名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 一夜の陣と降人の扱い
○秀吉、高松城を攻め、向ふの山に陣を取り、一夜の間に塀を掛け、矢倉を上げ、腰板を打ち、白土を付て、二年も三年も掛りて築きたる城の如し。諸人之を見て、只人間の業にてはあるまじと取沙汰せり。本能寺の報あるに及び、毛利と和睦して、俄に上京するに依て、陣拂もせずして置けり。後に之を見れば、塀、矢倉に打ちたる腰板と見えしは、在々所々の戸板を外し集めて、壘にて塗りて打ち、白土と見えしは、播磨杉原を生土に押付けて張りしにてありしとなり。後小田原陣の時、石垣山に一夜に陣城を構へしも此策なり。 ○秀吉曰く、信長公は勇將なり、良將にあらず、剛の柔に克つことを知り給ひて、柔の剛を制することを知られず、一度敵せる者は、其憤怒終に解けずして、悉く其根を斷ち、其葉を枯さんとせらる、故に降を誅し、服を戮せられ、寇讎絶することなし。是れ量狹く器小なるが故なり、人の爲めに憚らるれども、衆の爲めに愛せられず、譬ば虎狼の如し、其噛れんことを怖ると言ふとも、見る者之を殺して、其害を免れんとす。是明智が弒逆の依て生ずる所なりと。依て秀吉は其弊を革め、敵する者は之を伐亡せしかど、降參せば、譜第同前に懇にし、心を置かざる故、昨日まで敵對せし者も、身命を棄て忠節を致すべしと思ふ故、謀反する者之なく、早く天下を平治せり。
新字:○秀吉、高松城を攻め、向ふの山に陣を取り、一夜の間に塀を掛け、矢倉を上げ、腰板を打ち、白土を付て、二年も三年も掛りて築きたる城の如し。諸人之を見て、只人間の業にてはあるまじと取沙汰せり。本能寺の報あるに及び、毛利と和睦して、俄に上京するに依て、陣払もせずして置けり。後に之を見れば、塀、矢倉に打ちたる腰板と見えしは、在々所々の戸板を外し集めて、塁にて塗りて打ち、白土と見えしは、播磨杉原を生土に押付けて張りしにてありしとなり。後小田原陣の時、石垣山に一夜に陣城を構へしも此策なり。 ○秀吉曰く、信長公は勇将なり、良将にあらず、剛の柔に克つことを知り給ひて、柔の剛を制することを知られず、一度敵せる者は、其憤怒終に解けずして、悉く其根を断ち、其葉を枯さんとせらる、故に降を誅し、服を戮せられ、寇讎絶することなし。是れ量狭く器小なるが故なり、人の為めに憚らるれども、衆の為めに愛せられず、譬ば虎狼の如し、其噛れんことを怖ると言ふとも、見る者之を殺して、其害を免れんとす。是明智が弒逆の依て生ずる所なりと。依て秀吉は其弊を革め、敵する者は之を伐亡せしかど、降参せば、譜第同前に懇にし、心を置かざる故、昨日まで敵対せし者も、身命を棄て忠節を致すべしと思ふ故、謀反する者之なく、早く天下を平治せり。
書き下し
○秀吉、高松城を攻め、向ふの山に陣を取り、一夜の間に塀を掛け、矢倉を上げ、腰板を打ち、白土を付て、二年も三年も掛りて築きたる城の如し。諸人之を見て、只人間の業にてはあるまじと取沙汰せり。本能寺の報あるに及び、毛利と和睦して、俄に上京するに依て、陣拂もせずして置けり。後に之を見れば、塀、矢倉に打ちたる腰板と見えしは、在々所々の戸板を外し集めて、壘にて塗りて打ち、白土と見えしは、播磨杉原を生土に押付けて張りしにてありしとなり。後小田原陣の時、石垣山に一夜に陣城を構へしも此策なり。 ○秀吉曰く、信長公は勇將なり、良將にあらず、剛の柔に克つことを知り給ひて、柔の剛を制することを知られず、一度敵せる者は、其憤怒終に解けずして、悉く其根を斷ち、其葉を枯さんとせらる、故に降を誅し、服を戮せられ、寇讎絶することなし。是れ量狹く器小なるが故なり、人の爲めに憚らるれども、衆の爲めに愛せられず、譬ば虎狼の如し、其噛れんことを怖ると言ふとも、見る者之を殺して、其害を免れんとす。是明智が弒逆の依て生ずる所なりと。依て秀吉は其弊を革め、敵する者は之を伐亡せしかど、降參せば、譜第同前に懇にし、心を置かざる故、昨日まで敵對せし者も、身命を棄て忠節を致すべしと思ふ故、謀反する者之なく、早く天下を平治せり。
現代語訳
秀吉は高松城を攻め、向かいの山に陣を取り、一夜のうちに塀を掛け、矢倉を上げ、腰板を打ち、白土を付けて、二年も三年もかかって築いた城のようにした。人々はこれを見て、ただ人間の業ではあるまいと取り沙汰した。本能寺の報せがあるに及んで、毛利と和睦し、にわかに上京したため、陣払いもせずに置いた。後にこれを見ると、塀や矢倉に打った腰板と見えたのは、在々所々の戸板を外し集めて、土を塗って打ったもので、白土と見えたのは、播磨杉原を生土に押し付けて張ったものであったということである。後に小田原の陣のとき、石垣山に一夜で陣城を構えたのも、この策である。 秀吉は言った。信長公は勇将であって良将ではない。剛が柔に勝つことを知っておられたが、柔が剛を制することをご存じなかった。一度敵対した者は、その憤怒がついに解けず、ことごとくその根を断ち、その葉を枯らそうとされた。それゆえ降る者を誅し、服する者を戮し、寇讎が絶えることがなかった。これは度量が狭く器が小さいからである。人に憚られても、衆に愛されない。たとえば虎狼のようなもので、その噛まれることを恐れるといっても、見る者はこれを殺して、その害を免れようとする。これが明智の弑逆の生ずるゆえんである、と。そこで秀吉はその弊を改め、敵対する者はこれを討ち滅ぼしたが、降参すれば、譜代同前に懇ろにし、心を置かなかったので、昨日まで敵対した者も、身命を捨てて忠節を尽くそうと思い、謀反する者がなく、早く天下を平定した。
解説

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