名将言行録 / 『名将言行録』明智光秀 略歴と福神の話
安藝守光綱の子、十兵衞尉と稱す。後日向守に任じ、惟任氏を賜はり、丹波并に近江志賀郡に封ぜられ、坂本城に住す。天正十年六月十四日死、年五十七。 ○弘治二年四月、齋藤義龍、父秀龍を弑す。此時光秀美濃を去て、漂泊せり。或時越前の東江川を渡りし時、大黑を拾ふ。是は福神なりとて、大に喜び、家に歸り、棚の上に置て、朝夕之を敬拜せり。或人聞て偖も目出度福神を迎られしもの哉此福神は則ち千人の司なり、能々信心せられよと言ふ。光秀聞て大に驚き、偖は此大黑殿は千人の司なるや、假令福神なりとも、尋常の凡夫にも千人の司する人多し、侍の出世を願て頼むべき神にあらず、と言て取棄てたり。 ○光秀浪遊し、三河牛窪、牧野右近大夫の所に在りし時、知行は百石計りなり。光秀傍輩の中野某に語りけるは、士の行末は互に知れぬものなり、若し我等一城の主となりたらば、貴殿は頼母敷人なれば我等方へ迎へて、城代と爲すべし、貴殿立身せば、我等又被官とならん、と約束したり。光秀後に丹波を賜はりし時、中野を迎て龜山の城代と爲したりとぞ。
新字:安芸守光綱の子、十兵衛尉と称す。後日向守に任じ、惟任氏を賜はり、丹波并に近江志賀郡に封ぜられ、坂本城に住す。天正十年六月十四日死、年五十七。 ○弘治二年四月、斎藤義竜、父秀竜を弑す。此時光秀美濃を去て、漂泊せり。或時越前の東江川を渡りし時、大黒を拾ふ。是は福神なりとて、大に喜び、家に帰り、棚の上に置て、朝夕之を敬拝せり。或人聞て偖も目出度福神を迎られしもの哉此福神は則ち千人の司なり、能々信心せられよと言ふ。光秀聞て大に驚き、偖は此大黒殿は千人の司なるや、仮令福神なりとも、尋常の凡夫にも千人の司する人多し、侍の出世を願て頼むべき神にあらず、と言て取棄てたり。 ○光秀浪遊し、三河牛窪、牧野右近大夫の所に在りし時、知行は百石計りなり。光秀傍輩の中野某に語りけるは、士の行末は互に知れぬものなり、若し我等一城の主となりたらば、貴殿は頼母敷人なれば我等方へ迎へて、城代と為すべし、貴殿立身せば、我等又被官とならん、と約束したり。光秀後に丹波を賜はりし時、中野を迎て亀山の城代と為したりとぞ。
書き下し
安藝守光綱の子、十兵衞尉と稱す。後日向守に任じ、惟任氏を賜はり、丹波并に近江志賀郡に封ぜられ、坂本城に住す。天正十年六月十四日死、年五十七。 ○弘治二年四月、齋藤義龍、父秀龍を弑す。此時光秀美濃を去て、漂泊せり。或時越前の東江川を渡りし時、大黑を拾ふ。是は福神なりとて、大に喜び、家に歸り、棚の上に置て、朝夕之を敬拜せり。或人聞て偖も目出度福神を迎られしもの哉此福神は則ち千人の司なり、能々信心せられよと言ふ。光秀聞て大に驚き、偖は此大黑殿は千人の司なるや、假令福神なりとも、尋常の凡夫にも千人の司する人多し、侍の出世を願て頼むべき神にあらず、と言て取棄てたり。 ○光秀浪遊し、三河牛窪、牧野右近大夫の所に在りし時、知行は百石計りなり。光秀傍輩の中野某に語りけるは、士の行末は互に知れぬものなり、若し我等一城の主となりたらば、貴殿は頼母敷人なれば我等方へ迎へて、城代と爲すべし、貴殿立身せば、我等又被官とならん、と約束したり。光秀後に丹波を賜はりし時、中野を迎て龜山の城代と爲したりとぞ。
現代語訳
安藝守光綱の子で、十兵衞尉と称しました。後に日向守に任じられ、惟任の姓を賜り、丹波と近江の志賀郡に封じられ、坂本城に住みました。天正十年六月十四日に死去し、年は五十七です。 弘治二年四月、斎藤義龍が父の秀龍を殺しました。このとき光秀は美濃を去って漂泊しました。ある時、越前の東江川を渡ったときに、大黒を拾いました。これは福の神だと言って大いに喜び、家に帰り、棚の上に置いて朝夕に拝みました。ある人が聞いて、それはおめでたい福の神を迎えたものです、この神は千人の司です、よくよく信心なさいと言いました。光秀は聞いて大いに驚き、さてはこの大黒殿は千人の司なのか、たとえ福の神であろうと、普通の凡夫にも千人を司る人は多い、侍が出世を願って頼むべき神ではない、と言って取り捨てました。 光秀が浪遊して、三河の牛窪、牧野右近大夫の所にいたとき、知行は百石ばかりでした。光秀は同輩の中野某に語って言いました。武士の行く末は互いにわからないものだ、もし私が一城の主となったなら、貴殿は頼もしい人なので私のもとへ迎えて城代にしよう、貴殿が出世したなら、私はまた家来になろうと約束しました。光秀は後に丹波を賜ったとき、中野を迎えて亀山の城代にしたということです。
解説

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