名将言行録 / 『名将言行録』立花宗茂 恩賞の誘いを断る
○加藤清正、黑田孝高、薩摩の內まで出陣の所、家康より、島津事先達て味方に參るべきの由申越たる間、兩家の人數を引入候樣にと申來りし故、各歸陣なり、此時清正、宗茂に申すは薩摩表へ出陣に付貴殿にも御娛みがてら御同道致度なり、人數を召連られ候はゞ、夫々に知行等、賜はらずしても成り難ければ、玉名郡殘らず、御支配成さる樣にとの義なり、宗茂曰く頃日まで別心なき島津に、某只今の仕合に罷成りしとて、何故合戰の用意致すべく候哉、少しにても關東の忠節振を致すべしとの義に候哉、左樣の義努々存寄り之なく候、且つ玉名郡支配の義、上より賜はりなば兎も角も、貴殿より賜はりては、肥後一國にても、受納致間敷と云はれけり。 ○宗茂、京、伏見の間に浪遊して居たりしが、朝夕の料理等も、時に寄り殊の外差支へり。或時すべき樣なく、雜水を拵へ出しければ、入らざる汁掛け飯にして、出さずとも、只出させと言はれければ、近臣覺えず、涙を流せり。此頃前田利長より加賀へ越されなば、十萬石進んずべくとのことなり。宗茂、兎角の返事もせず、惡い奴共が腰は拔けながら、色々の事を申すと言はれければ、取次ぎし者、殊の外迷惑せりとぞ。
新字:○加藤清正、黒田孝高、薩摩の内まで出陣の所、家康より、島津事先達て味方に参るべきの由申越たる間、両家の人数を引入候様にと申来りし故、各帰陣なり、此時清正、宗茂に申すは薩摩表へ出陣に付貴殿にも御娯みがてら御同道致度なり、人数を召連られ候はゞ、夫々に知行等、賜はらずしても成り難ければ、玉名郡残らず、御支配成さる様にとの義なり、宗茂曰く頃日まで別心なき島津に、某只今の仕合に罷成りしとて、何故合戦の用意致すべく候哉、少しにても関東の忠節振を致すべしとの義に候哉、左様の義努々存寄り之なく候、且つ玉名郡支配の義、上より賜はりなば兎も角も、貴殿より賜はりては、肥後一国にても、受納致間敷と云はれけり。 ○宗茂、京、伏見の間に浪遊して居たりしが、朝夕の料理等も、時に寄り殊の外差支へり。或時すべき様なく、雑水を拵へ出しければ、入らざる汁掛け飯にして、出さずとも、只出させと言はれければ、近臣覚えず、涙を流せり。此頃前田利長より加賀へ越されなば、十万石進んずべくとのことなり。宗茂、兎角の返事もせず、悪い奴共が腰は抜けながら、色々の事を申すと言はれければ、取次ぎし者、殊の外迷惑せりとぞ。
書き下し
○加藤清正、黑田孝高、薩摩の內まで出陣の所、家康より、島津事先達て味方に參るべきの由申越たる間、兩家の人數を引入候樣にと申來りし故、各歸陣なり、此時清正、宗茂に申すは薩摩表へ出陣に付貴殿にも御娛みがてら御同道致度なり、人數を召連られ候はゞ、夫々に知行等、賜はらずしても成り難ければ、玉名郡殘らず、御支配成さる樣にとの義なり、宗茂曰く頃日まで別心なき島津に、某只今の仕合に罷成りしとて、何故合戰の用意致すべく候哉、少しにても關東の忠節振を致すべしとの義に候哉、左樣の義努々存寄り之なく候、且つ玉名郡支配の義、上より賜はりなば兎も角も、貴殿より賜はりては、肥後一國にても、受納致間敷と云はれけり。 ○宗茂、京、伏見の間に浪遊して居たりしが、朝夕の料理等も、時に寄り殊の外差支へり。或時すべき樣なく、雜水を拵へ出しければ、入らざる汁掛け飯にして、出さずとも、只出させと言はれければ、近臣覺えず、涙を流せり。此頃前田利長より加賀へ越されなば、十萬石進んずべくとのことなり。宗茂、兎角の返事もせず、惡い奴共が腰は拔けながら、色々の事を申すと言はれければ、取次ぎし者、殊の外迷惑せりとぞ。
現代語訳
