名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 諫言を求め、遺言を残す
○秀吉曰く、我世の中を視るに、君臣朋友の間にても、皆我儘なる所よりして、不和となれり。我好むことは、人好まざるものなり。家來とても同じく、いやがること多し、將たる者、此所に心を付け、我に伴き近士を選み、密に我身の目付に賴み置き、時々異見を承はり、我身の善惡に聞て、萬事に心を付ること、將たる者、第一の要務なり、此心得なければ、我身の過失知れずして、次第に過失廣くなりて、諸人に疎まれ、家を亡し、身を失ふものなりと。 ○秀吉終に臨み、小出秀政、片桐貞盛に密諭せしは、我家亡びざらん樣に計らんとすれば、本朝の禍立所に起るべし、彼を思ひ是を計るに、此七年が間、朝鮮と軍し、明と戰ひ、我彼兩國に仇を結びしこそ、我生涯の過なれ、我死なん後彼國に向ひし十萬の軍勢一人も生きて歸らんこと思ひもよらず、希有にして歸ること得たりとも、彼國より、此年月の仇を復せんと思はざることあるべからず、元世祖が、本朝に侵さんとせしこと、近きためしなり。此時に至て、秀吉なからん後、誰あつてか、本朝の動きなからん樣に謀るものゝあるべき、此事を能く計らはんは、江戸内府の外、又あるべきとも思はれず、然し此人彌々本朝の爲めに大功を立られんには、神明も其功を感じ、聖王も其勳を賞し給ひ、萬民も其德に懷き、其威に怖れ、天下は自から彼家風に歸しぬべし、其時慈に我舊恩を思ふ輩、幼弱の秀賴を輔佐して、天下を取らんと謀り、此人と合戰を結ばば、我家自ら亡びんこと踵を旋すべからず、汝我家の絶ざらんことを思はゞ、相構て此人に能く從ひ仕て、秀賴が事惡く思はれぬ樣に計るべし。去らば我家の絶えざらんことありぬべし、と遺言せられしとなり。
新字:○秀吉曰く、我世の中を視るに、君臣朋友の間にても、皆我儘なる所よりして、不和となれり。我好むことは、人好まざるものなり。家来とても同じく、いやがること多し、将たる者、此所に心を付け、我に伴き近士を選み、密に我身の目付に頼み置き、時々異見を承はり、我身の善悪に聞て、万事に心を付ること、将たる者、第一の要務なり、此心得なければ、我身の過失知れずして、次第に過失広くなりて、諸人に疎まれ、家を亡し、身を失ふものなりと。 ○秀吉終に臨み、小出秀政、片桐貞盛に密諭せしは、我家亡びざらん様に計らんとすれば、本朝の禍立所に起るべし、彼を思ひ是を計るに、此七年が間、朝鮮と軍し、明と戦ひ、我彼両国に仇を結びしこそ、我生涯の過なれ、我死なん後彼国に向ひし十万の軍勢一人も生きて帰らんこと思ひもよらず、希有にして帰ること得たりとも、彼国より、此年月の仇を復せんと思はざることあるべからず、元世祖が、本朝に侵さんとせしこと、近きためしなり。此時に至て、秀吉なからん後、誰あつてか、本朝の動きなからん様に謀るものゝあるべき、此事を能く計らはんは、江戸内府の外、又あるべきとも思はれず、然し此人弥々本朝の為めに大功を立られんには、神明も其功を感じ、聖王も其勲を賞し給ひ、万民も其徳に懐き、其威に怖れ、天下は自から彼家風に帰しぬべし、其時慈に我旧恩を思ふ輩、幼弱の秀頼を輔佐して、天下を取らんと謀り、此人と合戦を結ばば、我家自ら亡びんこと踵を旋すべからず、汝我家の絶ざらんことを思はゞ、相構て此人に能く従ひ仕て、秀頼が事悪く思はれぬ様に計るべし。去らば我家の絶えざらんことありぬべし、と遺言せられしとなり。
書き下し
