名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 幼少の乱暴と家出
木下彌一右衞門某の子、尾張愛智郡中村の民間より起り、竟に海内を平げ、朝鮮を征す。族た羽柴に改め、筑前守に任す。後、累遷して、從一位太政大臣關白と爲り、豐臣の姓を賜はる。慶長三年八月十八日薨、年六十三、正一位豐國大明神を贈らる。 ○秀吉、幼名日吉と曰ふ。生れて頴悟稍々長じて、偶儻不羈動もすれば繼父筑阿彌の意に忤ふ。母之を憂ひ、屢々敎訓せしかども少しも用ひず、我儘なることのみ多かりけり。依て八歳の時、鄕中の光明寺に托し、何卒手習學問にても致させ、後々は出家させんと賴み遣はすと雖も、中々手習學文抔はせず、朝幕竹木を以て鎗劍術の眞似を爲せり。然れども、人の武事を談ずるを聞くに至ては、毎に耳を傾けて之を聽けり。常に坊主は皆是乞食なり、我何ぞ乞食と成らんと言て、思ひの儘に惡口し、游嬉意に任す。動もすれば、人と諍ひ、即ち之を毆擊す。後には寺僧も持ち扱兼ね、父の許に返さんと言へば、日吉又繼父の己を怒らんことを恐れ、大言して曰く、我を出さば、我今寺に火を掛け燒拂ひ、坊主共をば一切殺さんと怒りける程に、寺僧彌以て怖を爲し、他事に托して、辭謝し、扇子帷子樣の物種々與へ、慰諭して、漸く寺を出し、父の許にぞ返しける。日吉家に歸り、或は田を耕し、草を耘り、或は泥鰌を撈擒して、以て其口を餬す。去れども父素より貧しかりければ、復た遣りて人の奴僕と爲す、至る所皆數月にして去り、始終春秋を一所にて暮せしことなし。家に歸れば繼父に忤ふ。母も殆んどあきれ果、種々惡しき事ども言聞かせ、涙を流して異見せしかば、日吉熟々と聞居けるが、我等東國に下り身上挵ぐべし、近き内に家を出んと言ふ。母も日吉が父と中惡ければ、とても同居は成るべからずと思ひて、鳥目一貫文取出し、日吉に與ふ。日吉之を持ちて天文二十年中村の鄕を立出る時年十六、日吉既に中村を出て、清洲に至り、針を買て夫を賣り路費と爲して東國に赴き、遠洲引間の橋上に休み居たりし時、今川義元の麾下松下嘉兵衞之綱、飯尾豐前守顯茲方へ行くとて引間を通るに、日吉橋上に休みし體を見て、何國の者ぞと問ふ。尾張の者なるが、東國の方へ身上挵ぎに出たりと答ふ。之綱聞て打笑ひ、あの男振にて誰が抱ゆべきと言ふ。
新字:木下弥一右衛門某の子、尾張愛智郡中村の民間より起り、竟に海内を平げ、朝鮮を征す。族た羽柴に改め、筑前守に任す。後、累遷して、従一位太政大臣関白と為り、豊臣の姓を賜はる。慶長三年八月十八日薨、年六十三、正一位豊国大明神を贈らる。 ○秀吉、幼名日吉と曰ふ。生れて頴悟稍々長じて、偶儻不羈動もすれば継父筑阿弥の意に忤ふ。母之を憂ひ、屡々教訓せしかども少しも用ひず、我儘なることのみ多かりけり。依て八歳の時、郷中の光明寺に托し、何卒手習学問にても致させ、後々は出家させんと頼み遣はすと雖も、中々手習学文抔はせず、朝幕竹木を以て鎗剣術の真似を為せり。然れども、人の武事を談ずるを聞くに至ては、毎に耳を傾けて之を聴けり。常に坊主は皆是乞食なり、我何ぞ乞食と成らんと言て、思ひの儘に悪口し、游嬉意に任す。動もすれば、人と諍ひ、即ち之を殴撃す。後には寺僧も持ち扱兼ね、父の許に返さんと言へば、日吉又継父の己を怒らんことを恐れ、大言して曰く、我を出さば、我今寺に火を掛け焼払ひ、坊主共をば一切殺さんと怒りける程に、寺僧弥以て怖を為し、他事に托して、辞謝し、扇子帷子様の物種々与へ、慰諭して、漸く寺を出し、父の許にぞ返しける。日吉家に帰り、或は田を耕し、草を耘り、或は泥鰌を撈擒して、以て其口を餬す。去れども父素より貧しかりければ、復た遣りて人の奴僕と為す、至る所皆数月にして去り、始終春秋を一所にて暮せしことなし。家に帰れば継父に忤ふ。母も殆んどあきれ果、種々悪しき事ども言聞かせ、涙を流して異見せしかば、日吉熟々と聞居けるが、我等東国に下り身上挵ぐべし、近き内に家を出んと言ふ。母も日吉が父と中悪ければ、とても同居は成るべからずと思ひて、鳥目一貫文取出し、日吉に与ふ。日吉之を持ちて天文二十年中村の郷を立出る時年十六、日吉既に中村を出て、清洲に至り、針を買て夫を売り路費と為して東国に赴き、遠洲引間の橋上に休み居たりし時、今川義元の麾下松下嘉兵衛之綱、飯尾豊前守顕茲方へ行くとて引間を通るに、日吉橋上に休みし体を見て、何国の者ぞと問ふ。尾張の者なるが、東国の方へ身上挵ぎに出たりと答ふ。之綱聞て打笑ひ、あの男振にて誰が抱ゆべきと言ふ。
書き下し
