名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 賤ヶ嶽へ急ぐ道の人望
○十一年四月、賤ヶ嶽の役、佐久間盛政、中川清秀を討取りたりし由、早馬濃州に來て、事の急を告げしかど、秀吉少しも驚かず、儲こそ軍には打勝たるぞとて岐阜の押さへを置き乘出し、諸勢は跡より追着べしとて、馳出ければ漸〻七騎ぞ續きたり、春照の宿にて、兼ねて分ち置きし小走の者を召し、二手は道筋の村落に走り、日も黄昏に及びなば、松明を出し、軍勢を送るべしと觸れ通し、一手は長濱に走り行き、町人共に米をば粥に煮、大豆を秣とし、木本の宿へ持來れ、今宵柴田を攻滅すべき術あり、今に本意を達し、過分の褒美を取らすべしと相觸、るべしと下知し、既にして木本に着ければ日も夕陽に及びたり。偖地藏堂の前にて人馬の息を入れ、後陣の勢を待つ所に、長濱の地下人共兵粮秣を夥しく持て來りければ、秀吉感悅數度に及び諸勢も大に勇みあへり。斯る所に村々里々の百姓共、松明數百燈し、御迎の者共なりと聲々に呼はれば、秀吉聞て一々其名を覺ゆることは成間敷、其邑の名を覺え置けよ、賞祿を與ふべしと言はせたり。是より前、秀吉、長濱に在りし時、諸民を撫育せし故、其德を慕ひしに依てなりとぞ。
新字:○十一年四月、賤ヶ嶽の役、佐久間盛政、中川清秀を討取りたりし由、早馬濃州に来て、事の急を告げしかど、秀吉少しも驚かず、儲こそ軍には打勝たるぞとて岐阜の押さへを置き乗出し、諸勢は跡より追着べしとて、馳出ければ漸〻七騎ぞ続きたり、春照の宿にて、兼ねて分ち置きし小走の者を召し、二手は道筋の村落に走り、日も黄昏に及びなば、松明を出し、軍勢を送るべしと触れ通し、一手は長浜に走り行き、町人共に米をば粥に煮、大豆を秣とし、木本の宿へ持来れ、今宵柴田を攻滅すべき術あり、今に本意を達し、過分の褒美を取らすべしと相触、るべしと下知し、既にして木本に着ければ日も夕陽に及びたり。偖地蔵堂の前にて人馬の息を入れ、後陣の勢を待つ所に、長浜の地下人共兵粮秣を夥しく持て来りければ、秀吉感悦数度に及び諸勢も大に勇みあへり。斯る所に村々里々の百姓共、松明数百灯し、御迎の者共なりと声々に呼はれば、秀吉聞て一々其名を覚ゆることは成間敷、其邑の名を覚え置けよ、賞禄を与ふべしと言はせたり。是より前、秀吉、長浜に在りし時、諸民を撫育せし故、其徳を慕ひしに依てなりとぞ。
書き下し
○十一年四月、賤ヶ嶽の役、佐久間盛政、中川清秀を討取りたりし由、早馬濃州に來て、事の急を告げしかど、秀吉少しも驚かず、儲こそ軍には打勝たるぞとて岐阜の押さへを置き乘出し、諸勢は跡より追着べしとて、馳出ければ漸〻七騎ぞ續きたり、春照の宿にて、兼ねて分ち置きし小走の者を召し、二手は道筋の村落に走り、日も黄昏に及びなば、松明を出し、軍勢を送るべしと觸れ通し、一手は長濱に走り行き、町人共に米をば粥に煮、大豆を秣とし、木本の宿へ持來れ、今宵柴田を攻滅すべき術あり、今に本意を達し、過分の褒美を取らすべしと相觸、るべしと下知し、既にして木本に着ければ日も夕陽に及びたり。偖地藏堂の前にて人馬の息を入れ、後陣の勢を待つ所に、長濱の地下人共兵粮秣を夥しく持て來りければ、秀吉感悅數度に及び諸勢も大に勇みあへり。斯る所に村々里々の百姓共、松明數百燈し、御迎の者共なりと聲々に呼はれば、秀吉聞て一々其名を覺ゆることは成間敷、其邑の名を覺え置けよ、賞祿を與ふべしと言はせたり。是より前、秀吉、長濱に在りし時、諸民を撫育せし故、其德を慕ひしに依てなりとぞ。
現代語訳
十一年四月、賤ヶ嶽の役で、佐久間盛政が中川清秀を討ち取った由を、早馬が濃州に来て、事の急を告げたが、秀吉は少しも驚かず、待ち設けていた戦に勝ったぞ、と言って岐阜の押さえを置き乗り出し、諸勢はあとから追いつけと言って馳せ出たところ、ようやく七騎が続いた。春照の宿で、かねて分けておいた小走りの者を召し、二手は道筋の村落に走り、日も黄昏に及んだら、松明を出し、軍勢を送るようにと触れ通し、一手は長浜に走り行き、町人どもに米を粥に煮、大豆を秣にして、木本の宿へ持って来い、今夜柴田を攻め滅ぼす術がある、今に本意を達し、過分の褒美を取らせると触れよ、と下知し、既にして木本に着くと、日も夕陽に及んでいた。さて地蔵堂の前で人馬の息を入れ、後陣の勢を待つところに、長浜の地下人どもが兵糧や馬の飼料をおびただしく持って来たので、秀吉は感悦すること数度に及び、諸勢も大いに勇み合った。そこへ村々里々の百姓どもが松明を数百灯し、お迎えの者どもでございます、と声々に呼ばわるので、秀吉は聞いて、一々その名を覚えることはできまい、その邑の名を覚えておけ、賞禄を与えよ、と言わせた。これより前、秀吉が長浜にいたとき、諸民を撫育したので、その徳を慕ったためだということである。
解説

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