名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 降参の礼と茶入の所望
○此役、秋月長門守種長、小熊の城を出て、秀吉の陣に來り降參す。秀吉對面して、降參の禮を受け、後更に心置くことなく、其方家に傳はりたる楢柴の茶入とて、名高き物ありとこそ聞け、哀れ一目見ばやと言はる。種長、速に取來り候べしと言ふ。秀吉去らば、使を以て取寄せよとて、秋月の從者を返して、彼の茶入を取來る。秀吉見て聞きしに優れるものなり、家の寶たれども、我に得させてんやと懇に言はれしかば、種長既に冑を脫て參り候上は、何條惜むべき樣の候べきと申す。秀吉殊に喜ばれ、久しく我陣所に在りては、軍兵共怪み危むべし、疾く歸れ、我を防ぎしは弓箭執る身の習なり、降參の上は吾恨み露も殘らず、領地本の如くなるべしと言はれしかば、種長喜びて馳歸る。種長が士卒、若し秀吉、種長を害せらる〻ならば、秀吉の陣に駈入り切死にせんと思ひ定めて居たりけるに、歸りて委く秀吉の詞、茶入を乞はれし顚末を語りければ、皆思寄らぬことよと言あへり。斯くと聞き傳へて、九州の敵多く戰はずして降參せり。 ○島津義久、剃髮して秀吉の軍門に降れり。秀吉曰く、其方天子に對し奉り、十五ヶ年の逆心なり、朝敵たる上は、成敗せずして叶はざることなれども、降參の上は、死罪も赦すなり。此上は互に申通ずべきなり、見候へば無刀なり、神妙なる體なり、是を指し候へとて、刀脇差の鐺を手に持て賜はりたり。此由九州の者共傳へ聞て、彌々勇武に慴服せり。
新字:○此役、秋月長門守種長、小熊の城を出て、秀吉の陣に来り降参す。秀吉対面して、降参の礼を受け、後更に心置くことなく、其方家に伝はりたる楢柴の茶入とて、名高き物ありとこそ聞け、哀れ一目見ばやと言はる。種長、速に取来り候べしと言ふ。秀吉去らば、使を以て取寄せよとて、秋月の従者を返して、彼の茶入を取来る。秀吉見て聞きしに優れるものなり、家の宝たれども、我に得させてんやと懇に言はれしかば、種長既に冑を脱て参り候上は、何条惜むべき様の候べきと申す。秀吉殊に喜ばれ、久しく我陣所に在りては、軍兵共怪み危むべし、疾く帰れ、我を防ぎしは弓箭執る身の習なり、降参の上は吾恨み露も残らず、領地本の如くなるべしと言はれしかば、種長喜びて馳帰る。種長が士卒、若し秀吉、種長を害せらる〻ならば、秀吉の陣に駈入り切死にせんと思ひ定めて居たりけるに、帰りて委く秀吉の詞、茶入を乞はれし顛末を語りければ、皆思寄らぬことよと言あへり。斯くと聞き伝へて、九州の敵多く戦はずして降参せり。 ○島津義久、剃髪して秀吉の軍門に降れり。秀吉曰く、其方天子に対し奉り、十五ヶ年の逆心なり、朝敵たる上は、成敗せずして叶はざることなれども、降参の上は、死罪も赦すなり。此上は互に申通ずべきなり、見候へば無刀なり、神妙なる体なり、是を指し候へとて、刀脇差の鐺を手に持て賜はりたり。此由九州の者共伝へ聞て、弥々勇武に慴服せり。
書き下し
○此役、秋月長門守種長、小熊の城を出て、秀吉の陣に來り降參す。秀吉對面して、降參の禮を受け、後更に心置くことなく、其方家に傳はりたる楢柴の茶入とて、名高き物ありとこそ聞け、哀れ一目見ばやと言はる。種長、速に取來り候べしと言ふ。秀吉去らば、使を以て取寄せよとて、秋月の從者を返して、彼の茶入を取來る。秀吉見て聞きしに優れるものなり、家の寶たれども、我に得させてんやと懇に言はれしかば、種長既に冑を脫て參り候上は、何條惜むべき樣の候べきと申す。秀吉殊に喜ばれ、久しく我陣所に在りては、軍兵共怪み危むべし、疾く歸れ、我を防ぎしは弓箭執る身の習なり、降參の上は吾恨み露も殘らず、領地本の如くなるべしと言はれしかば、種長喜びて馳歸る。種長が士卒、若し秀吉、種長を害せらる〻ならば、秀吉の陣に駈入り切死にせんと思ひ定めて居たりけるに、歸りて委く秀吉の詞、茶入を乞はれし顚末を語りければ、皆思寄らぬことよと言あへり。斯くと聞き傳へて、九州の敵多く戰はずして降參せり。 ○島津義久、剃髮して秀吉の軍門に降れり。秀吉曰く、其方天子に對し奉り、十五ヶ年の逆心なり、朝敵たる上は、成敗せずして叶はざることなれども、降參の上は、死罪も赦すなり。此上は互に申通ずべきなり、見候へば無刀なり、神妙なる體なり、是を指し候へとて、刀脇差の鐺を手に持て賜はりたり。此由九州の者共傳へ聞て、彌々勇武に慴服せり。
現代語訳
この戦いで、秋月長門守種長は小熊の城を出て、秀吉の陣に来て降参した。秀吉は対面して降参の礼を受け、その後は少しも心を置くことなく、その方の家に伝わる楢柴の茶入という名高いものがあると聞く、ぜひ一目見たい、と言われた。種長は、すぐに取り寄せましょうと言った。秀吉は、それならば使いをやって取り寄せよ、と言って、秋月の従者を帰して、その茶入を取りに行かせた。秀吉は見て、聞いていたよりもすぐれたものである、家の宝ではあるが、私にくれないか、と丁寧に言われたので、種長は、すでに兜を脱いで参った以上、何を惜しむことがございましょう、と申した。秀吉はとりわけ喜ばれ、長く私の陣所にいると、軍兵たちが怪しみ、心配するだろう、早く帰れ、私を防いだのは弓矢を取る身の習いである、降参した以上は、私の恨みは少しも残らない、領地は元のままである、と言われたので、種長は喜んで駆け帰った。種長の兵たちは、もし秀吉が種長を害するなら、秀吉の陣に駆け入って斬り死にしようと思い定めていたが、帰って詳しく秀吉の言葉と、茶入を乞われた顛末を語ると、みな思いがけないことだと言い合った。これを聞き伝えて、九州の敵の多くは戦わずに降参した。 島津義久は剃髪して秀吉の軍門に降った。秀吉は、その方は天子に対して十五年もの逆心を抱いた、朝敵であるからには成敗しなければならないが、降参した以上は死罪も赦す、この上は互いに連絡を取り合うべきである、見れば無刀である、神妙な様子である、これを差せ、と言って、刀と脇差の鐺を手に持って賜わった。このことを九州の者どもが伝え聞いて、いよいよ勇武に恐れ入った。
解説

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