名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 地の者を用いる提案
○九年、信長既に今川に克ち、尾張を定め、夫より齋藤を美濃に攻む。洲股河を隔てゝ兵を用ふること故數々志を得ず、依て諸將を會し、壘を河西に築き、一將を置きて之れを守らせんと言はれしかども、諸將互に危みて我往んと言ふ者一人もなし。信長之を秀吉に謀る。秀吉曰く、孤壘敵地に斗入せし故、味方何れも往くことを欲し申さず、假令往く者ありとも、其地形險易を暗ぜず、萬一軍に打負けなば、後は必ず往く者有間敷候、依て篠木、柏井、科野、秦川、小幡、守山等にて然るべき者を選び用ひ給ふに如かず、某嘗て美濃に居りし時、其豪俠大盜の名ある者と懇意に仕りし者あり、之を招かれて用ひ給ふては如何なりと、依て指を屈し、其姓名を算ふるに、蜂須賀小六、稻田大炊、加治田隼人、青山新七以下六十餘人を得たり。其黨屬千二百人に及べり。信長曰く吾も亦此輩あるを聞けり、然れども誰をして是者共の將たらしむべきと。秀吉曰く、他に人なくば、願くば某をして之に將たらしめ給へと望む。信長則ち之を許せり。
新字:○九年、信長既に今川に克ち、尾張を定め、夫より斎藤を美濃に攻む。洲股河を隔てゝ兵を用ふること故数々志を得ず、依て諸将を会し、塁を河西に築き、一将を置きて之れを守らせんと言はれしかども、諸将互に危みて我往んと言ふ者一人もなし。信長之を秀吉に謀る。秀吉曰く、孤塁敵地に斗入せし故、味方何れも往くことを欲し申さず、仮令往く者ありとも、其地形険易を暗ぜず、万一軍に打負けなば、後は必ず往く者有間敷候、依て篠木、柏井、科野、秦川、小幡、守山等にて然るべき者を選び用ひ給ふに如かず、某嘗て美濃に居りし時、其豪侠大盗の名ある者と懇意に仕りし者あり、之を招かれて用ひ給ふては如何なりと、依て指を屈し、其姓名を算ふるに、蜂須賀小六、稲田大炊、加治田隼人、青山新七以下六十余人を得たり。其党属千二百人に及べり。信長曰く吾も亦此輩あるを聞けり、然れども誰をして是者共の将たらしむべきと。秀吉曰く、他に人なくば、願くば某をして之に将たらしめ給へと望む。信長則ち之を許せり。
書き下し
○九年、信長既に今川に克ち、尾張を定め、夫より齋藤を美濃に攻む。洲股河を隔てゝ兵を用ふること故數々志を得ず、依て諸將を會し、壘を河西に築き、一將を置きて之れを守らせんと言はれしかども、諸將互に危みて我往んと言ふ者一人もなし。信長之を秀吉に謀る。秀吉曰く、孤壘敵地に斗入せし故、味方何れも往くことを欲し申さず、假令往く者ありとも、其地形險易を暗ぜず、萬一軍に打負けなば、後は必ず往く者有間敷候、依て篠木、柏井、科野、秦川、小幡、守山等にて然るべき者を選び用ひ給ふに如かず、某嘗て美濃に居りし時、其豪俠大盜の名ある者と懇意に仕りし者あり、之を招かれて用ひ給ふては如何なりと、依て指を屈し、其姓名を算ふるに、蜂須賀小六、稻田大炊、加治田隼人、青山新七以下六十餘人を得たり。其黨屬千二百人に及べり。信長曰く吾も亦此輩あるを聞けり、然れども誰をして是者共の將たらしむべきと。秀吉曰く、他に人なくば、願くば某をして之に將たらしめ給へと望む。信長則ち之を許せり。
現代語訳
九年、信長は既に今川に勝ち、尾張を平定し、それから斎藤を美濃に攻めた。洲股河を隔てて兵を用いることなので、しばしば思うようにならず、そこで諸将を集め、塁を河西に築き、一将を置いてこれを守らせようと言われたが、諸将は互いに危ぶんで、私が行こうと言う者は一人もない。信長はこれを秀吉に諮った。秀吉は、孤塁が敵地に突き出ているので、味方のだれも行くことを望みません、たとえ行く者があっても、その地形の険しさ平らさを知らず、万一、戦に打ち負ければ、のちには必ず行く者はありますまい、そこで、篠木、柏井、科野、秦川、小幡、守山などでしかるべき者を選んでお用いになるのがよろしいでしょう、私は以前美濃におりましたとき、豪俠・大盗の名のある者と懇意にしていた者がおります、これを招いてお用いになってはいかがでしょう、と言い、指を折ってその姓名を数えると、蜂須賀小六、稲田大炊、加治田隼人、青山新七以下六十余人を得た。