名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 恩賞に朝鮮を願う
○五年、信長中國を伐んと欲し、秀吉を召して曰く、汝を中國退治の大將として、播磨國並に、朱傘を下し賜ふとなり。秀吉謹みて承はり、有り難き上意此上あるべからず、殊に御傘を免るし賜はる上は、早速中國を平ぐべし、其故如何となれば、中國より度々安土まで御下知を伺ひ、征伐せば、速に功を成し難し、今御傘を免るし賜はる上は心の儘に下知し計ふべし、降る者は之を免るし抗する者は之を攻從へ、機に臨み變に應じて征伐せば、毛利家を退治仕ること掌の中にあり、既に中國を伐從へば、御側に伺公する野々村、福富、矢部、森等に賜はるべし、偖夫より九州を征伐せば、是も早速平治仕らん、然らば九州一年の所務を賜はり、そこにて勢を揃へ、兵糧を蓄へ、大船を造り、朝鮮に打入るべし、某を賞せんと思召さば、朝鮮を下さるゝ御敎書を一通賜はるべし、朝鮮を伐從へば、夫より明國へ働くべし、明國征伐容易く功成らば、公達の中御一人大將として、渡海なし奉らば、三國御手に入るべしと、憚る所なく申ければ、聞く人皆興を醒し驚きあへり。信長聞て大に笑ひ、中國の成敗は安土へ注進するに及ばずと言はれけり。是れは秀吉、信長が元來功臣を猜忌する癖あるを知りし故、日本にて恩賞を受けまじ、朝鮮にて賜はるべしと言ひしこととぞ。
新字:○五年、信長中国を伐んと欲し、秀吉を召して曰く、汝を中国退治の大将として、播磨国並に、朱傘を下し賜ふとなり。秀吉謹みて承はり、有り難き上意此上あるべからず、殊に御傘を免るし賜はる上は、早速中国を平ぐべし、其故如何となれば、中国より度々安土まで御下知を伺ひ、征伐せば、速に功を成し難し、今御傘を免るし賜はる上は心の儘に下知し計ふべし、降る者は之を免るし抗する者は之を攻従へ、機に臨み変に応じて征伐せば、毛利家を退治仕ること掌の中にあり、既に中国を伐従へば、御側に伺公する野々村、福富、矢部、森等に賜はるべし、偖夫より九州を征伐せば、是も早速平治仕らん、然らば九州一年の所務を賜はり、そこにて勢を揃へ、兵糧を蓄へ、大船を造り、朝鮮に打入るべし、某を賞せんと思召さば、朝鮮を下さるゝ御教書を一通賜はるべし、朝鮮を伐従へば、夫より明国へ働くべし、明国征伐容易く功成らば、公達の中御一人大将として、渡海なし奉らば、三国御手に入るべしと、憚る所なく申ければ、聞く人皆興を醒し驚きあへり。信長聞て大に笑ひ、中国の成敗は安土へ注進するに及ばずと言はれけり。是れは秀吉、信長が元来功臣を猜忌する癖あるを知りし故、日本にて恩賞を受けまじ、朝鮮にて賜はるべしと言ひしこととぞ。
書き下し
○五年、信長中國を伐んと欲し、秀吉を召して曰く、汝を中國退治の大將として、播磨國並に、朱傘を下し賜ふとなり。秀吉謹みて承はり、有り難き上意此上あるべからず、殊に御傘を免るし賜はる上は、早速中國を平ぐべし、其故如何となれば、中國より度々安土まで御下知を伺ひ、征伐せば、速に功を成し難し、今御傘を免るし賜はる上は心の儘に下知し計ふべし、降る者は之を免るし抗する者は之を攻從へ、機に臨み變に應じて征伐せば、毛利家を退治仕ること掌の中にあり、既に中國を伐從へば、御側に伺公する野々村、福富、矢部、森等に賜はるべし、偖夫より九州を征伐せば、是も早速平治仕らん、然らば九州一年の所務を賜はり、そこにて勢を揃へ、兵糧を蓄へ、大船を造り、朝鮮に打入るべし、某を賞せんと思召さば、朝鮮を下さるゝ御敎書を一通賜はるべし、朝鮮を伐從へば、夫より明國へ働くべし、明國征伐容易く功成らば、公達の中御一人大將として、渡海なし奉らば、三國御手に入るべしと、憚る所なく申ければ、聞く人皆興を醒し驚きあへり。信長聞て大に笑ひ、中國の成敗は安土へ注進するに及ばずと言はれけり。是れは秀吉、信長が元來功臣を猜忌する癖あるを知りし故、日本にて恩賞を受けまじ、朝鮮にて賜はるべしと言ひしこととぞ。
現代語訳
五年、信長は中国を討とうとして、秀吉を召して言われた、お前を中国退治の大将として、播磨国ならびに朱傘を下し賜る、とのことである。秀吉は謹んで承り、ありがたい上意はこの上ありません、ことに御傘を許し賜る上は、早速中国を平らげましょう、その理由は、中国から度々安土まで御下知を伺って征伐するのでは、速やかに功を成しがたい、今御傘を許し賜る以上は心のままに下知しはかれます、降る者は許し、抗する者は攻め従え、機に臨み変に応じて征伐すれば、毛利家を退治することは掌の中にあります、既に中国を討ち従えたら、お側に伺候する野々村、福富、矢部、森らに賜りますよう、さてそれから九州を征伐すれば、これも早速平定いたしましょう、そうなれば九州一年の所務を賜り、そこで勢を揃え、兵糧を蓄え、大船を造り、朝鮮に討ち入りましょう、私を賞しようとお思いなら、朝鮮を下される御教書を一通賜りたい、朝鮮を討ち従えれば、それから明国へ働きかけましょう、明国征伐が容易く功を成せば、公達の中のお一人を大将として渡海させ奉れば、三国は御手に入りましょう、と憚るところなく申したので、聞く人は皆興を冷まして驚き合った。信長は聞いて大いに笑い、中国の処置は安土へ注進するにも及ばない、と言われた。これは、秀吉が、信長がもとより功臣を猜忌する癖があるのを知っていたので、日本では恩賞を受けまい、朝鮮で賜りたいと言ったのだということである。
解説

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