名将言行録 / 『名将言行録』明智光秀 士を愛し民を撫でる
○光秀、稻葉貞通の家人、齋藤內藏助利三を、多くの祿を與へて召抱たり。貞通求むれども返さず。貞通怒り、信長に告ぐ。信長戾せと下知せしかども肯はず。信長怒て光秀の髪を捽み引伏せて譴めらるゝ。光秀國を賜はり候へ共身の爲めに致すことなく、士を養ふを第一とする由答へ申しゝかば、信長怒りながら、偖止みけり。其士を好むこと斯の如くなれば、當時知名の士、多く其門に集まれり。光秀能く士を恤み、民を撫せり、依て士民之が用たるを樂めり。 ○光秀、未だ十萬石計りの時、堀邊兵太と云ふ浪人あり。荷俵を負ひ來り、千石賜はらんやと言ふ。光秀之を聞き、料理抔申付け、其內密に荷俵を開かせ見れば、長身の刀鎗を如何にも、見事に研立て入置きけるを見て、面白き志の侍なりと言ひ、即ち望みに任せ千石を賜はり召抱たり。其後數度武功あり。丹波にて光秀、負軍の時堀邊一番に取て返し、討死せり。人其明鑑に服せり。 ○武田氏亡びし時、光秀半役にて、丹波勢五千餘騎召連れたり。人馬裝束一際諸將に拔んでたり。是等信長に忌まるゝの一事なりと云ふ。 ○光秀曰く、佛の嘘をば方便と言ひ、武士の嘘をば武略と言ふ。是を以て之を見れば、士民百姓は可愛きことなりと。
新字:○光秀、稲葉貞通の家人、斎藤内蔵助利三を、多くの禄を与へて召抱たり。貞通求むれども返さず。貞通怒り、信長に告ぐ。信長戻せと下知せしかども肯はず。信長怒て光秀の髪を捽み引伏せて譴めらるゝ。光秀国を賜はり候へ共身の為めに致すことなく、士を養ふを第一とする由答へ申しゝかば、信長怒りながら、偖止みけり。其士を好むこと斯の如くなれば、当時知名の士、多く其門に集まれり。光秀能く士を恤み、民を撫せり、依て士民之が用たるを楽めり。 ○光秀、未だ十万石計りの時、堀辺兵太と云ふ浪人あり。荷俵を負ひ来り、千石賜はらんやと言ふ。光秀之を聞き、料理抔申付け、其内密に荷俵を開かせ見れば、長身の刀鎗を如何にも、見事に研立て入置きけるを見て、面白き志の侍なりと言ひ、即ち望みに任せ千石を賜はり召抱たり。其後数度武功あり。丹波にて光秀、負軍の時堀辺一番に取て返し、討死せり。人其明鑑に服せり。 ○武田氏亡びし時、光秀半役にて、丹波勢五千余騎召連れたり。人馬装束一際諸将に抜んでたり。是等信長に忌まるゝの一事なりと云ふ。 ○光秀曰く、仏の嘘をば方便と言ひ、武士の嘘をば武略と言ふ。是を以て之を見れば、士民百姓は可愛きことなりと。
書き下し
○光秀、稻葉貞通の家人、齋藤內藏助利三を、多くの祿を與へて召抱たり。貞通求むれども返さず。貞通怒り、信長に告ぐ。信長戾せと下知せしかども肯はず。信長怒て光秀の髪を捽み引伏せて譴めらるゝ。光秀國を賜はり候へ共身の爲めに致すことなく、士を養ふを第一とする由答へ申しゝかば、信長怒りながら、偖止みけり。其士を好むこと斯の如くなれば、當時知名の士、多く其門に集まれり。光秀能く士を恤み、民を撫せり、依て士民之が用たるを樂めり。 ○光秀、未だ十萬石計りの時、堀邊兵太と云ふ浪人あり。荷俵を負ひ來り、千石賜はらんやと言ふ。光秀之を聞き、料理抔申付け、其內密に荷俵を開かせ見れば、長身の刀鎗を如何にも、見事に研立て入置きけるを見て、面白き志の侍なりと言ひ、即ち望みに任せ千石を賜はり召抱たり。其後數度武功あり。丹波にて光秀、負軍の時堀邊一番に取て返し、討死せり。人其明鑑に服せり。 ○武田氏亡びし時、光秀半役にて、丹波勢五千餘騎召連れたり。人馬裝束一際諸將に拔んでたり。是等信長に忌まるゝの一事なりと云ふ。 ○光秀曰く、佛の嘘をば方便と言ひ、武士の嘘をば武略と言ふ。是を以て之を見れば、士民百姓は可愛きことなりと。
現代語訳
光秀は、稲葉貞通の家臣である斎藤内蔵助利三を、多くの禄を与えて召し抱えました。貞通が返すよう求めても返しません。貞通は怒って信長に訴えました。信長が戻せと命じても聞かないので、信長は怒って光秀の髪をつかんで引き伏せ、責めました。光秀は、国を賜りましたが、自分のためにすることはなく、士を養うことを第一としていますと答えたので、信長は怒りながらも、そのまま止みました。その士を好むことはこのようであったので、当時の名の知られた士は、多くその門に集まりました。光秀はよく士を憐れみ、民を撫でたので、士も民もその用に立つことを楽しみました。 光秀がまだ十万石ほどの頃、堀辺兵太という浪人がいました。