加藤清正と黒田孝高が薩摩の内まで出陣したところ、家康から、島津のことは先立って味方に参るという知らせがあったので、両家の人数を引き入れるようにと言ってきたため、それぞれ帰陣しました。このとき清正が宗茂に申すには、薩摩表へ出陣するにつき、貴殿も気晴らしがてらご同道いたしたい。人数を召し連れられるなら、それぞれに知行などを賜らないでは叶いがたいので、玉名郡を残らず、ご支配なさるようにとのことです、と。宗茂は言いました。先頃まで別心のなかった島津に、私が今の境遇になったからとて、どうして合戦の用意をいたしましょうか。少しでも関東への忠節ぶりを示せということでしょうか。そのようなことはまったく思いもよりません。かつ玉名郡の支配のことは、上から賜るのならともかく、貴殿から賜っては、肥後一国でも受け納めますまい、と言われました。 宗茂は、京、伏見の間に浪人暮らしをしていましたが、朝夕の料理なども、時によってことのほか差し支えました。あるとき、仕方なく、雑炊を作って出したところ、いらぬ汁掛け飯にして出さなくても、ただ出させよ、と言われたので、近臣は思わず涙を流しました。この頃、前田利長から加賀へお越しになるなら十万石を差し上げようと言ってきました。宗茂はとかくの返事もせず、悪い奴らが腰は抜けながら、いろいろなことを言う、と言われたので、取り次ぎの者はことのほか迷惑したということです。
解説

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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 島津への情と義○宗茂、柳川に歸る時、島津義弘も寡兵にて歸國せり。然るに島津は宗茂の爲めに、父の讐なりければ、宗茂家來討取るべき由囁きけるに、宗茂、折こそあらめ、今興稟して上方の味方をしながら寡兵にて歸るを見て、討取ること勇士のする所にあらずとて許さず。島津方にも用心の體見えければ、宗茂使を立て、兼ての遺憾少しも心に掛けず候、九州までの道すがら諸事心を合はすべきなりと言遣りければ、義弘大に喜び、歸國の後籠城せらるべくんは、加勢すべき由返答せり。宗茂、國に歸り楯籠りしが、終に和睦と成りて、城を明け渡せり。城を渡せし三日目に島津より新納山城に、一萬の兵付けて指出せしが、城を渡せし後なれば、空しく引歸りしとぞ。 ○宗茂、柳川に歸りければ、島津より、僧を使にし、種ケ島一島領さるべく、所々敵募り申さざる內に、薩摩に御越あるべき由申し來る。宗茂返事に、日來の御入魂御疏意なく忝く存ずるなり、併し、今度上方へ出勢の義、逆徒一味と申すにも之なく、若君より仰下されし趣に任せての事なれば、大阪、關東雙方の御成行次第、兎も角も罷成るべくと存究め罷在候、身の上をかばひ申程ならば、今度出勢致すべき所にては之なしと言はれけり。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 助命嘆願と官位の辞退○此時、宗茂、和爾江遍原と曰ふ者を攻む。會々秀吉筑紫下向に付、宗茂より使を以て城中へ申入れけるは、今度某は太閤へ目見に出候間、其中は城攻を見合せ候に付、其方よりも手前殘し置候者に、手指致さる間敷候、彌々其意を得られ候はゞ、兩人義は太閤へ申上、助命致すべし、併し當時鍋島も寄手なれば、某不在の內、鍋島攻められ落城の程心許なく候と申遣はせり。城より返事に、委細承り候御不在中殘し置かれ候者に、手指致す間敷候、太閤へ仰上られ、我等共命を御助け之あるべきとの義、其意を得候、只今まで籠城致し、一戰をも遂げず候段殘念に存候間、降參候事は存寄らず候へ共、天下へ對しての義、各別のことに候間、如何樣にも仕るべく候、其中鍋島攻め申分にては、中々落城致す間敷由、申越せり。