名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 橋上の主従問答
日吉聞て、偕々御前には大將の器、おはさぬ人なり、自分の氣に入らねばとて他の氣にも入る間敷や、御了備なき詞哉と言て、却て之を笑ふ。之綱聞て、尤もの申分面白き奴なり、自分が家來に抱へんと言ふ。日吉返答せず、暫く物を考ふる體なり。之綱何にを考ふると問へば、御身の分限を考へ居ると言ふ。何程と思ふぞと尋ぬるに、大方八千石より一萬石の間ならんと言ふ。何にとて察せしと言へば、尾張にて一萬石取る人には劣り、五千石取る人は丁ど御前程の樣子なり、此邊は所の惡しければ、一萬石計りと申しなりと言ふ。之綱感じ召抱へんには何ぞ障りなきやと問ふに、某さへ同心すれば、何方へも斷るに及ばずと答ふ。故に橋上にて主從の約を爲し、直ぐに顯茲方に行て、斯くと語りければ、顯茲一見せんとて奧へ伴ひ、女房共へ見せて、何ぞ謡へと望みければ、田植歌を謡ふ、又承塵へ飛び上り、柱を傳はり抔して身の輕きこと猿の如し。家内大に興じて小袖抔賜はり殊の外氣に入り、何卒貰ひ度とのこと故、之綱に所望しければ、之綱、日吉を呼んで、汝は仕合はせなる者なり、爰の娘子お久殿、其方を貰はるゝ間、遣はすべしと言ふ。日吉聞て肯はずして、某には御暇を賜はるべしと言ふ。之綱、今貰はるゝは能きこととなりしかば、日吉から〱と打笑ひ、貰はんと言ふ人も、遣らんと言ふ人も人なり、凡そ主人たる者、一年使ひ見て、役に立ぬ時は暇を遣はし、家來としては三年勤めて惡しゝと知らば、暇を取ること法なり。然るに、今日抱て今日人に貰はるゝとて、他に往けと言ふこと、主君たる法にあらずと言ふ。之綱、此理に伏して、顯茲に申斷はりて、己が家に連歸る。其後、矢藏番に申付るに、日吉此役を大切にし、狗を一疋飼つて專ら用心す。今までは此藏の物を時々盜まれしが、日吉番人と成てより、諸事取締能く、中々盜むことならず。斯りしかば、段々取立られ、納戸の出入を司る樣に成りたり。
新字:日吉聞て、偕々御前には大将の器、おはさぬ人なり、自分の気に入らねばとて他の気にも入る間敷や、御了備なき詞哉と言て、却て之を笑ふ。之綱聞て、尤もの申分面白き奴なり、自分が家来に抱へんと言ふ。日吉返答せず、暫く物を考ふる体なり。之綱何にを考ふると問へば、御身の分限を考へ居ると言ふ。何程と思ふぞと尋ぬるに、大方八千石より一万石の間ならんと言ふ。何にとて察せしと言へば、尾張にて一万石取る人には劣り、五千石取る人は丁ど御前程の様子なり、此辺は所の悪しければ、一万石計りと申しなりと言ふ。之綱感じ召抱へんには何ぞ障りなきやと問ふに、某さへ同心すれば、何方へも断るに及ばずと答ふ。故に橋上にて主従の約を為し、直ぐに顕茲方に行て、斯くと語りければ、顕茲一見せんとて奥へ伴ひ、女房共へ見せて、何ぞ謡へと望みければ、田植歌を謡ふ、又承塵へ飛び上り、柱を伝はり抔して身の軽きこと猿の如し。家内大に興じて小袖抔賜はり殊の外気に入り、何卒貰ひ度とのこと故、之綱に所望しければ、之綱、日吉を呼んで、汝は仕合はせなる者なり、爰の娘子お久殿、其方を貰はるゝ間、遣はすべしと言ふ。日吉聞て肯はずして、某には御暇を賜はるべしと言ふ。