荷俵を背負って来て、千石を賜りたいと言います。光秀はこれを聞き、料理などを命じ、その間にこっそり荷俵を開けさせて見ると、長身の刀や槍を見事に研ぎ立てて入れてあるのを見て、面白い志の侍だと言い、すぐ望みどおり千石を与えて召し抱えました。その後、数度の武功がありました。丹波で光秀が負け戦になったとき、堀辺は一番に取って返して討ち死にしました。人はその明察に感服しました。 武田氏が滅んだとき、光秀は半役として、丹波勢五千余騎を連れました。人馬や装束は、諸将のなかで抜きん出ていました。これらが信長に疎まれる一つだったということです。 光秀が言うには、仏の嘘を方便と言い、武士の嘘を武略と言う。これで見れば、士・民・百姓は可愛いものである、と。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 光秀の舌を巻かせた褒美○明智光秀の臣、宮部加兵衞、初め秀吉に仕ふ。光秀、一日宮部に向ひ、其方嚮きに秀吉に奉公せしと聞く、秀吉の人を使ふ樣如何と尋ねければ、左せる異なることも之れなく候、去ながら誰にても少し出來たることには、思ひの外なる褒美にて驚く程のことにて候と申ければ、光秀、舌を振ひしとぞ。 ○秀吉は磊落の氣象故、人に對して詞常に傲れり。光秀は謹厚の人なれば、詞常に慇懃なり。一日秀吉、光秀に向ひ、貴殿は周山に夜普請して謀反を企てらるゝと、人皆言へり、如何なりと問ふ。光秀、やくたいもないことを言はるゝと言て、止みけるとぞ。 ○十年、信長、武田氏を亡せし時、秀吉は毛利に向て軍に從はず。勝頼死て甲斐平均せりと云を聞き、大息して曰く、あたら人を殺したることの殘り多さよ、我軍中に在るならば、強て諫めて勝頼に甲信二州を與へて、關東の先陣としたらんには、東國は平ら押しにすべきにと繰返し悔みけり。 ○秀吉備中に陣して毛利と和平せんことを計り、密に手立を運らし、中國の米を、價を貴く買ひしかば、城米を出して賣る者多し。小早川隆景一人、固く制して賣らせず、信長弑せられて、秀吉、毛利家と手切なるべかりしに、兵粮の豐かならざる故、終に和平に及べり。
-
名将言行録・『名将言行録』明智光秀 評・怒罵と儀礼の溝秀吉など、賞められるときは、信長に顏を撫でられたと云ふが、賞めるのに叱るのに武將を子供扱ひにしたわけで、秀吉あたりだと信長の怒罵も嘲笑も(心易立)として受け流せるが、儀禮を重んじ、合理を忘れ得ない光秀としては、どうにも我慢出來なくなつてゐたのであらう。信長としては、體裁ぶつて光秀を、頭ごなしにやつつける方が、却つて痛快なので、とき〴〵手きびしくきめつけたのだらう。四十萬石もの大名にしてやつたのだから、怒る筈はないと、高をくくりながら……。信長は、賞賜の點は、思ひ切つたことをしてゐる丈に、却つて油斷してゐたのだらう。淺井長政が、叛旗を飜したときなども、淺井を好遇してゐた丈に、初は容易に信じなかつたのである。人材を見つけるには、非凡の才があつたが、自分自身に對する反省が足りないために、時々かうした過誤を犯して、それがつひには、生命取りになつたのである。 當時、主人を殺した者には、赤松滿祐を初め、松永久秀、齋藤道三、宇喜多直家などがあり、信長だつて、主家の斯波を倒して自立してゐるわけである。江戸時代の君臣道德で、光秀を律するのは酷である。秀吉なども、主家の子供なら殺してゐるのである。 士を愛したことは、いろ〳〵な逸話で分る通である。一人の裏切も出ずに、大事を決行し、多くの家來は、光秀のために、潔く殉じてゐるのだから、武將としては、相當な人傑であり、政治家としても立派な素質を持つた人物である。
-
名将言行録・『名将言行録』明智光秀 評・自力で得た知行明智光秀は、美濃の土岐氏の士族で、信長に仕へる前も、軍學者で可なり有名であつたらしく、三十九歳のとき四五千石で、信長に召し抱へられたと云ふから、子飼でもなければ譜代恩顧でもない。だから、本能寺異變後に、家臣に語つた言葉として(織田家に來て十七年になりぬれども、强いて信長の譜代恩顧と云ふには非ず。尤も君恩とは云ひながら、さのみ君恩と云ふに非るべし。只武勇の鋒先を以て軍功ある故なり、誠に晝夜安堵に住はず今日に至りぬ) と、ある。結局、自分の力で取つた知行だと云ふのであらう。これは、云ひ譯と云ふよりも、光秀のありのまゝの氣持であらう。 信長も、充分その實力を認めて(丹波國日向守の働き、天下の面目を施し候)と云つてゐる。とにかく、秀吉を山陽道に、光秀を山陰道に、振り分けた位だから、信長の信用も相當であつた。 謀反については、いろ〳〵な說があるが、教養があり形式を重んずる——どちらかと云へば、勿體ぶつた光秀と、戰國的豪傑である信長の奔放活達の形式破りの性格とが知らない間に相克したわけである。