偖宗茂、秀吉へ謁見相濟み、兩人の事を言上して、助命を乞ふ。秀吉聽かず、宗茂頻りに乞ふ。秀吉、淺野長政をして、宗茂を諭さしむ。宗茂、兩人のこと御赦免之なく候はゞ、私どもを御成敗下され度、と强て乞ふに依り、秀吉も是非なく、兩人の罪を免されけり。 ○十六年、宗茂上京す。秀吉、羽柴の族を賜はり、四位の侍從に敍任せらるべしとありければ宗茂承はり、昇殿を許さるゝこと今生の思ひ出にて候、去ながら、大友義統未だ五位にて罷在れば、彼を超申さんこと本意にあらず、仰ぎ願くば只五位に叙せられかしと望み申ければ、神妙の志なり、暫らく五位にて置かれしが、頓て四位に叙せられけり。
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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 豊臣のために東軍に付く○上方軍起りし時、清正、老臣共へ、秀賴公の御實心より出たる御事ならば、軍の利害を計るに及ばず、御味方申すこと珍しからず、然るに幼君何の思召立もなきに奉行等が淺謀に興みすべき樣なし。戰に於ては、上方敗軍必定なり。然るに、彼等に興みして、倶に亡びなば、秀賴公の御爲、何者か計り申べき、秀賴公の御爲めにも、內府へ屬し、石田以下の兇徒を擧亡し、亂を治むべしと言ければ、老臣何れも其議に服從す、之に依り其旨關東へ注進せしかば、家康大に喜び、書を賜はり、近國の賊城を攻取るべしとの事なりけり。 ○清正、柳川に向ふ。立花宗茂降り、從者四五人にて清正の陣に來る。時に陣營燒亡す、清正曰く、城中の兵士疑ひ動搖すべき間、其心を安ぜん爲め、貴殿の從者に命じ燒亡の由を申遣はされよとありければ、宗茂如何にもとありて、則ち其旨を傳ふ。城中果して動搖せしが、此由を聞て頓に止む。人皆其智に服せり。 ○清正、宗茂を優待し、高瀨に館を築き、宗茂を置き、其郎從百人計り、一所に居宅を作り柳川町と名付け、友義至らざる所なし、人其義に服せり。 ○關ヶ原の後、家康、石田が亂は雨降りて地固まると曰ふに同じ、靜謐ならんと言はれしに、諸大名、皆祝されけり。清正仰の如く、惡逆の輩誅せられ、泰平たらんこと必然に候、然れども、天下の治亂は天の陰晴に譬へなんには、晴渡りたる晴天と見るも俄に雲の出來て雨降す如きこともあるものなり、測り難きは人の心にて候と申ければ、淺からず感ぜられけり。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 清き心立ての誓い秀忠にも納得せられ、申し聞けらるゝ所一々尤もに存ずる上は、早々大坂へ罷歸るべき由仰出されたり。正信、御苦勞に候へ共、只今御意の通り、加藤、福島抔は心中の計略計り難たければ、大坂にて自然のこと御聞き及び候はゞ、早々御注進之ある樣にと申す。宗茂、只今御前にて申上げし通、太閤御子孫に弓箭申ことは憚に候へ共、道理に依てのことなり、加藤、福島も拙者同前の所存たるべし、然るに、御當家に至り、忠節振りに、彼者共が口をむしり、心を引見る樣なること、弓箭八幡も照覽あれ、毛頭致間敷、彼人々千萬に一つ野心之あるに於ては、某に申聞かせぬことはよも之有間敷、其時右の道理を以て一應申談ずべく、夫にても承引致さずば、將軍家へ斯の如く申上げたることなれば、某に於ては此所存變改致間敷由申べし、福島にても、加藤にても、相手を逃さず、卽座に差違へ申べく、某差違たりと御聞きあらば、生殘りたる加藤にても、福島にても、御隔心御尤もと申し、早々大阪へ歸りたり。此事秀忠聞かれ弓箭執る程の者が、左樣淸き心立なくてはなり難しと、再三感稱せられけり。 ○元和六年十一月、秀忠、宗茂に柳川の舊封を賜りて曰く、曩者に僻遠の小邑に封じ置きしかども怨みず愠らず、能く義命に安んじ居りし段、滿足せり、之に依り今度柳川の舊封を賜ふ間能く武備を修めよとなり、宗茂、落淚して其恩を拜せり。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 秀忠に道理を説く○大阪夏役、家康伏見より、本多正信を使にて、宗茂へ早々越され候樣に、とのことなり。其時正信に、秀忠年若なれば、律義にして功の入りたる年盛の者、相談の向ふ座になくては成らざるものなり、立花は左のみ心易くすべき者にはなけれども、弓箭執て功者なり、殊に物を變改せぬ氣立なれば、今度秀忠談合相手に致すべき趣、其方より申聞くべしとのことなり、宗茂には先に大阪に上りし故、伏見に參りし所、正信右の通申通ぜり。宗茂卽ち秀忠の前に出ければ委細の義は、佐渡守より相傳申べく候、今度福島、加藤其外毛利、淺野以下別條之有間敷や、加藤、福島は其方數年の舊友にて、心だても存じたるべしと思ふに付、尋ぬるとのことなり。宗茂、加藤、福島義別條之有間敷候、惣て太閤御取立の者共、先年其女房共を登城仰付られし後は、太閤にも內心の憤り之あり、某事太閤御恩淺からぬ身にて、只今箇樣の義あからさまに申上ぐることは如何なれども、一切の物は道理と申所之ある時は、一旦惡くしても、後は善きことに成り申なり、太閤の御子孫に向ひ、弓を彎き申こと、一身に取て憚に似て候へ共、關ヶ原合戰の刻まで、秀賴公の爲めには、旣に身命を捨て、家を潰し申たり。是太閤への報恩なり。其後生命の爲めに、御當家より少地にても賜はりし間、何樣御奉公仕るべく所存なり、御人數の內誰彼と申とすも、少しも御心置かれ間敷、太閤の御子孫斷絕の時節到來にて候と申す。重ねて太閤子孫斷絕の時節到來とは如何樣のことゝぞ尋らる。宗茂、最前申上る通に、物には凡て道理と申もの之あり候、太閤は信長の取立なりし所、信長の子孫を、或は死罪或は流罪に行はれたり、譬ば御當家太閤の御恩厚く蒙らせ給ふとも、太閤の非義子孫に報ふ所其遁れ有間敷候、况や御當家は少しも太閤の御恩御蒙りと申ことなければ、今度の御利運露程も御疑ひ有間敷と言ふ。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 秀吉の激賞○十四年七月、島津義久、岩屋を陷れ、使を立花に遣はし、懇に降るを勸む。宗茂、苟も義に背いて生きんよりは寧ろ死するに如かずと言ひ、城を普請して寄手を待居たり。島津方には、立花を攻むべしと言けれども、此間岩屋にて數千の軍兵打たれたり、重ねて立花へ寄せたらば、彼城要害なり、其上籠る所の兵も、岩屋より多ければ、容易く攻難しとて、立花を攻るに及ばず。寶滿は秋月種實隱居の城と定め、岩屋にも人數を籠置き、高島井の城を取り構へ、星野中務少輔吉實をぞ籠めたりける。八月、秀吉の先鋒追々渡海ありと聞えければ、義久、筑前の人數を引取りける。二十四日、島津勢陣拂して引退く所に、宗茂打出て、島津の勢を打敗る。明る二十五日、高鳥井の城に押寄せ、半時計りが内に攻破り、星野兄弟を打取りたり。秀吉、書を賜はり、其功を賞せらる。又黑田、宮木、安國寺へ賜はりし書には、立花は九州第一の者とぞ仰下さる。翌年四月、秀吉渡海あり、宗茂謁しければ、是までの軍功を一々に算へ仰せられて、手柄の上の手柄、誠に比類なき働なり、忠義の士、九州第一と言ながら、上方にも汝□の若者あるべしとも覺えずと、御感斜めならず、伺候の人々も是を承はり、羨まぬ者はなかりけり。頓て、太刀以下の品々賜はりて、薩摩への先陣を命ぜられけり。