之綱、今貰はるゝは能きこととなりしかば、日吉から〱と打笑ひ、貰はんと言ふ人も、遣らんと言ふ人も人なり、凡そ主人たる者、一年使ひ見て、役に立ぬ時は暇を遣はし、家来としては三年勤めて悪しゝと知らば、暇を取ること法なり。然るに、今日抱て今日人に貰はるゝとて、他に往けと言ふこと、主君たる法にあらずと言ふ。之綱、此理に伏して、顕茲に申断はりて、己が家に連帰る。其後、矢蔵番に申付るに、日吉此役を大切にし、狗を一疋飼つて専ら用心す。今までは此蔵の物を時々盗まれしが、日吉番人と成てより、諸事取締能く、中々盗むことならず。斯りしかば、段々取立られ、納戸の出入を司る様に成りたり。
書き下し
日吉聞て、偕々御前には大將の器、おはさぬ人なり、自分の氣に入らねばとて他の氣にも入る間敷や、御了備なき詞哉と言て、却て之を笑ふ。之綱聞て、尤もの申分面白き奴なり、自分が家來に抱へんと言ふ。日吉返答せず、暫く物を考ふる體なり。之綱何にを考ふると問へば、御身の分限を考へ居ると言ふ。何程と思ふぞと尋ぬるに、大方八千石より一萬石の間ならんと言ふ。何にとて察せしと言へば、尾張にて一萬石取る人には劣り、五千石取る人は丁ど御前程の樣子なり、此邊は所の惡しければ、一萬石計りと申しなりと言ふ。之綱感じ召抱へんには何ぞ障りなきやと問ふに、某さへ同心すれば、何方へも斷るに及ばずと答ふ。故に橋上にて主從の約を爲し、直ぐに顯茲方に行て、斯くと語りければ、顯茲一見せんとて奧へ伴ひ、女房共へ見せて、何ぞ謡へと望みければ、田植歌を謡ふ、又承塵へ飛び上り、柱を傳はり抔して身の輕きこと猿の如し。家内大に興じて小袖抔賜はり殊の外氣に入り、何卒貰ひ度とのこと故、之綱に所望しければ、之綱、日吉を呼んで、汝は仕合はせなる者なり、爰の娘子お久殿、其方を貰はるゝ間、遣はすべしと言ふ。日吉聞て肯はずして、某には御暇を賜はるべしと言ふ。之綱、今貰はるゝは能きこととなりしかば、日吉から〱と打笑ひ、貰はんと言ふ人も、遣らんと言ふ人も人なり、凡そ主人たる者、一年使ひ見て、役に立ぬ時は暇を遣はし、家來としては三年勤めて惡しゝと知らば、暇を取ること法なり。然るに、今日抱て今日人に貰はるゝとて、他に往けと言ふこと、主君たる法にあらずと言ふ。之綱、此理に伏して、顯茲に申斷はりて、己が家に連歸る。其後、矢藏番に申付るに、日吉此役を大切にし、狗を一疋飼つて專ら用心す。今までは此藏の物を時々盜まれしが、日吉番人と成てより、諸事取締能く、中々盜むことならず。斯りしかば、段々取立られ、納戸の出入を司る樣に成りたり。
現代語訳
日吉は聞いて、あなたは大将の器をお持ちでない方ですな、自分の気に入らないからといって、他人の気にも入らないことがあるでしょうか、思慮のないお言葉だ、と言って、かえってこれを笑った。之綱は聞いて、もっともな申し分、面白い奴だ、自分の家来に抱えよう、と言った。日吉は返答せず、しばらく物を考える様子であった。之綱が、何を考えるのかと問うと、あなたの身代を考えているのだと言う。いくらと思うか、と尋ねると、大方八千石から一万石の間でしょうと言う。どうして察したのかと言えば、尾張で一万石取る人には劣り、五千石取る人はちょうどあなたほどの様子です、この辺りは土地が悪いので、一万石ばかりと申したのです、と言う。之綱は感心し、召し抱えるのに何か障りはないかと問うと、私さえ同意すれば、どこへも断る必要はない、と答えた。