-
名将言行録・『名将言行録』明智光秀 略歴と福神の話安藝守光綱の子、十兵衞尉と稱す。後日向守に任じ、惟任氏を賜はり、丹波并に近江志賀郡に封ぜられ、坂本城に住す。天正十年六月十四日死、年五十七。 ○弘治二年四月、齋藤義龍、父秀龍を弑す。此時光秀美濃を去て、漂泊せり。或時越前の東江川を渡りし時、大黑を拾ふ。是は福神なりとて、大に喜び、家に歸り、棚の上に置て、朝夕之を敬拜せり。或人聞て偖も目出度福神を迎られしもの哉此福神は則ち千人の司なり、能々信心せられよと言ふ。光秀聞て大に驚き、偖は此大黑殿は千人の司なるや、假令福神なりとも、尋常の凡夫にも千人の司する人多し、侍の出世を願て頼むべき神にあらず、と言て取棄てたり。 ○光秀浪遊し、三河牛窪、牧野右近大夫の所に在りし時、知行は百石計りなり。光秀傍輩の中野某に語りけるは、士の行末は互に知れぬものなり、若し我等一城の主となりたらば、貴殿は頼母敷人なれば我等方へ迎へて、城代と爲すべし、貴殿立身せば、我等又被官とならん、と約束したり。光秀後に丹波を賜はりし時、中野を迎て龜山の城代と爲したりとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』明智光秀 恩人と古参への礼○光秀、忠興を聟と爲し、初めて忠興の邸へ招請の時、米田宗鑑に對面せんと申しけるに、宗鑑先きに替地せざることを恐れ、頻りに迷惑の色見えける。光秀、宗鑑迷惑すべきことにあらず、其時汝吾が望を違せば、吾今に至りて細川の家臣たるべきに、汝吾願を達せざりし故に、吾立去て信長公に仕へて、今斯く立身したり、是を思へば、汝は吾爲め福の神なりと、言はれけるにぞ、宗鑑初めて色を直しける。光秀常に我斯くなりしは、全く米田が蔭なりと言ひけるとぞ。 ○光秀、福智山にて父の年忌を弔ひけるに、四十萬石の大名なれば、家老、用人、奉行、頭人等規式の裝束にて、何れも嚴重なる體なり。燒香一番は、光秀、二番は左馬助光春、三番は治右衞門光忠、光忠遙に此方の屏風の陰にて、脇差を脱ておづ〳〵遣ひ出で、燒香せり。人皆之を笑ふ。時に光秀曰く、凡そ世に在らん者は、治右衞門が如くの心を忘るべからず、彼は父の代に明智近邊の百姓なりしを、召抱え足輕にしたり、我代になりては、段々取立て今家老の一人に爲し、明智の苗字を與へたり、昔を忘れざる所の禮讓感ずるに堪へたりとて、殊の外讚美せられけり。
-
名将言行録・『名将言行録』武田晴信 悪事を語る浪人○比田武右衞門と云ふ者、武田家に奉公を望みて來れり、如何なる武功ありしやと問ふに、其身の惡きことのみ算立て、武者奉行に返答しけり。肝煎の者、腹立して、如何なることにさは申さるぞ、都て身代拵ぎ候者は覺ある譽を申べきに、惡きことのみ申たる上は、定めて御抱有間敷と言ければ、武右衞門聞て、眞の信玄公ならば、深く御思慮あるべしと言ふ。武者奉行有の儘に告ければ、果して之を怪み、其士しれものなるべし、能き働きは飾りても言出すべきに、惡きことのみ言て望むからは、其器量察すべきことなりとて、目見申付て召抱たり。果して目利に違はず、武田の鬼武右衞門と異名成されたり。 ○晴信、若者を取立るに、篤くと見定めざる中は、金銀衣類を事缺ぬ樣に興へ、其心を見定めて後、所領を賜ふ。惡きとて取返せば、侍に疵付、主人の目鏡違ふに似たりと言はれけり。 ○晴信、多田久藏に足輕大將を申付けし時、誡めて曰く、敵を切崩さざる以前に自身一人の働無用の事、自身の働必すべきとならば、陣前に足輕を差上ぐべし、左なくして、同心足輕を持ながら、一人の働をせば、其組下の者、組頭なくして、勝負を決すること能はず、味方勝利を失ふに至る、是大將の爲めに逆心同前なりと。 ○晴信、大敵と戰ふ時は、其前に先づ諸將士の心を試んと、大抵は合戰致す間敷と言て、必戰の氣を勵ます。諸將士是非共一戰と頻りに勸むるを、猶も押て其氣を養はしめ、然る後戰ふ。是故に士氣常より十倍せり。