その党属は千二百人に及んだ。信長は、私もこの輩のあることは聞いている、しかしだれがこれらの者の将となるのか、と言った。秀吉は、他に人がなければ、願わくは私にこれの将にならせてください、と望んだ。信長はこれを許した。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 清洲の石垣を二日で築く○信長、一日犬山城の近邊を燒働として未明に打出けるに、馬に乘り勇める者あり、誰ぞと問へば、木下藤吉郎とぞ名乘りける。其後放鷹の爲め、曉方に出て誰かあるぞと尋ぬるに、藤吉郎是にて候とぞ答へける。信長感じて寢々之を親近せり。 ○二年、信長居る所の清洲城の石垣、百間餘崩れければ、普請のことありけり。奉行等精を出しけれども、二十日餘り果敢行かず。秀吉、信長に從ひ、城下を過ぎ、之を見て獨言しけるは、當時戰國にて四方敵地なり、何つの日、何れの所より攻來るべきも知らざるに、御普請筒樣に延引致すこと、勿體なしと言けるを、信長聞て、猿めは何を言ふぞと問へば、秀吉左右を憚り申兼ねけるを、強て問はれければ、爾々の由を申す。信長聞て去らば汝に此奉行を申付るぞ、急ぎ拵へよと言て、老臣衆に引合されぬ。秀吉則ち役徒を集め、君命を以て、之に酒食を與へ、役徒を分けて十隊と爲し、一隊に十間づつを割付け、身自ら所々を巡り、獎勵督促しける程に、百間計りの石垣、僅兩日にして出來たり。信長其日鷹野より歸りに見て、大に驚き感じ、秀吉に俸を賜はり、上せて吏と爲せり。
-
名将言行録・『名将言行録』織田信長 護衛に木下秀吉を選ぶ○義昭、旣に二條に移り、信長に謂て曰く、方今兵革未だ止まず、去れば驍將一人を留めて、我を衛護すべしと。時に佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、宿將なるを以て、任用せらる。人皆二條の護衞は必ず三將の中ならんと思へり。旣にして信長、木下秀吉に命ず。衆皆驚愕せり。群臣秀吉の寵遇を嫉みて屢之を讒すれども、信長之を待すること愈々厚し。常に曰く、人を用ふるの道は能否を撰ぶべし、何ぞ新故を論ぜんと。信長の人を知り、善く任ずること斯の如し。衆是を以て之に服せり。 ○應仁以來、京師屢々兵革を歷、皇宮大に壞れり。信長命じ、之を修治す。村井道家をして役を董さしむ。元龜元年、皇居成る。殿堂門撫悉く舊制に依れり。又金を都民に散じ、其息を收めさせて、以て大內の經費に供し、品流を甄し滯淹を振ひ、衣冠、流落の者は往々舊に復せり。
-
名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 叱られても退かぬ粘り○三年、秀吉、上言して曰く、清洲城水に乏し、小牧山に移り給ふこそ然るべからめと。信長も内々然るべしとは思ひ居たれども、勞費を憚て定かには言はれざる所に、差出たることゝ言ひ、且つ諸人の水に乏きを知るを惡み、大に叱て、猿め何をか知らん、妄言を吐き、下として上を制する其罪死に當れりと言はれけり。凡そ秀吉、事を申せば則ち叱斥せらる。人皆あれ程面皮の厚かりしは見も聞きもせぬ抔と聞くや、聞かぬ計りに、日引鼻引笑ひけり。去れども、秀吉は露も意となさず、深く信長に結ばんとせり。 ○秀吉は、堪忍強し。微賤の時、同伴の者に溝へ突落されて泥塗れに成たりけれど、大望ある故に、曾て刃傷鬪爭のことなかりしとなり。 ○六年、信長河獵して兵を閲し、戲れに、秀吉を以て將と爲す。秀吉之を部勒指麾すること兵法に老いたるものゝ如し。 ○信長、兵を美濃に出す時、見馴れぬ旗あり、誰ぞと問ふ。木下藤吉郎が旗なりと申ければ、夫は誰が免したるぞとて、以の外怒り、既に旗竿を切り折らせける。去れども少しも恨むる氣色なく、意色自如たり。
