名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 敵陣の脇を突く神速
○此役、勝家北庄に敗歸す。秀吉後を追ひ攻入る。北庄へ、秀吉、人數入り込みしゆゑ、柴田の人數、秀吉の人數の内に挿まれ、一と凝まりになりて之あり、其由秀吉へ申ければ、其儘置けと言はる。柴田人數の中には、秀吉人數と多分知る者あるを以て、其者共より宜しく計らひ給はれと申越す。其旨又秀吉に申ければ、軍の習勝負珍しからず、柴田所にて取り候程遣はすべき間、禮を申すべし、去らば道端に並見て目見せよとて、禮を受けられし由、柴田人數退兼ね、秀吉の人數に包まる〻程、急に攻入りしとぞ。又北庄の城に火の起るを見て其儘越中に赴きたり、勝家の首を見ざれども、左程のことは、何とも思はれざりけり。其神速率ね斯の如し。 ○此役の前、秀吉、加藤清正に歩士三十人相副へ、近江國中の農商の富者に三倍の息を以て金銀米錢を貸り聚めさせしむ、是を以て五萬人の粮芻飽滿せずと言ふことなし。上下皆終に、斯る自由なる軍陣を覺えずと言ひしとぞ。
新字:○此役、勝家北庄に敗帰す。秀吉後を追ひ攻入る。北庄へ、秀吉、人数入り込みしゆゑ、柴田の人数、秀吉の人数の内に挿まれ、一と凝まりになりて之あり、其由秀吉へ申ければ、其儘置けと言はる。柴田人数の中には、秀吉人数と多分知る者あるを以て、其者共より宜しく計らひ給はれと申越す。其旨又秀吉に申ければ、軍の習勝負珍しからず、柴田所にて取り候程遣はすべき間、礼を申すべし、去らば道端に並見て目見せよとて、礼を受けられし由、柴田人数退兼ね、秀吉の人数に包まる〻程、急に攻入りしとぞ。又北庄の城に火の起るを見て其儘越中に赴きたり、勝家の首を見ざれども、左程のことは、何とも思はれざりけり。其神速率ね斯の如し。 ○此役の前、秀吉、加藤清正に歩士三十人相副へ、近江国中の農商の富者に三倍の息を以て金銀米銭を貸り聚めさせしむ、是を以て五万人の粮芻飽満せずと言ふことなし。上下皆終に、斯る自由なる軍陣を覚えずと言ひしとぞ。
書き下し
○此役、勝家北庄に敗歸す。秀吉後を追ひ攻入る。北庄へ、秀吉、人數入り込みしゆゑ、柴田の人數、秀吉の人數の内に挿まれ、一と凝まりになりて之あり、其由秀吉へ申ければ、其儘置けと言はる。柴田人數の中には、秀吉人數と多分知る者あるを以て、其者共より宜しく計らひ給はれと申越す。其旨又秀吉に申ければ、軍の習勝負珍しからず、柴田所にて取り候程遣はすべき間、禮を申すべし、去らば道端に並見て目見せよとて、禮を受けられし由、柴田人數退兼ね、秀吉の人數に包まる〻程、急に攻入りしとぞ。又北庄の城に火の起るを見て其儘越中に赴きたり、勝家の首を見ざれども、左程のことは、何とも思はれざりけり。其神速率ね斯の如し。 ○此役の前、秀吉、加藤清正に歩士三十人相副へ、近江國中の農商の富者に三倍の息を以て金銀米錢を貸り聚めさせしむ、是を以て五萬人の粮芻飽滿せずと言ふことなし。上下皆終に、斯る自由なる軍陣を覺えずと言ひしとぞ。
現代語訳
この戦いで、柴田勝家は北ノ庄に敗れ帰った。秀吉はその後を追って攻め入った。北ノ庄へ秀吉の兵が入り込んだために、柴田の兵は秀吉の兵のなかに挟まれ、ひとかたまりになってしまった。そのことを秀吉に申し上げると、そのまま置いておけ、と言われた。柴田の兵のなかには、秀吉の兵が多数であると知る者があり、その者たちから、よろしく取り計らってほしいと申し越してきた。そのことをまた秀吉に申し上げると、戦の習いで勝ち負けはめずらしくない、柴田の兵が取れるだけは返してやろう、礼を言うがよい、それならば道端に並んで顔を見せよ、と言って礼を受けられたという。柴田の兵が退くに退けないほど、秀吉の兵に包まれるほど、急に攻め入ったということである。また、北ノ庄の城に火の起こるのを見て、そのまま越中に向かわれ、勝家の首を見ることもなかったが、それほどのことは何とも思われなかった。その神速はおおむねこのようであった。 この戦いの前、秀吉は加藤清正に歩兵三十人を付け、近江国中の農民や商人の富者から、三倍の利息で金銀米銭を借り集めさせた。これによって五万人の兵糧や馬の飼料が不足することがなかった。上下の者はみな、このような自由な軍陣は経験がないと言ったという。
解説

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