名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 家康との講和の筋書き
○長湫役後、秀吉、家康と合戰し、勝利を得ることは中々氣遣敷ことに思ひ、夫より竊に織田信雄へ和睦の使に、富田左近信廣、津田隼人信季を以て申入る。兩使勢州矢田河原にて對面の時御分別違にて之あるべく、家康、元來三河武士にて、信長公よりも御手入、御一味成され候へば、天下を御自分に渡さる〻ことにては之有間敷、其上信長公御一代に、漸く十七箇國御手に入候、某は早や四十箇國手に入り候へば、是亦御自分へ渡す義は成り申さず候、然れども、信長公御取立の某儀に候間、向後和睦成さるべく候は〻、能き所にて百萬石進じ申すべき由申入ければ、信雄、早速同心にて、和睦すべしとて返答せり、家康には、信長の筋目を思ひ、加勢せられし所、一應の相談もなく和睦同心の由、返事せられしに付、家康以の外機嫌損じ、信雄の腰拔けに頼まれ、後悔せりと言はれし由、其後秀吉、羽柴下總守雄利を使にて、家康へ和睦の義申入らる。折節家康には、鷹野に出て居らる〻所へ、秀吉の使羽柴下總守參りたる由聞かれ、鷹場へ直ぐに雄利を呼ばれて筑州よりの使か、何事を申來り候と言はれければ、雄利申は、秀吉口上には、向後弓矢を相止め申すべく候、御同心に於ては、早々御上洛成さるべく、天下の仕置を御相談仕るべくとのことなり。家康、信雄の腰拔けに賴まれ、加勢致し殘念に存候、其許見及び申さるる通り、今日手廻りの者計りにて、鷹野致し慰み居り候、侍共は頃日の骨折に、在所へ休息に遣はし候、頓て筑州と一戰に及ぶべき覺悟に候、此旨罷歸り申さるべく候由、返答せらる。雄利返事を承はりて歸る。折節秀吉、風呂に入り候所へ、雄利罷歸り候由申ければ、則ち風呂屋に召し、家康返答の趣聞届け、偖雄利には罷歸り休息致し候へ、と言はれ返されたり。秀吉、其時髮を洗はせ居り候内に、思案し、雄利を呼返し候へと言はる。
新字:○長湫役後、秀吉、家康と合戦し、勝利を得ることは中々気遣敷ことに思ひ、夫より窃に織田信雄へ和睦の使に、富田左近信広、津田隼人信季を以て申入る。両使勢州矢田河原にて対面の時御分別違にて之あるべく、家康、元来三河武士にて、信長公よりも御手入、御一味成され候へば、天下を御自分に渡さる〻ことにては之有間敷、其上信長公御一代に、漸く十七箇国御手に入候、某は早や四十箇国手に入り候へば、是亦御自分へ渡す義は成り申さず候、然れども、信長公御取立の某儀に候間、向後和睦成さるべく候は〻、能き所にて百万石進じ申すべき由申入ければ、信雄、早速同心にて、和睦すべしとて返答せり、家康には、信長の筋目を思ひ、加勢せられし所、一応の相談もなく和睦同心の由、返事せられしに付、家康以の外機嫌損じ、信雄の腰抜けに頼まれ、後悔せりと言はれし由、其後秀吉、羽柴下総守雄利を使にて、家康へ和睦の義申入らる。折節家康には、鷹野に出て居らる〻所へ、秀吉の使羽柴下総守参りたる由聞かれ、鷹場へ直ぐに雄利を呼ばれて筑州よりの使か、何事を申来り候と言はれければ、雄利申は、秀吉口上には、向後弓矢を相止め申すべく候、御同心に於ては、早々御上洛成さるべく、天下の仕置を御相談仕るべくとのことなり。家康、信雄の腰抜けに頼まれ、加勢致し残念に存候、其許見及び申さるる通り、今日手廻りの者計りにて、鷹野致し慰み居り候、侍共は頃日の骨折に、在所へ休息に遣はし候、頓て筑州と一戦に及ぶべき覚悟に候、此旨罷帰り申さるべく候由、返答せらる。雄利返事を承はりて帰る。折節秀吉、風呂に入り候所へ、雄利罷帰り候由申ければ、則ち風呂屋に召し、家康返答の趣聞届け、偖雄利には罷帰り休息致し候へ、と言はれ返されたり。秀吉、其時髪を洗はせ居り候内に、思案し、雄利を呼返し候へと言はる。
書き下し
○長湫役後、秀吉、家康と合戰し、勝利を得ることは中々氣遣敷ことに思ひ、夫より竊に織田信雄へ和睦の使に、富田左近信廣、津田隼人信季を以て申入る。兩使勢州矢田河原にて對面の時御分別違にて之あるべく、家康、元來三河武士にて、信長公よりも御手入、御一味成され候へば、天下を御自分に渡さる〻ことにては之有間敷、其上信長公御一代に、漸く十七箇國御手に入候、某は早や四十箇國手に入り候へば、是亦御自分へ渡す義は成り申さず候、然れども、信長公御取立の某儀に候間、向後和睦成さるべく候は〻、能き所にて百萬石進じ申すべき由申入ければ、信雄、早速同心にて、和睦すべしとて返答せり、家康には、信長の筋目を思ひ、加勢せられし所、一應の相談もなく和睦同心の由、返事せられしに付、家康以の外機嫌損じ、信雄の腰拔けに頼まれ、後悔せりと言はれし由、其後秀吉、羽柴下總守雄利を使にて、家康へ和睦の義申入らる。