そこで橋の上で主従の約束をし、すぐに顕茲のところへ行って、かくかくと語ると、顕茲は一目見ようと奥へ伴い、女房たちに見せて、何か謡え、と望むと、田植歌を謡った。また天井へ飛び上がり、柱を伝うなどして、身の軽いことは猿のようである。家中は大いに喜び、小袖などを賜り、ことのほか気に入り、何とか貰いたいとのことで、之綱に所望すると、之綱は日吉を呼んで、お前は仕合せ者だ、ここの娘子お久殿が、そなたを貰うというので、遣わすことにする、と言う。日吉は聞いて承知せず、私にはお暇を賜りたい、と言う。之綱が、今貰われるのはよいことなのだぞ、と言うと、日吉はからからと笑い、貰おうと言う人も、遣ろうと言う人も、同じ人ではないか、およそ主人たる者は、一年使ってみて、役に立たないときは暇を出し、家来としては三年勤めて悪いとわかれば、暇を取るのが法である。それなのに、今日抱えて今日人に貰われ、他へ行けと言うのは、主君たる法ではない、と言う。之綱はこの理に服し、顕茲に断りを言って、自分の家に連れ帰った。その後、矢蔵番を申し付けると、日吉はこの役を大切にし、犬を一匹飼って専ら用心した。今まではこの蔵の物を時々盗まれたが、日吉が番人となってから、何事も取り締まりがよく、なかなか盗むことはできない。こうして、しだいに取り立てられ、納戸の出入を司るようになった。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 無実の罪と奉公の別れ然る所家中の嫉みありて、無實の罪を申掛け、一同して貰はんと言ふ。之綱聞て惜き者ながら大勢には替へ難しとて暇を申渡す。日吉聞き、私事何の罪ありしにや願人と對決仰付られ下され候へと言ふ。之綱曰く、汝に怪き事あらば對決申付くべし、汝は正直なれども、家中一同して無實を申掛ることとなれば、汝此所に在りては、相手は多し、害に逢ふこと必定なり、是を思ふに依て暇を出だすと言ふ。日吉曰く、一度盜人の惡名を受け、言開かざれば一生の恥、雪ぎ難し、是非對決なくば、御家を出づまじと言ふ。之綱怒て主人に向て推參なりと言ければ、日吉飛び退き、淚を流し、口惜きこと哉、假令幾人ありとも、人に無實を言掛る樣なる淺間敷者何の御用に立申べきや、一人たりとも忠臣こそ、誠の臣ならめ、斯る愚將と知らず、粉骨を盡くし、奉公せしこと殘念なりと囁き、即ち之綱より賜はりたる脇差と鳥目五百錢を返進して、之綱が許を立去り、又中村に歸れり。
-
名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 清洲の石垣を二日で築く○信長、一日犬山城の近邊を燒働として未明に打出けるに、馬に乘り勇める者あり、誰ぞと問へば、木下藤吉郎とぞ名乘りける。其後放鷹の爲め、曉方に出て誰かあるぞと尋ぬるに、藤吉郎是にて候とぞ答へける。信長感じて寢々之を親近せり。 ○二年、信長居る所の清洲城の石垣、百間餘崩れければ、普請のことありけり。奉行等精を出しけれども、二十日餘り果敢行かず。秀吉、信長に從ひ、城下を過ぎ、之を見て獨言しけるは、當時戰國にて四方敵地なり、何つの日、何れの所より攻來るべきも知らざるに、御普請筒樣に延引致すこと、勿體なしと言けるを、信長聞て、猿めは何を言ふぞと問へば、秀吉左右を憚り申兼ねけるを、強て問はれければ、爾々の由を申す。信長聞て去らば汝に此奉行を申付るぞ、急ぎ拵へよと言て、老臣衆に引合されぬ。秀吉則ち役徒を集め、君命を以て、之に酒食を與へ、役徒を分けて十隊と爲し、一隊に十間づつを割付け、身自ら所々を巡り、獎勵督促しける程に、百間計りの石垣、僅兩日にして出來たり。信長其日鷹野より歸りに見て、大に驚き感じ、秀吉に俸を賜はり、上せて吏と爲せり。
