名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 評・青年期の謎
秀吉の傳記には、小瀬甫庵の「大閤記」「川角大閤記」竹中重門の「豐鑑」、通俗書の「眞書大閤記」などがある。最近には、小說家の森田草平氏の「豐臣秀吉」がある。これは、素人の研究であるだけに、種も仕掛も、さらけ出してあつて却つて面白い。 しかし、秀吉があまりに偉い人であるだけに、その靑年時代などの經歷などは、殆んど不明だと云つた方がよいやうである。信長に仕へた年月なども、諸書に依つて、非常な相違がある。 思ふに、秀吉の少靑年時代と云ふものは、彼にとつて暗憺たる慘苦の時代ではなかつたかと思はれる。少しでも、出世物語的な部分があつたとしたならば、快活な秀吉が懷古談をやらないわけはないのである。 秀吉が少年時代を語つてゐるのは、天正十八年に小田原陣から、凱旋するとき、故鄕の中村に立ち寄つて、(昔仁王と云ふ小童がゐて、俺をいぢめたことなどがあつたが、あいつは何うしたか)と、云つてゐる丈である、諸大閤記にある、いろ〱な挿話なども、傳記者の創作によるものが多いのではあるまいか。また弘法大師へ、あらゆる奇蹟譚が集まつたやうに、いろ〱な逸話が秀吉に集つたのであらう。 恐らく、秀吉が頭角を表はすまで、一石一石を困苦を以て積み重ねて云つた彫心鏤骨の努力生活で、秀吉自身回想したくないほど、苦しかつたに違ひないと思ふ。 然し、信長の認識を得るためには、淸洲城の割普請とか黒股の據守と云つたやうな手柄があつたことは、確かであらう。
新字:秀吉の伝記には、小瀬甫庵の「大閤記」「川角大閤記」竹中重門の「豊鑑」、通俗書の「真書大閤記」などがある。最近には、小説家の森田草平氏の「豊臣秀吉」がある。これは、素人の研究であるだけに、種も仕掛も、さらけ出してあつて却つて面白い。 しかし、秀吉があまりに偉い人であるだけに、その青年時代などの経歴などは、殆んど不明だと云つた方がよいやうである。信長に仕へた年月なども、諸書に依つて、非常な相違がある。 思ふに、秀吉の少青年時代と云ふものは、彼にとつて暗憺たる惨苦の時代ではなかつたかと思はれる。少しでも、出世物語的な部分があつたとしたならば、快活な秀吉が懐古談をやらないわけはないのである。 秀吉が少年時代を語つてゐるのは、天正十八年に小田原陣から、凱旋するとき、故郷の中村に立ち寄つて、(昔仁王と云ふ小童がゐて、俺をいぢめたことなどがあつたが、あいつは何うしたか)と、云つてゐる丈である、諸大閤記にある、いろ〱な挿話なども、伝記者の創作によるものが多いのではあるまいか。また弘法大師へ、あらゆる奇跡譚が集まつたやうに、いろ〱な逸話が秀吉に集つたのであらう。 恐らく、秀吉が頭角を表はすまで、一石一石を困苦を以て積み重ねて云つた彫心鏤骨の努力生活で、秀吉自身回想したくないほど、苦しかつたに違ひないと思ふ。 然し、信長の認識を得るためには、清洲城の割普請とか黒股の拠守と云つたやうな手柄があつたことは、確かであらう。
書き下し
秀吉の傳記には、小瀬甫庵の「大閤記」「川角大閤記」竹中重門の「豐鑑」、通俗書の「眞書大閤記」などがある。最近には、小說家の森田草平氏の「豐臣秀吉」がある。これは、素人の研究であるだけに、種も仕掛も、さらけ出してあつて却つて面白い。 しかし、秀吉があまりに偉い人であるだけに、その靑年時代などの經歷などは、殆んど不明だと云つた方がよいやうである。信長に仕へた年月なども、諸書に依つて、非常な相違がある。 思ふに、秀吉の少靑年時代と云ふものは、彼にとつて暗憺たる慘苦の時代ではなかつたかと思はれる。少しでも、出世物語的な部分があつたとしたならば、快活な秀吉が懷古談をやらないわけはないのである。 秀吉が少年時代を語つてゐるのは、天正十八年に小田原陣から、凱旋するとき、故鄕の中村に立ち寄つて、(昔仁王と云ふ小童がゐて、俺をいぢめたことなどがあつたが、あいつは何うしたか)と、云つてゐる丈である、諸大閤記にある、いろ〱な挿話なども、傳記者の創作によるものが多いのではあるまいか。また弘法大師へ、あらゆる奇蹟譚が集まつたやうに、いろ〱な逸話が秀吉に集つたのであらう。 恐らく、秀吉が頭角を表はすまで、一石一石を困苦を以て積み重ねて云つた彫心鏤骨の努力生活で、秀吉自身回想したくないほど、苦しかつたに違ひないと思ふ。 然し、信長の認識を得るためには、淸洲城の割普請とか黒股の據守と云つたやうな手柄があつたことは、確かであらう。