折節家康には、鷹野に出て居らる〻所へ、秀吉の使羽柴下總守參りたる由聞かれ、鷹場へ直ぐに雄利を呼ばれて筑州よりの使か、何事を申來り候と言はれければ、雄利申は、秀吉口上には、向後弓矢を相止め申すべく候、御同心に於ては、早々御上洛成さるべく、天下の仕置を御相談仕るべくとのことなり。家康、信雄の腰拔けに賴まれ、加勢致し殘念に存候、其許見及び申さるる通り、今日手廻りの者計りにて、鷹野致し慰み居り候、侍共は頃日の骨折に、在所へ休息に遣はし候、頓て筑州と一戰に及ぶべき覺悟に候、此旨罷歸り申さるべく候由、返答せらる。雄利返事を承はりて歸る。折節秀吉、風呂に入り候所へ、雄利罷歸り候由申ければ、則ち風呂屋に召し、家康返答の趣聞届け、偖雄利には罷歸り休息致し候へ、と言はれ返されたり。秀吉、其時髮を洗はせ居り候内に、思案し、雄利を呼返し候へと言はる。
現代語訳
長久手の戦いのあと、秀吉は家康と合戦して勝利を得ることは容易でないと思い、それよりひそかに織田信雄への和睦の使者として、富田左近将監信広、津田隼人信季を遣わして申し入れた。二人は伊勢の矢田河原で対面したとき、こう申した。お考えが違っておられます。家康は元来三河の武士で、信長公からも手を入れられ、味方をしておられますが、天下を貴殿に渡されることはありますまい。そのうえ、信長公は一代でようやく十七か国を手に入れられましたが、私はもう四十か国を手に入れております。これもまた貴殿に渡すことはできません。しかし、信長公が取り立てた私のことですから、今後和睦されるなら、よい所で百万石を差し上げます、と申し入れた。信雄は早速に同意し、和睦しようと返答した。家康には、信長との縁を思って加勢したのに、一度の相談もなく和睦に同意したと返事をされたので、家康は大いに機嫌を損ね、信雄の腰抜けに頼まれて後悔した、と言われたということである。その後、秀吉は羽柴下総守雄利を使者として、家康に和睦を申し入れた。ちょうど家康は鷹狩りに出ていたが、秀吉の使者羽柴下総守が来たと聞き、鷹場へ直接雄利を呼んで、筑前守からの使いか、何を申し越したのか、と言った。雄利は、秀吉の口上では、今後は弓矢を収めましょう、同意されるなら早々に上洛され、天下の仕置きを相談しましょう、とのことです、と答えた。家康は、信雄の腰抜けに頼まれて加勢したのが残念である、貴殿が見る通り、今日は手廻りの者だけで鷹狩りをして遊んでいる、侍たちは近ごろの働きで在所に休息に行かせている、すぐにも筑前守と一戦に及ぶ覚悟である、このことを帰って申し上げよ、と返答された。雄利は返事を承って帰った。ちょうど秀吉は風呂に入っているところへ、雄利が帰ったと申し上げると、すぐに風呂屋に呼び、家康の返答の趣を聞き届け、さて雄利は帰って休息せよ、と言って帰した。秀吉はそのとき髪を洗わせている間に思案し、雄利を呼び返せと言われた。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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『学問のすゝめ』十六編・心事と働きと相当すべきの論・みだりに人を軽蔑する者はまた心事高尚にして働きに乏しき者は、人に厭われて孤立することあり。己が働きと他人の働きとを比較すればもとより及ぶべきにあらざれども、己が心事をもって他の働きを見れば、これに満足すべからずして、おのずから私に軽蔑の念なきを得ず。みだりに人を軽蔑する者は、必ずまた人の軽蔑を免るべからず。互いに相不平をいだき、互いに相蔑視して、ついには変人奇物の嘲りを取り、世間に歯すべからざるに至るものなり。今日世の有様を見るにあるいは傲慢不遜にして人に厭わるる者あり、あるいは人に勝つことを欲して人に厭わるる者あり、あるいは人に多を求めて人に厭わるる者あり、あるいは人を誹謗して人に厭わるる者あり。いずれもみな人に対して比較するところを失い、己が高尚なる心事をもって標的となし、これに照らすに他の働きをもってして、その際に恍惚たる想像を造り、もって人に厭わるるの端を開き、ついにみずから人を避けて独歩孤立の苦界に陥る者なり。
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『呻吟語』内篇・問學・根腳站立し住まらず道學の行はれざるは、只だ自家の根腳站立し住まらざるが為なり。或いは倡へて和せざれば、則ち勢孤なり。或いは守りて眾撓せば、則ち志惑ふ。或いは為して成らざれば、則ち氣沮む。或いは風俗に奪はるれば、則ち念雜なり。挺身自ら拔かんと要せば、須らく是れ萬夫も當たる莫きの勇、死して後已むの心有るべし。然らずんば、終日三五聚談し、唇を焦がし舌を敝らすも、甚の事をか成し得ん。
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