名将言行録 / 『名将言行録』立花宗茂 秀忠に道理を説く
○大阪夏役、家康伏見より、本多正信を使にて、宗茂へ早々越され候樣に、とのことなり。其時正信に、秀忠年若なれば、律義にして功の入りたる年盛の者、相談の向ふ座になくては成らざるものなり、立花は左のみ心易くすべき者にはなけれども、弓箭執て功者なり、殊に物を變改せぬ氣立なれば、今度秀忠談合相手に致すべき趣、其方より申聞くべしとのことなり、宗茂には先に大阪に上りし故、伏見に參りし所、正信右の通申通ぜり。宗茂卽ち秀忠の前に出ければ委細の義は、佐渡守より相傳申べく候、今度福島、加藤其外毛利、淺野以下別條之有間敷や、加藤、福島は其方數年の舊友にて、心だても存じたるべしと思ふに付、尋ぬるとのことなり。宗茂、加藤、福島義別條之有間敷候、惣て太閤御取立の者共、先年其女房共を登城仰付られし後は、太閤にも內心の憤り之あり、某事太閤御恩淺からぬ身にて、只今箇樣の義あからさまに申上ぐることは如何なれども、一切の物は道理と申所之ある時は、一旦惡くしても、後は善きことに成り申なり、太閤の御子孫に向ひ、弓を彎き申こと、一身に取て憚に似て候へ共、關ヶ原合戰の刻まで、秀賴公の爲めには、旣に身命を捨て、家を潰し申たり。是太閤への報恩なり。其後生命の爲めに、御當家より少地にても賜はりし間、何樣御奉公仕るべく所存なり、御人數の內誰彼と申とすも、少しも御心置かれ間敷、太閤の御子孫斷絕の時節到來にて候と申す。重ねて太閤子孫斷絕の時節到來とは如何樣のことゝぞ尋らる。宗茂、最前申上る通に、物には凡て道理と申もの之あり候、太閤は信長の取立なりし所、信長の子孫を、或は死罪或は流罪に行はれたり、譬ば御當家太閤の御恩厚く蒙らせ給ふとも、太閤の非義子孫に報ふ所其遁れ有間敷候、况や御當家は少しも太閤の御恩御蒙りと申ことなければ、今度の御利運露程も御疑ひ有間敷と言ふ。
新字:○大阪夏役、家康伏見より、本多正信を使にて、宗茂へ早々越され候様に、とのことなり。其時正信に、秀忠年若なれば、律義にして功の入りたる年盛の者、相談の向ふ座になくては成らざるものなり、立花は左のみ心易くすべき者にはなけれども、弓箭執て功者なり、殊に物を変改せぬ気立なれば、今度秀忠談合相手に致すべき趣、其方より申聞くべしとのことなり、宗茂には先に大阪に上りし故、伏見に参りし所、正信右の通申通ぜり。宗茂即ち秀忠の前に出ければ委細の義は、佐渡守より相伝申べく候、今度福島、加藤其外毛利、浅野以下別条之有間敷や、加藤、福島は其方数年の旧友にて、心だても存じたるべしと思ふに付、尋ぬるとのことなり。宗茂、加藤、福島義別条之有間敷候、惣て太閤御取立の者共、先年其女房共を登城仰付られし後は、太閤にも内心の憤り之あり、某事太閤御恩浅からぬ身にて、只今箇様の義あからさまに申上ぐることは如何なれども、一切の物は道理と申所之ある時は、一旦悪くしても、後は善きことに成り申なり、太閤の御子孫に向ひ、弓を彎き申こと、一身に取て憚に似て候へ共、関ヶ原合戦の刻まで、秀頼公の為めには、既に身命を捨て、家を潰し申たり。是太閤への報恩なり。其後生命の為めに、御当家より少地にても賜はりし間、何様御奉公仕るべく所存なり、御人数の内誰彼と申とすも、少しも御心置かれ間敷、太閤の御子孫断絶の時節到来にて候と申す。重ねて太閤子孫断絶の時節到来とは如何様のことゝぞ尋らる。宗茂、最前申上る通に、物には凡て道理と申もの之あり候、太閤は信長の取立なりし所、信長の子孫を、或は死罪或は流罪に行はれたり、譬ば御当家太閤の御恩厚く蒙らせ給ふとも、太閤の非義子孫に報ふ所其遁れ有間敷候、況や御当家は少しも太閤の御恩御蒙りと申ことなければ、今度の御利運露程も御疑ひ有間敷と言ふ。
書き下し