-
名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 幼少の乱暴と家出木下彌一右衞門某の子、尾張愛智郡中村の民間より起り、竟に海内を平げ、朝鮮を征す。族た羽柴に改め、筑前守に任す。後、累遷して、從一位太政大臣關白と爲り、豐臣の姓を賜はる。慶長三年八月十八日薨、年六十三、正一位豐國大明神を贈らる。 ○秀吉、幼名日吉と曰ふ。生れて頴悟稍々長じて、偶儻不羈動もすれば繼父筑阿彌の意に忤ふ。母之を憂ひ、屢々敎訓せしかども少しも用ひず、我儘なることのみ多かりけり。依て八歳の時、鄕中の光明寺に托し、何卒手習學問にても致させ、後々は出家させんと賴み遣はすと雖も、中々手習學文抔はせず、朝幕竹木を以て鎗劍術の眞似を爲せり。然れども、人の武事を談ずるを聞くに至ては、毎に耳を傾けて之を聽けり。常に坊主は皆是乞食なり、我何ぞ乞食と成らんと言て、思ひの儘に惡口し、游嬉意に任す。動もすれば、人と諍ひ、即ち之を毆擊す。後には寺僧も持ち扱兼ね、父の許に返さんと言へば、日吉又繼父の己を怒らんことを恐れ、大言して曰く、我を出さば、我今寺に火を掛け燒拂ひ、坊主共をば一切殺さんと怒りける程に、寺僧彌以て怖を爲し、他事に托して、辭謝し、扇子帷子樣の物種々與へ、慰諭して、漸く寺を出し、父の許にぞ返しける。日吉家に歸り、或は田を耕し、草を耘り、或は泥鰌を撈擒して、以て其口を餬す。去れども父素より貧しかりければ、復た遣りて人の奴僕と爲す、至る所皆數月にして去り、始終春秋を一所にて暮せしことなし。家に歸れば繼父に忤ふ。母も殆んどあきれ果、種々惡しき事ども言聞かせ、涙を流して異見せしかば、日吉熟々と聞居けるが、我等東國に下り身上挵ぐべし、近き内に家を出んと言ふ。母も日吉が父と中惡ければ、とても同居は成るべからずと思ひて、鳥目一貫文取出し、日吉に與ふ。日吉之を持ちて天文二十年中村の鄕を立出る時年十六、日吉既に中村を出て、清洲に至り、針を買て夫を賣り路費と爲して東國に赴き、遠洲引間の橋上に休み居たりし時、今川義元の麾下松下嘉兵衞之綱、飯尾豐前守顯茲方へ行くとて引間を通るに、日吉橋上に休みし體を見て、何國の者ぞと問ふ。尾張の者なるが、東國の方へ身上挵ぎに出たりと答ふ。之綱聞て打笑ひ、あの男振にて誰が抱ゆべきと言ふ。
-
名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 叱られても退かぬ粘り○三年、秀吉、上言して曰く、清洲城水に乏し、小牧山に移り給ふこそ然るべからめと。信長も内々然るべしとは思ひ居たれども、勞費を憚て定かには言はれざる所に、差出たることゝ言ひ、且つ諸人の水に乏きを知るを惡み、大に叱て、猿め何をか知らん、妄言を吐き、下として上を制する其罪死に當れりと言はれけり。凡そ秀吉、事を申せば則ち叱斥せらる。人皆あれ程面皮の厚かりしは見も聞きもせぬ抔と聞くや、聞かぬ計りに、日引鼻引笑ひけり。去れども、秀吉は露も意となさず、深く信長に結ばんとせり。 ○秀吉は、堪忍強し。微賤の時、同伴の者に溝へ突落されて泥塗れに成たりけれど、大望ある故に、曾て刃傷鬪爭のことなかりしとなり。 ○六年、信長河獵して兵を閲し、戲れに、秀吉を以て將と爲す。秀吉之を部勒指麾すること兵法に老いたるものゝ如し。 ○信長、兵を美濃に出す時、見馴れぬ旗あり、誰ぞと問ふ。木下藤吉郎が旗なりと申ければ、夫は誰が免したるぞとて、以の外怒り、既に旗竿を切り折らせける。去れども少しも恨むる氣色なく、意色自如たり。
-
名将言行録・『名将言行録』明智光秀 略歴と福神の話安藝守光綱の子、十兵衞尉と稱す。後日向守に任じ、惟任氏を賜はり、丹波并に近江志賀郡に封ぜられ、坂本城に住す。天正十年六月十四日死、年五十七。 ○弘治二年四月、齋藤義龍、父秀龍を弑す。此時光秀美濃を去て、漂泊せり。或時越前の東江川を渡りし時、大黑を拾ふ。是は福神なりとて、大に喜び、家に歸り、棚の上に置て、朝夕之を敬拜せり。或人聞て偖も目出度福神を迎られしもの哉此福神は則ち千人の司なり、能々信心せられよと言ふ。光秀聞て大に驚き、偖は此大黑殿は千人の司なるや、假令福神なりとも、尋常の凡夫にも千人の司する人多し、侍の出世を願て頼むべき神にあらず、と言て取棄てたり。 ○光秀浪遊し、三河牛窪、牧野右近大夫の所に在りし時、知行は百石計りなり。光秀傍輩の中野某に語りけるは、士の行末は互に知れぬものなり、若し我等一城の主となりたらば、貴殿は頼母敷人なれば我等方へ迎へて、城代と爲すべし、貴殿立身せば、我等又被官とならん、と約束したり。光秀後に丹波を賜はりし時、中野を迎て龜山の城代と爲したりとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 草履を温めた忠志○永祿元年九月朔日、秀吉、信長が鷹野に出し時、自訴して、遂に信長が草履取と成る。其頃信長年若なれば、夜々忍びて局へ通はれぬ。內々の事故、草履取計りにて、其外は召連れず、秀吉も供に出し故、頭に賴みけるは、某こと諸事見習申度候間、毎夜御供に罷出申度と望むに付、尤ものことゝて毎夜秀吉を出だしければ、信長不審し、草履取頭を呼て、秀吉を毎夜出だすは、古參共のおふちやくにてのことならんと叱りければ、頭承はり、秀吉こと達て願ひ申故、毎度、出だし候と申に依て、何つも供に召連れらる。或夜雪降り、信長、局より歸る時、下駄を召しけるに、暖か成りしかば、汝腰掛しこと不屆なりと言て、杖にて打たる。秀吉腰掛け申さずと言ふ。信長猶々腹立にて僞を申もの哉、成敗すべしと言ふ所に、局方より、女房出でてぞ詫言申しける。秀吉は、兎角腰は掛け申さずと言張る故、信長暖か成りしことこそ證據なりと言はる。秀吉寒夜故、御足冷くあるべしと存じ、懷に入れ暖か成る樣に致居候と申す。其證據はと尋ぬるに肌を脱きて見す。之を見るに、鼻緒の跡脊中に屹度付たり。是にて信長にも、秀吉が忠志を感じて、則ち草履取頭に成したり。秀吉は、頭に成りても何つも供に出る、供待をするに外の頭は上へ上り居り、草履取を外に出し置く。秀吉は草履取をば家の中に置て我身は外に出居る。信長之を見て不審せしに、秀吉箇樣の時には、戰場と違ひ御心も緩み申すなり、今亂世の時なれば、萬一敵方より忍び申者有間敷ことにあらず、夫故私は出居り候と申す。信長、益々其忠志を感ぜり。