名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 大功は細謹を顧みず
早や雄利には、七八町も宿の方へ歸りしを呼返しければ、秀吉大義ながら宿へ歸らず、今一度家康への使に參り候へ、家康上洛せらるべき思案出來したりと言はる。其口上には、御返答の趣委細聞届け、尤もに存候、兎角天下の義萬端御談合申されずしては叶はざる事に候間、是非御上洛成さるべく候、然らば今程奧方之なき由承はり及び候、幸ひ拙者妹を進じ申度候、末子にて候故大政所の殊の外愛子に候へば、差放し難く候に付、大政所をも送り進ずべく候、猶亦其方には御子多く之あり候、一人申請け養子に致度候、若し實子出來候は〻、何れの國々にても、百萬石宛行申すべく候、此趣罷下り申達し候へと言はれて、重ねて雄利使に往き、秀吉の口上の趣、家康へ具に申述ければ、家康、老臣を召寄せ相談の上、其義ならば同心致すべき由、秀吉より申入られ候通り、返答ありたり。 ○秀吉、家康と和睦あり、大政所を質とし下さるべきに定まる。秀吉の弟大和大納言秀長、一人の老母を敵へ質とし下だすこと、武門の瑕瑾なり、家康上京のことを拒むに於ては、快く一戰あるべしと言ふ。秀吉笑て、大功不顧細謹と言ふ、汝が量甚だ狹し、共に大事を計るに足らず、家康の如き名將、我に從は〻、天下を掌握すること時日を費すべからず、若し家康と兵を交へば、假令一旦利を得るとも、必ず危殆を免れず、戰はずして勝を得るは、良將の勤むる所なりと言はれければ、秀長歎服せり。
新字:早や雄利には、七八町も宿の方へ帰りしを呼返しければ、秀吉大義ながら宿へ帰らず、今一度家康への使に参り候へ、家康上洛せらるべき思案出来したりと言はる。其口上には、御返答の趣委細聞届け、尤もに存候、兎角天下の義万端御談合申されずしては叶はざる事に候間、是非御上洛成さるべく候、然らば今程奥方之なき由承はり及び候、幸ひ拙者妹を進じ申度候、末子にて候故大政所の殊の外愛子に候へば、差放し難く候に付、大政所をも送り進ずべく候、猶亦其方には御子多く之あり候、一人申請け養子に致度候、若し実子出来候は〻、何れの国々にても、百万石宛行申すべく候、此趣罷下り申達し候へと言はれて、重ねて雄利使に往き、秀吉の口上の趣、家康へ具に申述ければ、家康、老臣を召寄せ相談の上、其義ならば同心致すべき由、秀吉より申入られ候通り、返答ありたり。 ○秀吉、家康と和睦あり、大政所を質とし下さるべきに定まる。秀吉の弟大和大納言秀長、一人の老母を敵へ質とし下だすこと、武門の瑕瑾なり、家康上京のことを拒むに於ては、快く一戦あるべしと言ふ。秀吉笑て、大功不顧細謹と言ふ、汝が量甚だ狭し、共に大事を計るに足らず、家康の如き名将、我に従は〻、天下を掌握すること時日を費すべからず、若し家康と兵を交へば、仮令一旦利を得るとも、必ず危殆を免れず、戦はずして勝を得るは、良将の勤むる所なりと言はれければ、秀長嘆服せり。
書き下し
早や雄利には、七八町も宿の方へ歸りしを呼返しければ、秀吉大義ながら宿へ歸らず、今一度家康への使に參り候へ、家康上洛せらるべき思案出來したりと言はる。其口上には、御返答の趣委細聞届け、尤もに存候、兎角天下の義萬端御談合申されずしては叶はざる事に候間、是非御上洛成さるべく候、然らば今程奧方之なき由承はり及び候、幸ひ拙者妹を進じ申度候、末子にて候故大政所の殊の外愛子に候へば、差放し難く候に付、大政所をも送り進ずべく候、猶亦其方には御子多く之あり候、一人申請け養子に致度候、若し實子出來候は〻、何れの國々にても、百萬石宛行申すべく候、此趣罷下り申達し候へと言はれて、重ねて雄利使に往き、秀吉の口上の趣、家康へ具に申述ければ、家康、老臣を召寄せ相談の上、其義ならば同心致すべき由、秀吉より申入られ候通り、返答ありたり。 ○秀吉、家康と和睦あり、大政所を質とし下さるべきに定まる。秀吉の弟大和大納言秀長、一人の老母を敵へ質とし下だすこと、武門の瑕瑾なり、家康上京のことを拒むに於ては、快く一戰あるべしと言ふ。秀吉笑て、大功不顧細謹と言ふ、汝が量甚だ狹し、共に大事を計るに足らず、家康の如き名將、我に從は〻、天下を掌握すること時日を費すべからず、若し家康と兵を交へば、假令一旦利を得るとも、必ず危殆を免れず、戰はずして勝を得るは、良將の勤むる所なりと言はれければ、秀長歎服せり。
現代語訳
秀吉の使者の雄利は、もう七、八町も宿の方へ帰っていたのを呼び返した。秀吉は、すまないが宿へ帰らず、もう一度家康への使いに行ってくれ、家康が上洛される思案ができた、と言った。その口上は、ご返答の趣旨は詳しく聞き届け、もっともなことと存ずる、ともかく天下のことは万事ご相談しなければ成り立たないので、ぜひご上洛くださるように、そうすれば、今は奥方がおられないと聞いているので、幸い私の妹を差し上げたい、末の子で大政所がことのほか愛している子なので、手放しがたいから、大政所もお送りしよう、また貴殿にはお子が多くおられるから、一人を申し受けて養子にしたい、もし実子ができたら、どの国でも百万石ずつ与えよう、この趣旨を下って申し伝えよ、と言われた。そこで雄利は重ねて使いに行き、秀吉の口上のとおり家康に詳しく述べたところ、家康は老臣を召し寄せて相談のうえ、そういうことなら同意しよう、秀吉から申し入れの通りに、と返答した。 秀吉は家康と和睦し、大政所を人質に差し出すことが決まった。秀吉の弟の大和大納言秀長は、ひとりの老母を敵へ人質に出すのは、武門の恥である、家康が上京を拒むなら、快く一戦すべきです、と言った。秀吉は笑って、大功は細謹を顧みずと言う、お前の度量は狭い、ともに大事を図るには足りない、家康のような名将が私に従えば、天下を握ることに時間はかからない、もし家康と兵を交えれば、たとえ一度は勝っても、必ず危うさを免れない、戦わずして勝ちを得ることこそ、良将の務めである、と言われると、秀長は感服した。
解説

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名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 家康を迎える夜の心配り○十四年、秀吉、既に家康と和睦成り、九月二十七日、家康着京ありければ、秀吉、弟の秀長及び淺野長政を使にて、上京の忝きを謝し、偖兩三日風疾に侵されければ、急に參會六箇敷由を申し、偖諸大名へも對面の義、四五日延引と觸ければ、人々、家康切腹にても申付らるるかと疑ひあへり。此夜秀吉微行して家康の旅館に至り、上京の忝きを謝し、名物の刀を贈り酒酌み替はして歸れり。二十八日夜、又至り名物の茶壺を贈る。二十九日夜も亦至り、黄金三百枚を贈る。明る十月朔日の夜も又至り、小袖を贈り、偖明二日四ッ過までに御目に掛るべく候、兼ねて書狀に申す如く、少し懇懃に御挨拶成し賜はるべく左すれば、信長よりの侍大將、吾等を主人會釋に致候とのことなり。家康、上京致したる上は、御爲め宜しき樣に致すべき由、返答ありければ、秀吉三度拜して歸れり。偖二日の朝、今午の刻に、家康に對面之ある間、各束帶にて五つ半時に登城致すべくと相觸る。諸大名寄合、家康は、秀吉の母を人質に取り上京なれば、定めて上段へ上り申べく、其時我等は、秀吉被官の樣なるべしと申あへり。偖家康出られければ、新庄駿河守直頼、德川三河守と披露せり。そこにて秀吉、上京大義なりと言はる、家康如何にも懇懃に禮を申されけり。諸大名退出に、偖々家康は、秀吉を眞の主人の如く會釋せり、各我等惡しき分別なりと、此日より信長以來の侍大將、俄に秀吉を主人の如く仰ぎ尊敬以前に十倍せり。
