名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 助命を告げる高札
○西海の役、秀吉宇土に着せし夜、熟々思ひけるは、去る頃大阪を出しより爾來、多くの敵國を打過しかども、手に立つ者一人もなし、此後島津とても左候はん、是は秀吉が武德に依るとは言ながら、天の助くる所なり、然らば科のなき者共が首を切り、或は領知を奪ひ取つて憂目を見せ、悲ませんよりも、命を助け、一所懸命の地を取らせ、安堵させばやと思ひ、翌日石田三成、安國寺惠瓊を召し、九州二島の者共何れも助くべし、所領の地をも與ふべき間、早々罷出で禮を申述よと相觸候へと言はる。惠瓊、當國他國の者共、此間所々に追散され、前々の住所には一人も跡を留め申さず、只今は山林に逃籠り居申間、上意の趣を觸れ聞かすべき樣もなく、如何仕るべきやと申す。秀吉去らば、高札を立て、此趣を知らせよと言はれしかば、在々所々に立てたりけり。高札立て三日も過ぎざるに國士共宇土の陣に參り集り、御禮申す者六七十人に及べりとぞ。
新字:○西海の役、秀吉宇土に着せし夜、熟々思ひけるは、去る頃大阪を出しより爾来、多くの敵国を打過しかども、手に立つ者一人もなし、此後島津とても左候はん、是は秀吉が武徳に依るとは言ながら、天の助くる所なり、然らば科のなき者共が首を切り、或は領知を奪ひ取つて憂目を見せ、悲ませんよりも、命を助け、一所懸命の地を取らせ、安堵させばやと思ひ、翌日石田三成、安国寺恵瓊を召し、九州二島の者共何れも助くべし、所領の地をも与ふべき間、早々罷出で礼を申述よと相触候へと言はる。恵瓊、当国他国の者共、此間所々に追散され、前々の住所には一人も跡を留め申さず、只今は山林に逃籠り居申間、上意の趣を触れ聞かすべき様もなく、如何仕るべきやと申す。秀吉去らば、高札を立て、此趣を知らせよと言はれしかば、在々所々に立てたりけり。高札立て三日も過ぎざるに国士共宇土の陣に参り集り、御礼申す者六七十人に及べりとぞ。
書き下し
○西海の役、秀吉宇土に着せし夜、熟々思ひけるは、去る頃大阪を出しより爾來、多くの敵國を打過しかども、手に立つ者一人もなし、此後島津とても左候はん、是は秀吉が武德に依るとは言ながら、天の助くる所なり、然らば科のなき者共が首を切り、或は領知を奪ひ取つて憂目を見せ、悲ませんよりも、命を助け、一所懸命の地を取らせ、安堵させばやと思ひ、翌日石田三成、安國寺惠瓊を召し、九州二島の者共何れも助くべし、所領の地をも與ふべき間、早々罷出で禮を申述よと相觸候へと言はる。惠瓊、當國他國の者共、此間所々に追散され、前々の住所には一人も跡を留め申さず、只今は山林に逃籠り居申間、上意の趣を觸れ聞かすべき樣もなく、如何仕るべきやと申す。秀吉去らば、高札を立て、此趣を知らせよと言はれしかば、在々所々に立てたりけり。高札立て三日も過ぎざるに國士共宇土の陣に參り集り、御禮申す者六七十人に及べりとぞ。
現代語訳
西海の役のとき、秀吉は宇土に着いた夜、じっくりと考えた。大坂を出て以来、多くの敵国を過ぎてきたが、手向かう者は一人もいない、この後の島津とてそうだろう、これは秀吉の武徳によるとはいえ、天が助けるところである、それならば、罪のない者たちの首を切り、または領地を奪って憂き目を見せ、悲しませるよりも、命を助け、一所懸命の地を与えて安堵させよう、と思った。翌日、石田三成と安国寺恵瓊を召し、九州二島の者どもは、みな助けるべし、所領の地も与えるから、早々に参上して礼を申し述べよと触れさせよ、と言われた。恵瓊は、この国や他国の者たちは、このごろ所々で追い散らされ、以前の住所には一人も跡を留めず、今は山林に逃げ籠っておりますので、上意の趣旨を触れ知らせる方法もなく、どうすればよいでしょうか、と申した。秀吉は、それならば高札を立てて、この趣旨を知らせよ、と言われたので、在々所々に立てた。高札を立てて三日も過ぎないうちに、国の武士たちが宇土の陣に参集し、御礼を申す者は六、七十人に及んだという。
解説

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