名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 叱られても退かぬ粘り
○三年、秀吉、上言して曰く、清洲城水に乏し、小牧山に移り給ふこそ然るべからめと。信長も内々然るべしとは思ひ居たれども、勞費を憚て定かには言はれざる所に、差出たることゝ言ひ、且つ諸人の水に乏きを知るを惡み、大に叱て、猿め何をか知らん、妄言を吐き、下として上を制する其罪死に當れりと言はれけり。凡そ秀吉、事を申せば則ち叱斥せらる。人皆あれ程面皮の厚かりしは見も聞きもせぬ抔と聞くや、聞かぬ計りに、日引鼻引笑ひけり。去れども、秀吉は露も意となさず、深く信長に結ばんとせり。 ○秀吉は、堪忍強し。微賤の時、同伴の者に溝へ突落されて泥塗れに成たりけれど、大望ある故に、曾て刃傷鬪爭のことなかりしとなり。 ○六年、信長河獵して兵を閲し、戲れに、秀吉を以て將と爲す。秀吉之を部勒指麾すること兵法に老いたるものゝ如し。 ○信長、兵を美濃に出す時、見馴れぬ旗あり、誰ぞと問ふ。木下藤吉郎が旗なりと申ければ、夫は誰が免したるぞとて、以の外怒り、既に旗竿を切り折らせける。去れども少しも恨むる氣色なく、意色自如たり。
新字:○三年、秀吉、上言して曰く、清洲城水に乏し、小牧山に移り給ふこそ然るべからめと。信長も内々然るべしとは思ひ居たれども、労費を憚て定かには言はれざる所に、差出たることゝ言ひ、且つ諸人の水に乏きを知るを悪み、大に叱て、猿め何をか知らん、妄言を吐き、下として上を制する其罪死に当れりと言はれけり。凡そ秀吉、事を申せば則ち叱斥せらる。人皆あれ程面皮の厚かりしは見も聞きもせぬ抔と聞くや、聞かぬ計りに、日引鼻引笑ひけり。去れども、秀吉は露も意となさず、深く信長に結ばんとせり。 ○秀吉は、堪忍強し。微賤の時、同伴の者に溝へ突落されて泥塗れに成たりけれど、大望ある故に、曽て刃傷闘争のことなかりしとなり。 ○六年、信長河猟して兵を閲し、戯れに、秀吉を以て将と為す。秀吉之を部勒指麾すること兵法に老いたるものゝ如し。 ○信長、兵を美濃に出す時、見馴れぬ旗あり、誰ぞと問ふ。木下藤吉郎が旗なりと申ければ、夫は誰が免したるぞとて、以の外怒り、既に旗竿を切り折らせける。去れども少しも恨むる気色なく、意色自如たり。
書き下し
○三年、秀吉、上言して曰く、清洲城水に乏し、小牧山に移り給ふこそ然るべからめと。信長も内々然るべしとは思ひ居たれども、勞費を憚て定かには言はれざる所に、差出たることゝ言ひ、且つ諸人の水に乏きを知るを惡み、大に叱て、猿め何をか知らん、妄言を吐き、下として上を制する其罪死に當れりと言はれけり。凡そ秀吉、事を申せば則ち叱斥せらる。人皆あれ程面皮の厚かりしは見も聞きもせぬ抔と聞くや、聞かぬ計りに、日引鼻引笑ひけり。去れども、秀吉は露も意となさず、深く信長に結ばんとせり。 ○秀吉は、堪忍強し。微賤の時、同伴の者に溝へ突落されて泥塗れに成たりけれど、大望ある故に、曾て刃傷鬪爭のことなかりしとなり。 ○六年、信長河獵して兵を閲し、戲れに、秀吉を以て將と爲す。秀吉之を部勒指麾すること兵法に老いたるものゝ如し。 ○信長、兵を美濃に出す時、見馴れぬ旗あり、誰ぞと問ふ。木下藤吉郎が旗なりと申ければ、夫は誰が免したるぞとて、以の外怒り、既に旗竿を切り折らせける。去れども少しも恨むる氣色なく、意色自如たり。
現代語訳
三年、秀吉が上言して言うには、清洲城は水に乏しい、小牧山に移られるのがよろしいでしょう、と。信長も内々それがよいとは思っていたけれども、労費をはばかって定かには言えないところに、差し出がましいことを言うと思い、かつ人々が水に困っていることを知られるのを嫌って、大いに叱り、猿めが何を知るか、妄言を吐き、下として上を制する、その罪は死に当たる、と言われた。およそ秀吉は、事を言えばすぐに叱斥される。人は皆、あれほど面の皮の厚いのは見も聞きもしない、などと、聞くや聞かぬやのうちに、鼻で笑って引き笑いした。けれども秀吉は露ほども意に介さず、深く信長に結ばれようとした。 秀吉は、堪忍が強い。微賤のとき、同輩に溝へ突き落とされて泥まみれになったけれども、大望があるので、決して刃傷や闘争のことがなかったということである。 六年、信長は河で狩りをして兵を検閲し、戯れに秀吉を将とした。秀吉はこれを部署し指揮すること、兵法に老練な者のようであった。 信長が兵を美濃に出すとき、見慣れぬ旗がある。だれのものかと問う。木下藤吉郎の旗です、と申すと、それはだれが許したのだ、とひどく怒り、すぐに旗竿を切り折らせた。けれども少しも恨む様子がなく、意色は自若であった。
解説

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