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名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 家康との講和の筋書き○長湫役後、秀吉、家康と合戰し、勝利を得ることは中々氣遣敷ことに思ひ、夫より竊に織田信雄へ和睦の使に、富田左近信廣、津田隼人信季を以て申入る。兩使勢州矢田河原にて對面の時御分別違にて之あるべく、家康、元來三河武士にて、信長公よりも御手入、御一味成され候へば、天下を御自分に渡さる〻ことにては之有間敷、其上信長公御一代に、漸く十七箇國御手に入候、某は早や四十箇國手に入り候へば、是亦御自分へ渡す義は成り申さず候、然れども、信長公御取立の某儀に候間、向後和睦成さるべく候は〻、能き所にて百萬石進じ申すべき由申入ければ、信雄、早速同心にて、和睦すべしとて返答せり、家康には、信長の筋目を思ひ、加勢せられし所、一應の相談もなく和睦同心の由、返事せられしに付、家康以の外機嫌損じ、信雄の腰拔けに頼まれ、後悔せりと言はれし由、其後秀吉、羽柴下總守雄利を使にて、家康へ和睦の義申入らる。折節家康には、鷹野に出て居らる〻所へ、秀吉の使羽柴下總守參りたる由聞かれ、鷹場へ直ぐに雄利を呼ばれて筑州よりの使か、何事を申來り候と言はれければ、雄利申は、秀吉口上には、向後弓矢を相止め申すべく候、御同心に於ては、早々御上洛成さるべく、天下の仕置を御相談仕るべくとのことなり。家康、信雄の腰拔けに賴まれ、加勢致し殘念に存候、其許見及び申さるる通り、今日手廻りの者計りにて、鷹野致し慰み居り候、侍共は頃日の骨折に、在所へ休息に遣はし候、頓て筑州と一戰に及ぶべき覺悟に候、此旨罷歸り申さるべく候由、返答せらる。雄利返事を承はりて歸る。折節秀吉、風呂に入り候所へ、雄利罷歸り候由申ければ、則ち風呂屋に召し、家康返答の趣聞届け、偖雄利には罷歸り休息致し候へ、と言はれ返されたり。秀吉、其時髮を洗はせ居り候内に、思案し、雄利を呼返し候へと言はる。
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名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 陣羽織を所望させる○家康上京の折、大和大納言秀長、朝の食事を進ずるとて迎へられし時、秀吉も俄に其席に臨まる。白き陣羽織に紅梅の裏付け、襟と袖には、赤地に唐草の繍したるを着したり。秀吉が立れし跡にて、秀長と淺野長政と、密に家康に彼陣羽織を御所望あるべしと申す。家康、今まで斯る事人に言ひしことなしと否まれば、二人、是は殿下物具の上に着せらる〻陣羽織なれば今度御和議ありしからは、あながち御所望ありて、此後殿下に御鎧は着せ進らすまじと宣へば關白も如何計り喜悅ならんと申す。家康領き秀長の饗席既に終り、秀吉と共に坂城に上らる。此時諸大名皆並居て謁見す。秀吉曰く、毛利、宇喜田を始め、承られ候へ、我母に早く逢度思へば、德川殿を明日本國に還すなりとて、又家康に向ひ、今日は殊に寒し、小袖を重ねられよ、城中にて一服進らせ、馬の饌せん御肩衣を脫し給へと言へば、秀長、長政側に寄り來て脫す。
