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名将言行録 / 『名将言行録』竹中重治 相手の短を暴かない器

○長篠の役、勝負未だ何れとも知れざりし時、武田勝賴右備を秀吉の陣の左の方へ、二町餘に移し備へしを、秀吉の臣谷大膳亮衞好之を見て、此方の備も武田が勢に從ひ移し候ふべしと下知しける所に、重治否々あの備は本の陣へ歸るべき勢なり、只其儘備を固め然るべしと申しゝかども、衞好聽かず、秀吉に申し敵の向ふに從ひ、味方の勢をも備を直し然るべく候はんと申しゝを、重治違て惡かりなんと言つゝ評論せしを、秀吉聞て何を爭ひ候ぞや、我勢は我次第たるべしとて衞好差圖の所へ勢を移したり。然るに重治手勢千計りは、動ぜず、彌々備を固くして居たる所に、半時も未だ過ぎざるに、勝賴備を元の陣に返しかば、秀吉の勢も又元の陣に返し來りしなり。重治尋常の人ならんには、偖右往左往なる體とて笑み〱しかるべきに、却つて笑止なる樣に言ひしかば、衞好殊の外面目なき由申しゝなり。其頃重治振舞長さ〱敷こと哉と言て感じけり。都て己が長を舒んと思ふ心もなく、他の短を顯はさんともせず、如何にも大樣にありて、大形は信長に似たることもありしと時人は言ひあへり。 ○秀吉、中國陣の時、兵糧不足なるべし、心元なしと言はれし時、重治聞て御氣遣成さるまじとて、大阪尼崎邊辻々に札を立て、今度羽柴筑前守中國へ發向候、八木早速運送するに於ては、定まり相場一倍に代價相渡すべし云々と書きたり。之に依り兵糧澤山に湊ひたりとぞ。

新字:○長篠の役、勝負未だ何れとも知れざりし時、武田勝頼右備を秀吉の陣の左の方へ、二町余に移し備へしを、秀吉の臣谷大膳亮衛好之を見て、此方の備も武田が勢に従ひ移し候ふべしと下知しける所に、重治否々あの備は本の陣へ帰るべき勢なり、只其儘備を固め然るべしと申しゝかども、衛好聴かず、秀吉に申し敵の向ふに従ひ、味方の勢をも備を直し然るべく候はんと申しゝを、重治違て悪かりなんと言つゝ評論せしを、秀吉聞て何を争ひ候ぞや、我勢は我次第たるべしとて衛好差図の所へ勢を移したり。然るに重治手勢千計りは、動ぜず、弥々備を固くして居たる所に、半時も未だ過ぎざるに、勝頼備を元の陣に返しかば、秀吉の勢も又元の陣に返し来りしなり。重治尋常の人ならんには、偖右往左往なる体とて笑み〱しかるべきに、却つて笑止なる様に言ひしかば、衛好殊の外面目なき由申しゝなり。其頃重治振舞長さ〱敷こと哉と言て感じけり。都て己が長を舒んと思ふ心もなく、他の短を顕はさんともせず、如何にも大様にありて、大形は信長に似たることもありしと時人は言ひあへり。 ○秀吉、中国陣の時、兵糧不足なるべし、心元なしと言はれし時、重治聞て御気遣成さるまじとて、大阪尼崎辺辻々に札を立て、今度羽柴筑前守中国へ発向候、八木早速運送するに於ては、定まり相場一倍に代価相渡すべし云々と書きたり。之に依り兵糧沢山に湊ひたりとぞ。

書き下し

○長篠の役、勝負未だ何れとも知れざりし時、武田勝賴右備を秀吉の陣の左の方へ、二町餘に移し備へしを、秀吉の臣谷大膳亮衞好之を見て、此方の備も武田が勢に從ひ移し候ふべしと下知しける所に、重治否々あの備は本の陣へ歸るべき勢なり、只其儘備を固め然るべしと申しゝかども、衞好聽かず、秀吉に申し敵の向ふに從ひ、味方の勢をも備を直し然るべく候はんと申しゝを、重治違て惡かりなんと言つゝ評論せしを、秀吉聞て何を爭ひ候ぞや、我勢は我次第たるべしとて衞好差圖の所へ勢を移したり。然るに重治手勢千計りは、動ぜず、彌々備を固くして居たる所に、半時も未だ過ぎざるに、勝賴備を元の陣に返しかば、秀吉の勢も又元の陣に返し來りしなり。重治尋常の人ならんには、偖右往左往なる體とて笑み〱しかるべきに、却つて笑止なる樣に言ひしかば、衞好殊の外面目なき由申しゝなり。其頃重治振舞長さ〱敷こと哉と言て感じけり。都て己が長を舒んと思ふ心もなく、他の短を顯はさんともせず、如何にも大樣にありて、大形は信長に似たることもありしと時人は言ひあへり。 ○秀吉、中國陣の時、兵糧不足なるべし、心元なしと言はれし時、重治聞て御氣遣成さるまじとて、大阪尼崎邊辻々に札を立て、今度羽柴筑前守中國へ發向候、八木早速運送するに於ては、定まり相場一倍に代價相渡すべし云々と書きたり。之に依り兵糧澤山に湊ひたりとぞ。

現代語訳

長篠の役で、勝負がまだどちらとも知れなかったとき、武田勝頼が右の備えを秀吉の陣の左の方へ二町あまり移して構えた。秀吉の臣、谷大膳亮衛好はこれを見て、こちらの備えも武田の勢いに従って移すべきです、と下知したところ、重治は、いやいや、あの備えは元の陣へ帰る勢いです。そのまま備えを固めて然るべきです、と言ったが、衛好は聞かず、秀吉に、敵の向かうのに従って、味方の勢いも備えを直すのがよろしいでしょう、と申し上げた。重治は、違って悪いでしょう、と言って評論していたのを、秀吉が聞いて、何を争っておるか、わが勢はわが次第である、と言い、衛好の差図の所へ勢を移した。ところが重治の手勢千ばかりは動かず、いよいよ備えを固くしていたところ、半時もまだ過ぎないうちに、勝頼が備えを元の陣に返したので、秀吉の勢もまた元の陣に返ってきた。重治が尋常の人であれば、さて右往左往の様だと笑いそうなものを、かえって気の毒そうに言ったので、衛好はことのほか面目なく思ったという。そのころ重治は、振る舞いが長々しいことよ、と言って感心した。すべて自分の長所を伸ばそうとする心もなく、他人の短所を顕そうともせず、いかにも大様にしていたので、大体は信長に似たこともあったと、当時の人は言い合った。 秀吉が中国の陣のとき、兵糧が不足しているだろう、心もとない、と言ったところ、重治は聞いて、ご心配なさいますな、と言って、大阪、尼崎のあたりの辻々に札を立て、今度羽柴筑前守が中国へ出発する。米を早速運送するなら、定まった相場の一倍の代価を渡す、云々と書いた。これによって兵糧がたくさん集まったという。

解説

長篠の備えをめぐって、読みが当たった重治が、誤った者を笑わず気の毒そうに言ったという話です。自分の長所を誇らず、他人の短所をあばかない姿勢が、当時の人に信長に似ていると言われたと伝わります。後半は、兵糧が足りないときに、相場の倍で買う札を辻々に立てて集めた、実務的な工夫の話です。正しさを示すより、組織の結果を優先する態度と、課題を値付けで解決する発想が並んでいます。
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