現代語訳
秀吉の伝記には、小瀬甫庵の大閤記、川角大閤記、竹中重門の豊鑑、通俗書の真書大閤記などがあります。最近には、小説家の森田草平氏の豊臣秀吉があります。これは素人の研究であるだけに、種も仕掛けもさらけ出してあって、かえって面白いです。 しかし、秀吉があまりに偉い人であるだけに、その青年時代などの経歴は、ほとんど不明だと言った方がよいようです。信長に仕えた年月なども、諸書によって、非常な相違があります。 思うに、秀吉の少青年時代というものは、彼にとって暗澹たる惨苦の時代ではなかったかと思われます。少しでも出世物語的な部分があったとしたならば、快活な秀吉が懐古談をやらないはずはないのです。 秀吉が少年時代を語っているのは、天正十八年に小田原の陣から凱旋するとき、故郷の中村に立ち寄って、昔、仁王という小童がいて、俺をいじめたことなどがあったが、あいつはどうしたか、と言っているだけです。諸大閤記にある、いろいろな挿話なども、伝記者の創作によるものが多いのではないでしょうか。また、弘法大師へあらゆる奇蹟譚が集まったように、いろいろな逸話が秀吉に集まったのでしょう。 恐らく、秀吉が頭角を現すまで、一石一石を困苦をもって積み重ねていった、彫心鏤骨の努力生活で、秀吉自身が回想したくないほど、苦しかったに違いないと思います。 しかし、信長の認識を得るためには、清洲城の割普請とか、墨俣の拠守といった手柄があったことは、確かでしょう。
解説

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名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 幼少の乱暴と家出木下彌一右衞門某の子、尾張愛智郡中村の民間より起り、竟に海内を平げ、朝鮮を征す。族た羽柴に改め、筑前守に任す。後、累遷して、從一位太政大臣關白と爲り、豐臣の姓を賜はる。慶長三年八月十八日薨、年六十三、正一位豐國大明神を贈らる。 ○秀吉、幼名日吉と曰ふ。生れて頴悟稍々長じて、偶儻不羈動もすれば繼父筑阿彌の意に忤ふ。母之を憂ひ、屢々敎訓せしかども少しも用ひず、我儘なることのみ多かりけり。依て八歳の時、鄕中の光明寺に托し、何卒手習學問にても致させ、後々は出家させんと賴み遣はすと雖も、中々手習學文抔はせず、朝幕竹木を以て鎗劍術の眞似を爲せり。然れども、人の武事を談ずるを聞くに至ては、毎に耳を傾けて之を聽けり。常に坊主は皆是乞食なり、我何ぞ乞食と成らんと言て、思ひの儘に惡口し、游嬉意に任す。動もすれば、人と諍ひ、即ち之を毆擊す。後には寺僧も持ち扱兼ね、父の許に返さんと言へば、日吉又繼父の己を怒らんことを恐れ、大言して曰く、我を出さば、我今寺に火を掛け燒拂ひ、坊主共をば一切殺さんと怒りける程に、寺僧彌以て怖を爲し、他事に托して、辭謝し、扇子帷子樣の物種々與へ、慰諭して、漸く寺を出し、父の許にぞ返しける。日吉家に歸り、或は田を耕し、草を耘り、或は泥鰌を撈擒して、以て其口を餬す。去れども父素より貧しかりければ、復た遣りて人の奴僕と爲す、至る所皆數月にして去り、始終春秋を一所にて暮せしことなし。家に歸れば繼父に忤ふ。母も殆んどあきれ果、種々惡しき事ども言聞かせ、涙を流して異見せしかば、日吉熟々と聞居けるが、我等東國に下り身上挵ぐべし、近き内に家を出んと言ふ。母も日吉が父と中惡ければ、とても同居は成るべからずと思ひて、鳥目一貫文取出し、日吉に與ふ。日吉之を持ちて天文二十年中村の鄕を立出る時年十六、日吉既に中村を出て、清洲に至り、針を買て夫を賣り路費と爲して東國に赴き、遠洲引間の橋上に休み居たりし時、今川義元の麾下松下嘉兵衞之綱、飯尾豐前守顯茲方へ行くとて引間を通るに、日吉橋上に休みし體を見て、何國の者ぞと問ふ。尾張の者なるが、東國の方へ身上挵ぎに出たりと答ふ。之綱聞て打笑ひ、あの男振にて誰が抱ゆべきと言ふ。
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