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名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 三度の拝礼と家康の読み家康其時、殿下の召させられし御羽織を某に賜はらんと言はるれば、秀吉是は我が陣羽織なり進らすこと叶はじと言はる。家康、御陣羽織と承はるからは猶更拜受を願ふなり、家康斯てあらんには、重ねて御物具着せ進らすまじと言はるれば、秀吉大に喜ばれ、去らば參らせんとて、自ら脫て着せられ、諸大名に向ひ、唯今家康の秀吉に物具させじと言はれし一言を、各聞れしや、秀吉は能き妹壻を取りたる果報の者よと言はる。是日諸大名の陪從多しとて、秀吉奉行人を召れば、奉行人乘ねて少く連候へと申付しにと申せば、秀吉打笑ひ、德川殿御聞候へ、此所より僅か清水へ行くにも、人數の三萬か二萬と申されしとぞ。次の年駿府の城にて、井伊直政、本多正信に、去年秀吉が許にて、我に陣羽織を所望せしめしは、家康が一言にて、四國中國の者を鎭服せしめん爲なり、次に近所へ行くにも、二萬か三萬と言ひしは、兵威を以て我を喝さんとてなり。例の秀吉が權詐よと言はれしとぞ。果して其事十日を過ずして四國中國は更なり、不知火や、筑紫のはてまでも言ひ傳へて、關白の兵威の盛なるを稱しけり。又或時、我上京せし時、秀吉密に旅館に來り、我に向ひ三度まで拜禮す、其事知りし秀長、淺野長政、加々爪某、茶屋四郎次郎四人には、誓紙させ他言を止めしと聞く。斯く諸大名を出し抜て事を謀る人には、中々力押には成り難し、能々時節を待て、工夫あるべしと言はれしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』織田信長 鷹を断り家康と誓う○四年、丹波の赤澤加賀守、信長に佳鷹一足を贈くる。信長喜びて曰く、甚だ厚情を荷へり、然れども吾正に四方に事あり、未だ遊獵するに暇あらず、吾天下を定めて後、受くるとも、未だ晩からずとて戻せり。果して十年を出ずして旗を京師に建てり。 ○信長、德川家康と和睦す。家康清洲に來り、對面の時、信長曰く、今度和睦申上るは、某五畿內指して打從へ申べし、德川殿には駿河を打從らるべし、强敵あらば互に加勢あるべし、兩旗を以て天下一統の世に爲すべきは、案の內なり、爰に了簡あり、既に清盛、義朝、勅定に依て、天下泰平の世となりしに、兩將雌雄を爭て、終に相共に亡べり。其後義貞、尊氏、亦斯の如し。先車の覆るを見て、後車の戒と爲すとは、此事なり。自今已後兩雄威を爭ふことなく、織田が武將に備はらば、德川幕下に屬すべし。德川武將に備はらば、織田幕下に參るべし、全く一言の虛妄あるべからずと、起請文を取替はし、互に斜めならず祝着せしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 偽りの和睦を見抜く○秀吉、信長の後を立ることよりして、柴田勝家と不和起る。之に依り瀧川一益、織田信孝等之を調停す、勝家承諾し、使を寶寺に遣はして曰く、用に立ざることを申出し、詮なき義に候間、和睦すべきとのことなり、秀吉聞て、仰越されたること、御尤もに候間、諸事御異見に從ふべしと返答す。使者御合點に相成り、大慶に存候、左候は〻御墨付を賜はるべしと言ふ。秀吉曰く、墨付は飛脚を以て是より遺はすべく、先づ各は歸らるべし、此序に大德寺に參詣して、信長公へ燒香致さるべきとのことなり、之に依り使者は大德寺に參詣して、越前に歸る。秀吉笑て、柴田よりの和睦は、越前より雪中出馬致し難きに依て、來春まで延さんとの謀なり、定めし瀧川が謀なるべし、唐にては張良、日本にては楠木抔には謀らるべく、柴田抔にはだまされまじものをと言て、兵を出せり。