○大阪夏役、家康伏見より、本多正信を使にて、宗茂へ早々越され候樣に、とのことなり。其時正信に、秀忠年若なれば、律義にして功の入りたる年盛の者、相談の向ふ座になくては成らざるものなり、立花は左のみ心易くすべき者にはなけれども、弓箭執て功者なり、殊に物を變改せぬ氣立なれば、今度秀忠談合相手に致すべき趣、其方より申聞くべしとのことなり、宗茂には先に大阪に上りし故、伏見に參りし所、正信右の通申通ぜり。宗茂卽ち秀忠の前に出ければ委細の義は、佐渡守より相傳申べく候、今度福島、加藤其外毛利、淺野以下別條之有間敷や、加藤、福島は其方數年の舊友にて、心だても存じたるべしと思ふに付、尋ぬるとのことなり。宗茂、加藤、福島義別條之有間敷候、惣て太閤御取立の者共、先年其女房共を登城仰付られし後は、太閤にも內心の憤り之あり、某事太閤御恩淺からぬ身にて、只今箇樣の義あからさまに申上ぐることは如何なれども、一切の物は道理と申所之ある時は、一旦惡くしても、後は善きことに成り申なり、太閤の御子孫に向ひ、弓を彎き申こと、一身に取て憚に似て候へ共、關ヶ原合戰の刻まで、秀賴公の爲めには、旣に身命を捨て、家を潰し申たり。是太閤への報恩なり。其後生命の爲めに、御當家より少地にても賜はりし間、何樣御奉公仕るべく所存なり、御人數の內誰彼と申とすも、少しも御心置かれ間敷、太閤の御子孫斷絕の時節到來にて候と申す。重ねて太閤子孫斷絕の時節到來とは如何樣のことゝぞ尋らる。宗茂、最前申上る通に、物には凡て道理と申もの之あり候、太閤は信長の取立なりし所、信長の子孫を、或は死罪或は流罪に行はれたり、譬ば御當家太閤の御恩厚く蒙らせ給ふとも、太閤の非義子孫に報ふ所其遁れ有間敷候、况や御當家は少しも太閤の御恩御蒙りと申ことなければ、今度の御利運露程も御疑ひ有間敷と言ふ。
現代語訳
大坂夏の陣のとき、家康は伏見から本多正信を使いにして、宗茂に早く来るようにと伝えた。そのとき正信に、秀忠は年が若いので、律義で経験を積んだ年配の者が、相談の向かいに座っていなくてはならない、立花は特に気安い者ではないが、弓矢を取っては熟達しており、ことに物事を変えない気質だから、今度は秀忠の相談相手にするよう、そなたから伝えよ、とのことであった。宗茂は先に大坂に上っていたので伏見に参ったところ、正信が右のとおりを伝えた。宗茂がすぐ秀忠の前に出ると、詳しいことは佐渡守から伝えさせるが、今度、福島、加藤、そのほか毛利、浅野以下に異変はあるまいか、加藤、福島はそなたの長年の旧友で、心根も知っていると思うので尋ねるのだ、と言われた。宗茂は、加藤、福島に異変はございますまい、およそ太閤がお取り立てになった者たちは、先年その妻たちに登城を命じられて以後、太閤に対しても内心の憤りがあり、私は太閤のご恩が浅くない身で、今このようなことをあからさまに申し上げるのはいかがかと思いますが、すべてのものは道理というものがあるときは、一旦悪くなってもあとでは良くなるものです、太閤のご子孫に向かって弓を引くことは、私一身にとっては憚りがあるようですが、関ヶ原の合戦まで、秀頼公のためには既に身命を捨て、家を潰しました。これが太閤への報恩です。その後は命ゆえに、当家から少しの領地でも賜りましたので、何としてもご奉公する所存です、お味方の内のだれかれとお疑いになって、少しもお心にかけられませぬよう、太閤のご子孫が絶える時節が到来したのです、と申し上げた。重ねて、太閤の子孫断絶の時節到来とはどういうことかと尋ねられた。宗茂は、先ほど申し上げたとおり、物にはすべて道理というものがございます、太閤は信長に取り立てられた身でありながら、信長の子孫を、あるいは死罪あるいは流罪にされました、たとえ当家が太閤のご恩を厚く蒙っていたとしても、太閤の非道が子孫に報いる運命は逃れられません、まして当家は少しも太閤のご恩を蒙ったことがないのですから、今度のご勝運は露ほどもお疑いになりますな、と言った。
解説

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