○秀吉曰く、我世の中を視るに、君臣朋友の間にても、皆我儘なる所よりして、不和となれり。我好むことは、人好まざるものなり。家來とても同じく、いやがること多し、將たる者、此所に心を付け、我に伴き近士を選み、密に我身の目付に賴み置き、時々異見を承はり、我身の善惡に聞て、萬事に心を付ること、將たる者、第一の要務なり、此心得なければ、我身の過失知れずして、次第に過失廣くなりて、諸人に疎まれ、家を亡し、身を失ふものなりと。 ○秀吉終に臨み、小出秀政、片桐貞盛に密諭せしは、我家亡びざらん樣に計らんとすれば、本朝の禍立所に起るべし、彼を思ひ是を計るに、此七年が間、朝鮮と軍し、明と戰ひ、我彼兩國に仇を結びしこそ、我生涯の過なれ、我死なん後彼國に向ひし十萬の軍勢一人も生きて歸らんこと思ひもよらず、希有にして歸ること得たりとも、彼國より、此年月の仇を復せんと思はざることあるべからず、元世祖が、本朝に侵さんとせしこと、近きためしなり。此時に至て、秀吉なからん後、誰あつてか、本朝の動きなからん樣に謀るものゝあるべき、此事を能く計らはんは、江戸内府の外、又あるべきとも思はれず、然し此人彌々本朝の爲めに大功を立られんには、神明も其功を感じ、聖王も其勳を賞し給ひ、萬民も其德に懷き、其威に怖れ、天下は自から彼家風に歸しぬべし、其時慈に我舊恩を思ふ輩、幼弱の秀賴を輔佐して、天下を取らんと謀り、此人と合戰を結ばば、我家自ら亡びんこと踵を旋すべからず、汝我家の絶ざらんことを思はゞ、相構て此人に能く從ひ仕て、秀賴が事惡く思はれぬ樣に計るべし。去らば我家の絶えざらんことありぬべし、と遺言せられしとなり。
現代語訳
秀吉が言いました。私が世の中を見ると、君臣や朋友の間でも、皆わがままなところから不和になっている。私が好むことは人が好まないものである。家来にしても同じで、いやがることが多い。将たる者はこの点に気をつけ、自分になびかない近臣を選び、ひそかに自分の目付けとして頼んでおき、時々意見を聞いて、自分の善し悪しを知り、万事に心をつけることが、将たる者の第一の要務である。この心得がなければ、自分の過失が分からず、次第に過失が広がって、人々に疎まれ、家を滅ぼし、身を失うものである、と。 秀吉は臨終に際して、小出秀政と片桐貞盛にひそかに言い含めました。我が家が滅びないよう図ろうとすれば、日本の禍が立ちどころに起こるだろう。あれこれ考えると、この七年の間、朝鮮と戦い、明と戦い、我が国と彼の二国に仇を結んだことこそ、私の生涯の過ちだ。私の死後、彼の国に向かった十万の軍勢は一人も生きて帰れるとは思えない。まれに帰れたとしても、彼の国から、この年月の仇を返そうと思わないはずはない。元の世祖が日本に侵入しようとしたことは、近い前例である。そのとき秀吉がいなくなった後、誰が日本を揺るがないように図るだろうか。これをよく図るのは、江戸内府のほかにはいないと思う。しかしこの人がいよいよ日本のために大きな功を立てれば、神明もその功に感じ、聖王もその勲を賞し、万民もその徳になつき、その威を恐れ、天下は自然と彼の家風に帰するだろう。そのとき、我が旧恩を思う者たちが、幼い秀頼を補佐して天下を取ろうと謀り、この人と合戦すれば、我が家が自ら滅びることは間違いない。お前たちが我が家の絶えないことを望むなら、必ずこの人によく従い仕えて、秀頼のことを悪く思われないように計らえ。そうすれば我が家の絶えないこともあるだろう、と遺言しました。
解説

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葉隠・聞書第一諫言(かんげん)の道に、我(われ)其の位(くらい)にあらずば、其の位の人に言はせて、御誤(おあやまり)直(なお)る様にするが大忠(たいちゅう)なり。此の階(かい)の為に諸人(しょにん)と懇意(こんい)する所なり。我が為にすれば追従(ついしょう)なり。一方(いっぽう)は我等(われら)荷(にな)ひ申す心入(こころいれ)からなり。成程(なるほど)なるものなり。
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『十善法語』巻第十・不邪見戒之上又喩ヘテ云ハ。賢君明主ハ忠臣ヲ信任シ。諫言ヲ用ル如クシヤ。漢ノ高祖カ諫ニ従フコト流ノ如ク。唐ノ太宗ノ魏徴カ苦諫ノ言ヲ用ヒアリシ類。ソノ如ク。正法ノ因縁アル者ハ必ス不邪見戒ニ随順スルシヤ。此ニ反シテ宿福ナキ者ハ。智者モ愚者モ。学者モ不学者モ仏アルコトヲ信セヌ。法アルコトヲ信セヌ。聖賢アルコトヲ信セヌ。神祇有コトヲ信セヌ。善悪報応有コトヲ信セヌシヤ。