木下彌一右衞門某の子、尾張愛智郡中村の民間より起り、竟に海内を平げ、朝鮮を征す。族た羽柴に改め、筑前守に任す。後、累遷して、從一位太政大臣關白と爲り、豐臣の姓を賜はる。慶長三年八月十八日薨、年六十三、正一位豐國大明神を贈らる。 ○秀吉、幼名日吉と曰ふ。生れて頴悟稍々長じて、偶儻不羈動もすれば繼父筑阿彌の意に忤ふ。母之を憂ひ、屢々敎訓せしかども少しも用ひず、我儘なることのみ多かりけり。依て八歳の時、鄕中の光明寺に托し、何卒手習學問にても致させ、後々は出家させんと賴み遣はすと雖も、中々手習學文抔はせず、朝幕竹木を以て鎗劍術の眞似を爲せり。然れども、人の武事を談ずるを聞くに至ては、毎に耳を傾けて之を聽けり。常に坊主は皆是乞食なり、我何ぞ乞食と成らんと言て、思ひの儘に惡口し、游嬉意に任す。動もすれば、人と諍ひ、即ち之を毆擊す。後には寺僧も持ち扱兼ね、父の許に返さんと言へば、日吉又繼父の己を怒らんことを恐れ、大言して曰く、我を出さば、我今寺に火を掛け燒拂ひ、坊主共をば一切殺さんと怒りける程に、寺僧彌以て怖を爲し、他事に托して、辭謝し、扇子帷子樣の物種々與へ、慰諭して、漸く寺を出し、父の許にぞ返しける。日吉家に歸り、或は田を耕し、草を耘り、或は泥鰌を撈擒して、以て其口を餬す。去れども父素より貧しかりければ、復た遣りて人の奴僕と爲す、至る所皆數月にして去り、始終春秋を一所にて暮せしことなし。家に歸れば繼父に忤ふ。母も殆んどあきれ果、種々惡しき事ども言聞かせ、涙を流して異見せしかば、日吉熟々と聞居けるが、我等東國に下り身上挵ぐべし、近き内に家を出んと言ふ。母も日吉が父と中惡ければ、とても同居は成るべからずと思ひて、鳥目一貫文取出し、日吉に與ふ。日吉之を持ちて天文二十年中村の鄕を立出る時年十六、日吉既に中村を出て、清洲に至り、針を買て夫を賣り路費と爲して東國に赴き、遠洲引間の橋上に休み居たりし時、今川義元の麾下松下嘉兵衞之綱、飯尾豐前守顯茲方へ行くとて引間を通るに、日吉橋上に休みし體を見て、何國の者ぞと問ふ。尾張の者なるが、東國の方へ身上挵ぎに出たりと答ふ。之綱聞て打笑ひ、あの男振にて誰が抱ゆべきと言ふ。
現代語訳
木下弥一右衛門某の子で、尾張愛智郡中村の民間から起こり、ついに天下を平定し、朝鮮を征した。氏もまた羽柴に改め、筑前守に任ぜられた。のち、しだいに昇進して従一位太政大臣関白となり、豊臣の姓を賜った。慶長三年八月十八日に亡くなり、年は六十三、正一位豊国大明神を贈られた。 秀吉は、幼名を日吉といった。生まれつき聡明で、やや成長すると、気ままで型にはまらず、ともすれば継父の筑阿弥の意に逆らった。母はこれを憂い、しばしば教え諭したが少しも聞き入れず、わがままなことばかり多かった。そこで八歳のとき、郷中の光明寺に預け、何とか手習い学問でもさせ、のちには出家させようと頼んだけれども、まったく手習いや学問などはせず、朝夕竹や木で槍や剣術のまねをした。ただし、人が武事を語るのを聞くときは、いつも耳を傾けて聴いた。常に、坊主はみな乞食だ、私がどうして乞食になるものか、と言って、思うままに悪口を言い、遊び戯れて気ままに過ごした。ともすれば人と争い、すぐにこれを殴った。のちには寺の僧も持て余し、父のもとに返そうと言うと、日吉はまた継父が自分に怒るのを恐れ、大言して、私を出すなら、私は今、寺に火をかけて焼き払い、坊主どもを一人残らず殺してやる、と怒ったので、寺の僧はいよいよ恐れ、他の用事にかこつけて辞退し、扇子や帷子のような物をいろいろ与え、なだめすかして、ようやく寺を出し、父のもとに返した。日吉は家に帰り、あるいは田を耕し草をとり、あるいはどじょうを捕らえて、それで口を糊した。けれども父はもとより貧しかったので、再び遣わして人の下男とした。行く先々みな数か月で去り、始終、一年を同じ所で暮らしたことがない。家に帰れば継父に逆らう。母もほとんどあきれ果て、いろいろ悪いことを言い聞かせ、涙を流して意見したので、日吉はじっくり聞いていたが、私は東国に下って身上を稼ごう、近いうちに家を出る、と言う。母も日吉が父と仲が悪いので、とても同居はできまいと思い、鳥目一貫文を取り出して日吉に与えた。日吉はこれを持って、天文二十年に中村の郷を立ち出た、そのとき年は十六。日吉は既に中村を出て、清洲に至り、針を買ってそれを売り、路銀とし、東国へ赴き、遠州引間の橋の上で休んでいたとき、今川義元の配下の松下嘉兵衛之綱が、飯尾豊前守顕茲のところへ行くといって引間を通り、日吉が橋の上で休んでいる様子を見て、どこの国の者かと問うた。尾張の者だが、東国の方へ身上を稼ぎに出たのだと答えた。之綱は聞いて笑い、あの男ぶりで、だれが召し抱えるものか、と言った。
解説

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