名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 清洲の石垣を二日で築く
○信長、一日犬山城の近邊を燒働として未明に打出けるに、馬に乘り勇める者あり、誰ぞと問へば、木下藤吉郎とぞ名乘りける。其後放鷹の爲め、曉方に出て誰かあるぞと尋ぬるに、藤吉郎是にて候とぞ答へける。信長感じて寢々之を親近せり。 ○二年、信長居る所の清洲城の石垣、百間餘崩れければ、普請のことありけり。奉行等精を出しけれども、二十日餘り果敢行かず。秀吉、信長に從ひ、城下を過ぎ、之を見て獨言しけるは、當時戰國にて四方敵地なり、何つの日、何れの所より攻來るべきも知らざるに、御普請筒樣に延引致すこと、勿體なしと言けるを、信長聞て、猿めは何を言ふぞと問へば、秀吉左右を憚り申兼ねけるを、強て問はれければ、爾々の由を申す。信長聞て去らば汝に此奉行を申付るぞ、急ぎ拵へよと言て、老臣衆に引合されぬ。秀吉則ち役徒を集め、君命を以て、之に酒食を與へ、役徒を分けて十隊と爲し、一隊に十間づつを割付け、身自ら所々を巡り、獎勵督促しける程に、百間計りの石垣、僅兩日にして出來たり。信長其日鷹野より歸りに見て、大に驚き感じ、秀吉に俸を賜はり、上せて吏と爲せり。
新字:○信長、一日犬山城の近辺を焼働として未明に打出けるに、馬に乗り勇める者あり、誰ぞと問へば、木下藤吉郎とぞ名乗りける。其後放鷹の為め、暁方に出て誰かあるぞと尋ぬるに、藤吉郎是にて候とぞ答へける。信長感じて寝々之を親近せり。 ○二年、信長居る所の清洲城の石垣、百間余崩れければ、普請のことありけり。奉行等精を出しけれども、二十日余り果敢行かず。秀吉、信長に従ひ、城下を過ぎ、之を見て独言しけるは、当時戦国にて四方敵地なり、何つの日、何れの所より攻来るべきも知らざるに、御普請筒様に延引致すこと、勿体なしと言けるを、信長聞て、猿めは何を言ふぞと問へば、秀吉左右を憚り申兼ねけるを、強て問はれければ、爾々の由を申す。信長聞て去らば汝に此奉行を申付るぞ、急ぎ拵へよと言て、老臣衆に引合されぬ。秀吉則ち役徒を集め、君命を以て、之に酒食を与へ、役徒を分けて十隊と為し、一隊に十間づつを割付け、身自ら所々を巡り、獎励督促しける程に、百間計りの石垣、僅両日にして出来たり。信長其日鷹野より帰りに見て、大に驚き感じ、秀吉に俸を賜はり、上せて吏と為せり。
書き下し
○信長、一日犬山城の近邊を燒働として未明に打出けるに、馬に乘り勇める者あり、誰ぞと問へば、木下藤吉郎とぞ名乘りける。其後放鷹の爲め、曉方に出て誰かあるぞと尋ぬるに、藤吉郎是にて候とぞ答へける。信長感じて寢々之を親近せり。 ○二年、信長居る所の清洲城の石垣、百間餘崩れければ、普請のことありけり。奉行等精を出しけれども、二十日餘り果敢行かず。秀吉、信長に從ひ、城下を過ぎ、之を見て獨言しけるは、當時戰國にて四方敵地なり、何つの日、何れの所より攻來るべきも知らざるに、御普請筒樣に延引致すこと、勿體なしと言けるを、信長聞て、猿めは何を言ふぞと問へば、秀吉左右を憚り申兼ねけるを、強て問はれければ、爾々の由を申す。信長聞て去らば汝に此奉行を申付るぞ、急ぎ拵へよと言て、老臣衆に引合されぬ。秀吉則ち役徒を集め、君命を以て、之に酒食を與へ、役徒を分けて十隊と爲し、一隊に十間づつを割付け、身自ら所々を巡り、獎勵督促しける程に、百間計りの石垣、僅兩日にして出來たり。信長其日鷹野より歸りに見て、大に驚き感じ、秀吉に俸を賜はり、上せて吏と爲せり。
現代語訳
信長がある日、犬山城の近辺を焼き働きにして未明に打ち出たところ、馬に乗り勇んでいる者がいる。だれかと問うと、木下藤吉郎と名乗った。その後、放鷹のため、暁方に出て、だれかあるかと尋ねると、藤吉郎ここにおります、と答えた。信長は感心して、寝所にまで近づけて親しくした。 二年、信長が居る清洲城の石垣が百間余り崩れたので、普請のことがあった。奉行たちは精を出したが、二十日余りもはかどらない。秀吉は信長に従って城下を通り、これを見て独り言を言った、当節は戦国で四方が敵地である、いつの日どこから攻めてくるかも知れないのに、お普請がこのように延引していることは、もったいない、と言ったのを、信長が聞き、猿めは何を言うのかと問うと、秀吉は左右を憚って言いかねたが、強いて問われたので、かくかくと申した。信長は聞いて、それならばお前にこの奉行を申し付ける、急いで造れ、と言って、老臣衆に引き合わされた。秀吉はすぐに人夫を集め、君命をもって酒食を与え、人夫を分けて十隊とし、一隊に十間ずつ割り付け、自ら所々を巡り、励まし督促したので、百間ばかりの石垣が、わずか二日で出来上がった。信長はその日、鷹野からの帰りに見て、大いに驚き感心し、秀吉に俸禄を賜り、上げて吏とした。
解説

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