-
名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 恩賞に朝鮮を願う○五年、信長中國を伐んと欲し、秀吉を召して曰く、汝を中國退治の大將として、播磨國並に、朱傘を下し賜ふとなり。秀吉謹みて承はり、有り難き上意此上あるべからず、殊に御傘を免るし賜はる上は、早速中國を平ぐべし、其故如何となれば、中國より度々安土まで御下知を伺ひ、征伐せば、速に功を成し難し、今御傘を免るし賜はる上は心の儘に下知し計ふべし、降る者は之を免るし抗する者は之を攻從へ、機に臨み變に應じて征伐せば、毛利家を退治仕ること掌の中にあり、既に中國を伐從へば、御側に伺公する野々村、福富、矢部、森等に賜はるべし、偖夫より九州を征伐せば、是も早速平治仕らん、然らば九州一年の所務を賜はり、そこにて勢を揃へ、兵糧を蓄へ、大船を造り、朝鮮に打入るべし、某を賞せんと思召さば、朝鮮を下さるゝ御敎書を一通賜はるべし、朝鮮を伐從へば、夫より明國へ働くべし、明國征伐容易く功成らば、公達の中御一人大將として、渡海なし奉らば、三國御手に入るべしと、憚る所なく申ければ、聞く人皆興を醒し驚きあへり。信長聞て大に笑ひ、中國の成敗は安土へ注進するに及ばずと言はれけり。是れは秀吉、信長が元來功臣を猜忌する癖あるを知りし故、日本にて恩賞を受けまじ、朝鮮にて賜はるべしと言ひしこととぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 光秀の舌を巻かせた褒美○明智光秀の臣、宮部加兵衞、初め秀吉に仕ふ。光秀、一日宮部に向ひ、其方嚮きに秀吉に奉公せしと聞く、秀吉の人を使ふ樣如何と尋ねければ、左せる異なることも之れなく候、去ながら誰にても少し出來たることには、思ひの外なる褒美にて驚く程のことにて候と申ければ、光秀、舌を振ひしとぞ。 ○秀吉は磊落の氣象故、人に對して詞常に傲れり。光秀は謹厚の人なれば、詞常に慇懃なり。一日秀吉、光秀に向ひ、貴殿は周山に夜普請して謀反を企てらるゝと、人皆言へり、如何なりと問ふ。光秀、やくたいもないことを言はるゝと言て、止みけるとぞ。 ○十年、信長、武田氏を亡せし時、秀吉は毛利に向て軍に從はず。勝頼死て甲斐平均せりと云を聞き、大息して曰く、あたら人を殺したることの殘り多さよ、我軍中に在るならば、強て諫めて勝頼に甲信二州を與へて、關東の先陣としたらんには、東國は平ら押しにすべきにと繰返し悔みけり。 ○秀吉備中に陣して毛利と和平せんことを計り、密に手立を運らし、中國の米を、價を貴く買ひしかば、城米を出して賣る者多し。小早川隆景一人、固く制して賣らせず、信長弑せられて、秀吉、毛利家と手切なるべかりしに、兵粮の豐かならざる故、終に和平に及べり。
-
名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 義昭を討たせぬ諫言○天正元年、信長宇治槇島を攻る時、秀吉、信長の前に出で、義昭公始終の御成行を何にと遊ばさるべき御賢慮にやと問ふ。信長曰く、義昭公の此度の御企實以て不當なれば、天下の爲めに、此君を除き奉ろべきなり、元より自業自得と曰ふべし。秀吉曰く、上意の趣透間なく候へ共、最早味方、川を渡して攻詰めんには、立ち所に落城致すべし、其時義昭公へ御自害を勸め奉る者あらんも量り難し、如何に柔弱におはしますとも、義昭公若し雜人の手に掛らんよりはと思召御自害あらば、後悔すとも、甲斐あらず、左あらば殿には主君を弑し給ふと、天下後世に言はれ給ふべし、但し三好長慶が萬松院殿、光源院殿、兩將軍を輔佐し奉りしこと、涯分の力を盡くし候へ共、終には逆臣の名を取て候、哀れ寛裕の御沙汰こそ願はしけれ、此處實に大切の御場合なりとありければ、信長如何にもとありて、秀吉の意に任せられけり。秀吉乃ち、河州若江の三好義繼方へ護送しけり。