名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 三度の拝礼と家康の読み
家康其時、殿下の召させられし御羽織を某に賜はらんと言はるれば、秀吉是は我が陣羽織なり進らすこと叶はじと言はる。家康、御陣羽織と承はるからは猶更拜受を願ふなり、家康斯てあらんには、重ねて御物具着せ進らすまじと言はるれば、秀吉大に喜ばれ、去らば參らせんとて、自ら脫て着せられ、諸大名に向ひ、唯今家康の秀吉に物具させじと言はれし一言を、各聞れしや、秀吉は能き妹壻を取りたる果報の者よと言はる。是日諸大名の陪從多しとて、秀吉奉行人を召れば、奉行人乘ねて少く連候へと申付しにと申せば、秀吉打笑ひ、德川殿御聞候へ、此所より僅か清水へ行くにも、人數の三萬か二萬と申されしとぞ。次の年駿府の城にて、井伊直政、本多正信に、去年秀吉が許にて、我に陣羽織を所望せしめしは、家康が一言にて、四國中國の者を鎭服せしめん爲なり、次に近所へ行くにも、二萬か三萬と言ひしは、兵威を以て我を喝さんとてなり。例の秀吉が權詐よと言はれしとぞ。果して其事十日を過ずして四國中國は更なり、不知火や、筑紫のはてまでも言ひ傳へて、關白の兵威の盛なるを稱しけり。又或時、我上京せし時、秀吉密に旅館に來り、我に向ひ三度まで拜禮す、其事知りし秀長、淺野長政、加々爪某、茶屋四郎次郎四人には、誓紙させ他言を止めしと聞く。斯く諸大名を出し抜て事を謀る人には、中々力押には成り難し、能々時節を待て、工夫あるべしと言はれしとぞ。
新字:家康其時、殿下の召させられし御羽織を某に賜はらんと言はるれば、秀吉是は我が陣羽織なり進らすこと叶はじと言はる。家康、御陣羽織と承はるからは猶更拝受を願ふなり、家康斯てあらんには、重ねて御物具着せ進らすまじと言はるれば、秀吉大に喜ばれ、去らば参らせんとて、自ら脱て着せられ、諸大名に向ひ、唯今家康の秀吉に物具させじと言はれし一言を、各聞れしや、秀吉は能き妹壻を取りたる果報の者よと言はる。是日諸大名の陪従多しとて、秀吉奉行人を召れば、奉行人乗ねて少く連候へと申付しにと申せば、秀吉打笑ひ、徳川殿御聞候へ、此所より僅か清水へ行くにも、人数の三万か二万と申されしとぞ。次の年駿府の城にて、井伊直政、本多正信に、去年秀吉が許にて、我に陣羽織を所望せしめしは、家康が一言にて、四国中国の者を鎮服せしめん為なり、次に近所へ行くにも、二万か三万と言ひしは、兵威を以て我を喝さんとてなり。例の秀吉が権詐よと言はれしとぞ。果して其事十日を過ずして四国中国は更なり、不知火や、筑紫のはてまでも言ひ伝へて、関白の兵威の盛なるを称しけり。又或時、我上京せし時、秀吉密に旅館に来り、我に向ひ三度まで拝礼す、其事知りし秀長、浅野長政、加々爪某、茶屋四郎次郎四人には、誓紙させ他言を止めしと聞く。斯く諸大名を出し抜て事を謀る人には、中々力押には成り難し、能々時節を待て、工夫あるべしと言はれしとぞ。
書き下し
家康其時、殿下の召させられし御羽織を某に賜はらんと言はるれば、秀吉是は我が陣羽織なり進らすこと叶はじと言はる。家康、御陣羽織と承はるからは猶更拜受を願ふなり、家康斯てあらんには、重ねて御物具着せ進らすまじと言はるれば、秀吉大に喜ばれ、去らば參らせんとて、自ら脫て着せられ、諸大名に向ひ、唯今家康の秀吉に物具させじと言はれし一言を、各聞れしや、秀吉は能き妹壻を取りたる果報の者よと言はる。是日諸大名の陪從多しとて、秀吉奉行人を召れば、奉行人乘ねて少く連候へと申付しにと申せば、秀吉打笑ひ、德川殿御聞候へ、此所より僅か清水へ行くにも、人數の三萬か二萬と申されしとぞ。次の年駿府の城にて、井伊直政、本多正信に、去年秀吉が許にて、我に陣羽織を所望せしめしは、家康が一言にて、四國中國の者を鎭服せしめん爲なり、次に近所へ行くにも、二萬か三萬と言ひしは、兵威を以て我を喝さんとてなり。例の秀吉が權詐よと言はれしとぞ。果して其事十日を過ずして四國中國は更なり、不知火や、筑紫のはてまでも言ひ傳へて、關白の兵威の盛なるを稱しけり。又或時、我上京せし時、秀吉密に旅館に來り、我に向ひ三度まで拜禮す、其事知りし秀長、淺野長政、加々爪某、茶屋四郎次郎四人には、誓紙させ他言を止めしと聞く。斯く諸大名を出し抜て事を謀る人には、中々力押には成り難し、能々時節を待て、工夫あるべしと言はれしとぞ。
現代語訳
家康はそのとき、殿下がお召しになっているお羽織を私にお与えくださいと言われると、秀吉は、これは私の陣羽織である、差し上げることはできない、と言われた。家康が、陣羽織と承りましたからには、なおさらいただきたく存じます、家康がこうしてある以上、重ねてお武具をお着せ申し上げることはいたしません、と言われると、秀吉は大いに喜ばれ、それならば差し上げようと自ら脱いで着せられ、諸大名に向かって、ただ今、家康が秀吉にもう武具を着せまいと言った一言を、各々聞かれたか、秀吉はよい妹婿を持った幸せ者である、と言われた。この日は諸大名のお供が多いというので、秀吉が奉行人を召し、少なく連れよと命じたところ、奉行人が、清水へ行くにも三万や二万の兵が付くと申されましたのに、と言うので、秀吉は打ち笑い、徳川殿お聞きくだされ、ここから近くの清水へ行くにも、人数が三万か二万と言われたのです、と言ったという。翌年、駿府の城で家康は井伊直政、本多正信に、去年秀吉のもとで、私に陣羽織を所望させたのは、家康のこの一言で、四国、中国の者を従わせようとの狙いである。次に、近所へ行くにも二万か三万と言ったのは、兵力を誇って私を威嚇するためである。例の秀吉の権詐である、と言われた。果たしてその話は十日を過ぎずに、四国、中国はもちろん、筑紫の果てまでも言い伝えられ、関白の兵威の盛んなことを称えた。また、あるとき家康は、私が上京したとき、秀吉がひそかに旅館に来て、私に三度まで拝礼した、このことを知った秀長、浅野長政、加々爪某、茶屋四郎次郎の四人には誓紙を書かせ、他言を止めたと聞く。このように諸大名を出し抜いて事を謀る人には、力押しは容易でない、よく時節を待ち、工夫をするがよい、と言われたという。
解説

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