名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 降人に逃げ道を残す
○六年四月、秀吉、別所小三郎長治が屬城野口を攻む。城主長井四郎左衞門防戰せしかども叶はず、外回の塀四五十間引敗り、既に乘取るべき所に、長井和を乞ふ。寄手の軍兵聞きも入れず、降參せば以前のこと、是程落去して一命を助くること有間敷と言へば、秀吉さはせぬものぞ、軍は六七分の勝を十分と爲す、降人を打果せば、とても逃れぬ道なりと、思ひ定めたらば彌々強くなるものぞ、城を攻むる謀に、一方明けて攻むるも、敵に逃る道を知らせて、早く勝利を得ん爲めなり、降參の者に、少しも手を指すべからずとて、城を受取りけり。 ○十一月、荒木村重、信長に反す。秀吉播磨より有岡城に至り村重を諭す、村重聽かず、是時村重、秀吉を饗す、酒數獻に及びて、自ら肴を取りに立たる時、河原林越後守治冬、秀吉を殺さんことを勸め謀る、村重制止して之を秀吉に語る。秀吉壯士なりと言て呼出し、獻酬に及びて腰間の短刀を引出物に與ふ。村重指替もなく如何と言ふ。秀吉我一個の刄を以て信長公に仕る者にあらず、信長公の我に於る、又此の如しとて強て治冬に與ふ。其凛然たる勇氣に壓されて、手出しする者なかりしとぞ。
新字:○六年四月、秀吉、別所小三郎長治が属城野口を攻む。城主長井四郎左衛門防戦せしかども叶はず、外回の塀四五十間引敗り、既に乗取るべき所に、長井和を乞ふ。寄手の軍兵聞きも入れず、降参せば以前のこと、是程落去して一命を助くること有間敷と言へば、秀吉さはせぬものぞ、軍は六七分の勝を十分と為す、降人を打果せば、とても逃れぬ道なりと、思ひ定めたらば弥々強くなるものぞ、城を攻むる謀に、一方明けて攻むるも、敵に逃る道を知らせて、早く勝利を得ん為めなり、降参の者に、少しも手を指すべからずとて、城を受取りけり。 ○十一月、荒木村重、信長に反す。秀吉播磨より有岡城に至り村重を諭す、村重聴かず、是時村重、秀吉を饗す、酒数献に及びて、自ら肴を取りに立たる時、河原林越後守治冬、秀吉を殺さんことを勧め謀る、村重制止して之を秀吉に語る。秀吉壮士なりと言て呼出し、献酬に及びて腰間の短刀を引出物に与ふ。村重指替もなく如何と言ふ。秀吉我一個の刄を以て信長公に仕る者にあらず、信長公の我に於る、又此の如しとて強て治冬に与ふ。其凛然たる勇気に圧されて、手出しする者なかりしとぞ。
書き下し
○六年四月、秀吉、別所小三郎長治が屬城野口を攻む。城主長井四郎左衞門防戰せしかども叶はず、外回の塀四五十間引敗り、既に乘取るべき所に、長井和を乞ふ。寄手の軍兵聞きも入れず、降參せば以前のこと、是程落去して一命を助くること有間敷と言へば、秀吉さはせぬものぞ、軍は六七分の勝を十分と爲す、降人を打果せば、とても逃れぬ道なりと、思ひ定めたらば彌々強くなるものぞ、城を攻むる謀に、一方明けて攻むるも、敵に逃る道を知らせて、早く勝利を得ん爲めなり、降參の者に、少しも手を指すべからずとて、城を受取りけり。 ○十一月、荒木村重、信長に反す。秀吉播磨より有岡城に至り村重を諭す、村重聽かず、是時村重、秀吉を饗す、酒數獻に及びて、自ら肴を取りに立たる時、河原林越後守治冬、秀吉を殺さんことを勸め謀る、村重制止して之を秀吉に語る。秀吉壯士なりと言て呼出し、獻酬に及びて腰間の短刀を引出物に與ふ。村重指替もなく如何と言ふ。秀吉我一個の刄を以て信長公に仕る者にあらず、信長公の我に於る、又此の如しとて強て治冬に與ふ。其凛然たる勇氣に壓されて、手出しする者なかりしとぞ。
現代語訳
六年四月、秀吉は別所小三郎長治の属城野口を攻めた。城主長井四郎左衛門は防戦したが敵わず、外回りの塀を四、五十間引き破られ、既に乗っ取れるところに、長井が和を乞うた。寄せ手の軍兵は聞き入れず、降参するなら以前のこと、これほど落城寸前で一命を助けることはあるまいと言うと、秀吉は、そうしてはならぬ、軍は六、七分の勝ちを十分とするものだ、降人を討ち果たせば、とても逃れられぬ道と思い定めて、いよいよ強くなるものだ、城を攻める謀として、一方を明けて攻めるのも、敵に逃げる道を知らせて、早く勝利を得るためである、降参の者に少しも手出しをしてはならぬ、として城を受け取った。 十一月、荒木村重が信長に背いた。秀吉は播磨から有岡城に至り、村重を諭した。村重は聞かない。このとき村重は秀吉を饗応し、酒が数献に及んで、自ら肴を取りに立ったとき、河原林越後守治冬が、秀吉を殺すことを勧め謀った。村重は制止して、これを秀吉に語った。秀吉は、壮士だと言って呼び出し、献酬に及んで、腰の短刀を引き出物に与えた。村重が、替えの刀もなく、いかがかと言うと、秀吉は、私は一人の刃をもって信長公に仕える者ではない、信長公の私に対するお考えもまたこのとおりだ、として、強いて治冬に与えた。その凛然たる勇気に圧されて、手出しする者がなかったということである。
解説

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