名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 偽りの和睦を見抜く
○秀吉、信長の後を立ることよりして、柴田勝家と不和起る。之に依り瀧川一益、織田信孝等之を調停す、勝家承諾し、使を寶寺に遣はして曰く、用に立ざることを申出し、詮なき義に候間、和睦すべきとのことなり、秀吉聞て、仰越されたること、御尤もに候間、諸事御異見に從ふべしと返答す。使者御合點に相成り、大慶に存候、左候は〻御墨付を賜はるべしと言ふ。秀吉曰く、墨付は飛脚を以て是より遺はすべく、先づ各は歸らるべし、此序に大德寺に參詣して、信長公へ燒香致さるべきとのことなり、之に依り使者は大德寺に參詣して、越前に歸る。秀吉笑て、柴田よりの和睦は、越前より雪中出馬致し難きに依て、來春まで延さんとの謀なり、定めし瀧川が謀なるべし、唐にては張良、日本にては楠木抔には謀らるべく、柴田抔にはだまされまじものをと言て、兵を出せり。
新字:○秀吉、信長の後を立ることよりして、柴田勝家と不和起る。之に依り滝川一益、織田信孝等之を調停す、勝家承諾し、使を宝寺に遣はして曰く、用に立ざることを申出し、詮なき義に候間、和睦すべきとのことなり、秀吉聞て、仰越されたること、御尤もに候間、諸事御異見に従ふべしと返答す。使者御合点に相成り、大慶に存候、左候は〻御墨付を賜はるべしと言ふ。秀吉曰く、墨付は飛脚を以て是より遺はすべく、先づ各は帰らるべし、此序に大徳寺に参詣して、信長公へ焼香致さるべきとのことなり、之に依り使者は大徳寺に参詣して、越前に帰る。秀吉笑て、柴田よりの和睦は、越前より雪中出馬致し難きに依て、来春まで延さんとの謀なり、定めし滝川が謀なるべし、唐にては張良、日本にては楠木抔には謀らるべく、柴田抔にはだまされまじものをと言て、兵を出せり。
書き下し
○秀吉、信長の後を立ることよりして、柴田勝家と不和起る。之に依り瀧川一益、織田信孝等之を調停す、勝家承諾し、使を寶寺に遣はして曰く、用に立ざることを申出し、詮なき義に候間、和睦すべきとのことなり、秀吉聞て、仰越されたること、御尤もに候間、諸事御異見に從ふべしと返答す。使者御合點に相成り、大慶に存候、左候は〻御墨付を賜はるべしと言ふ。秀吉曰く、墨付は飛脚を以て是より遺はすべく、先づ各は歸らるべし、此序に大德寺に參詣して、信長公へ燒香致さるべきとのことなり、之に依り使者は大德寺に參詣して、越前に歸る。秀吉笑て、柴田よりの和睦は、越前より雪中出馬致し難きに依て、來春まで延さんとの謀なり、定めし瀧川が謀なるべし、唐にては張良、日本にては楠木抔には謀らるべく、柴田抔にはだまされまじものをと言て、兵を出せり。
現代語訳
秀吉が信長の後継を立てることから、柴田勝家と不和が起こった。そこで滝川一益、織田信孝らがこれを調停した。勝家は承諾し、使者を宝寺に遣わして、用に立たぬことを申し出して詮のないことなので、和睦しようとのことである、と言った。秀吉は聞いて、仰せ越されたことはもっともですので、諸事ご意見に従います、と返答した。使者は、ご合点になり大慶に存じます、それならば、ご墨付を賜りたい、と言う。秀吉は、墨付は飛脚をもってこちらから遣わすので、まず各々は帰られよ、この序でに大徳寺に参詣して、信長公へ焼香なされるように、とのことである。これにより使者は大徳寺に参詣して、越前に帰った。秀吉は笑って、柴田の和睦は、越前から雪の中を出馬しがたいので、来春まで延ばそうという謀である、きっと滝川の謀だろう、唐では張良、日本では楠木などにはだまされもしようが、柴田などにはだまされまいものを、と言って、兵を出した。
解説

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