言ふ。諸將曰く、氏政は不信の者なり、假令沼田を渡されても上京すまじ、沼田は要地なれば、之を渡さず速に攻亡し給へと勸む。秀吉曰く、沼田は僅八萬石の地なり、夫を惜みて、天下の兵を動かす道にあらず、今四方事繁く、人皆軍旅を厭ふ折節なれば、小事に依て兵を起すに忍びんや、之を與へて、若し上京せずんば、人皆氏政は不信の者と言て惡むべし、今、吾關白の職に任じ、天下の政事を取り行ひ、天子に不庭の臣あらば叛逆と名づけ之を征伐せんに、何の難き事か之あらんとありて、沼田を渡せり。去れども上京せざるにより、終に小田原を亡せり。 ○十八年、秀吉船を小田原に廻はす時、近江の御前崎は、昔より馬のことは言ふに及ばず、馬道具をも船に乘せず、若し過て馬の皮にて拵へたる器、船中にあれば、必ず破損すること度々なり、去れば、謹みて口に馬と曰ふことをも忌むと、申傳へ候と言ふ者あり。秀吉聞て、自筆の牒を書て船頭に渡し、是を龍宮に達せば、難あるべからずと言ふ。頃て船共乘出し、彼所に至れば、俄に風雨雷電して、日中忽ち暗となる。船頭、右の牒を海に投入ければ、風雨靜まりて、船恙なし、其狀に曰く、今度就誅伐北條。予使船赴相州小田原。無難可被通之者也、龍宮殿、太閤と書れたり。是を以て愚昧の船頭共皆疑懼を去れり。
新字:○秀吉屡々北条氏政に上京を勧めけれども、聴かず。真田昌幸が沼田を渡されなば、上京せんと言ふ。諸将曰く、氏政は不信の者なり、仮令沼田を渡されても上京すまじ、沼田は要地なれば、之を渡さず速に攻亡し給へと勧む。秀吉曰く、沼田は僅八万石の地なり、夫を惜みて、天下の兵を動かす道にあらず、今四方事繁く、人皆軍旅を厭ふ折節なれば、小事に依て兵を起すに忍びんや、之を与へて、若し上京せずんば、人皆氏政は不信の者と言て悪むべし、今、吾関白の職に任じ、天下の政事を取り行ひ、天子に不庭の臣あらば叛逆と名づけ之を征伐せんに、何の難き事か之あらんとありて、沼田を渡せり。去れども上京せざるにより、終に小田原を亡せり。 ○十八年、秀吉船を小田原に廻はす時、近江の御前崎は、昔より馬のことは言ふに及ばず、馬道具をも船に乗せず、若し過て馬の皮にて拵へたる器、船中にあれば、必ず破損すること度々なり、去れば、謹みて口に馬と曰ふことをも忌むと、申伝へ候と言ふ者あり。秀吉聞て、自筆の牒を書て船頭に渡し、是を竜宮に達せば、難あるべからずと言ふ。頃て船共乗出し、彼所に至れば、俄に風雨雷電して、日中忽ち暗となる。船頭、右の牒を海に投入ければ、風雨静まりて、船恙なし、其状に曰く、今度就誅伐北条。予使船赴相州小田原。無難可被通之者也、竜宮殿、太閤と書れたり。是を以て愚昧の船頭共皆疑懼を去れり。
書き下し
○秀吉屢々北條氏政に上京を勸めけれども、聽かず。眞田昌幸が沼田を渡されなば、上京せんと言ふ。諸將曰く、氏政は不信の者なり、假令沼田を渡されても上京すまじ、沼田は要地なれば、之を渡さず速に攻亡し給へと勸む。秀吉曰く、沼田は僅八萬石の地なり、夫を惜みて、天下の兵を動かす道にあらず、今四方事繁く、人皆軍旅を厭ふ折節なれば、小事に依て兵を起すに忍びんや、之を與へて、若し上京せずんば、人皆氏政は不信の者と言て惡むべし、今、吾關白の職に任じ、天下の政事を取り行ひ、天子に不庭の臣あらば叛逆と名づけ之を征伐せんに、何の難き事か之あらんとありて、沼田を渡せり。去れども上京せざるにより、終に小田原を亡せり。 ○十八年、秀吉船を小田原に廻はす時、近江の御前崎は、昔より馬のことは言ふに及ばず、馬道具をも船に乘せず、若し過て馬の皮にて拵へたる器、船中にあれば、必ず破損すること度々なり、去れば、謹みて口に馬と曰ふことをも忌むと、申傳へ候と言ふ者あり。秀吉聞て、自筆の牒を書て船頭に渡し、是を龍宮に達せば、難あるべからずと言ふ。頃て船共乘出し、彼所に至れば、俄に風雨雷電して、日中忽ち暗となる。船頭、右の牒を海に投入ければ、風雨靜まりて、船恙なし、其狀に曰く、今度就誅伐北條。予使船赴相州小田原。無難可被通之者也、龍宮殿、太閤と書れたり。是を以て愚昧の船頭共皆疑懼を去れり。
現代語訳
秀吉は、たびたび北条氏政に上京を勧めたが、聞き入れなかった。氏政は、真田昌幸が沼田を渡されたら上京しようと言った。諸将は、氏政は信用できない者です、たとえ沼田を渡されても上京しないでしょう、沼田は要地ですから、渡さずに速やかに攻め滅ぼしてください、と勧めた。秀吉は、沼田はわずか八万石の土地である、それを惜しんで天下の兵を動かすのは道理ではない、今は四方が忙しく、人はみな戦いを厭う折であるから、小事によって兵を起こすのは忍びない、これを与えて、もし上京しなければ、人はみな氏政を不信の者として憎むだろう、今、私は関白の職に任じ、天下の政事を行っているので、天子に従わない臣があれば、叛逆と名づけて征伐する、それに何の難しいことがあろうか、と言って沼田を渡した。しかし、氏政が上京しなかったので、ついに小田原を滅ぼした。 天正十八年、秀吉が船を小田原に廻すとき、近江の御前崎は、昔から馬のことは言うに及ばず、馬の道具も船に載せない、もしあやまって馬の皮で作った器が船中にあれば、必ず破損することがたびたびある、そのため慎んで口に馬と言うことも忌む、と申し伝えております、と言う者があった。秀吉は聞いて、自筆の文書を書いて船頭に渡し、これを龍宮に届ければ、災いはないであろうと言った。やがて船が乗り出し、そこに至ると、にわかに風雨雷電が起こり、日中がたちまち暗くなった。船頭が先の文書を海に投げ入れると、風雨は静まり、船は無事であった。その文書にはこうあった。このたび北条を誅伐するため、私は船で相模の小田原に赴く、障りなく通ることを許すべきである、龍宮殿へ、太閤、と書かれていた。これによって、愚昧な船頭たちはみな疑いや恐れを去った。
解説

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