名将言行録 / 『名将言行録』立花宗茂 島津への情と義
○宗茂、柳川に歸る時、島津義弘も寡兵にて歸國せり。然るに島津は宗茂の爲めに、父の讐なりければ、宗茂家來討取るべき由囁きけるに、宗茂、折こそあらめ、今興稟して上方の味方をしながら寡兵にて歸るを見て、討取ること勇士のする所にあらずとて許さず。島津方にも用心の體見えければ、宗茂使を立て、兼ての遺憾少しも心に掛けず候、九州までの道すがら諸事心を合はすべきなりと言遣りければ、義弘大に喜び、歸國の後籠城せらるべくんは、加勢すべき由返答せり。宗茂、國に歸り楯籠りしが、終に和睦と成りて、城を明け渡せり。城を渡せし三日目に島津より新納山城に、一萬の兵付けて指出せしが、城を渡せし後なれば、空しく引歸りしとぞ。 ○宗茂、柳川に歸りければ、島津より、僧を使にし、種ケ島一島領さるべく、所々敵募り申さざる內に、薩摩に御越あるべき由申し來る。宗茂返事に、日來の御入魂御疏意なく忝く存ずるなり、併し、今度上方へ出勢の義、逆徒一味と申すにも之なく、若君より仰下されし趣に任せての事なれば、大阪、關東雙方の御成行次第、兎も角も罷成るべくと存究め罷在候、身の上をかばひ申程ならば、今度出勢致すべき所にては之なしと言はれけり。
新字:○宗茂、柳川に帰る時、島津義弘も寡兵にて帰国せり。然るに島津は宗茂の為めに、父の讐なりければ、宗茂家来討取るべき由囁きけるに、宗茂、折こそあらめ、今興稟して上方の味方をしながら寡兵にて帰るを見て、討取ること勇士のする所にあらずとて許さず。島津方にも用心の体見えければ、宗茂使を立て、兼ての遺憾少しも心に掛けず候、九州までの道すがら諸事心を合はすべきなりと言遣りければ、義弘大に喜び、帰国の後籠城せらるべくんは、加勢すべき由返答せり。宗茂、国に帰り楯籠りしが、終に和睦と成りて、城を明け渡せり。城を渡せし三日目に島津より新納山城に、一万の兵付けて指出せしが、城を渡せし後なれば、空しく引帰りしとぞ。 ○宗茂、柳川に帰りければ、島津より、僧を使にし、種ケ島一島領さるべく、所々敵募り申さざる内に、薩摩に御越あるべき由申し来る。宗茂返事に、日来の御入魂御疏意なく忝く存ずるなり、併し、今度上方へ出勢の義、逆徒一味と申すにも之なく、若君より仰下されし趣に任せての事なれば、大阪、関東双方の御成行次第、兎も角も罷成るべくと存究め罷在候、身の上をかばひ申程ならば、今度出勢致すべき所にては之なしと言はれけり。
書き下し
○宗茂、柳川に歸る時、島津義弘も寡兵にて歸國せり。然るに島津は宗茂の爲めに、父の讐なりければ、宗茂家來討取るべき由囁きけるに、宗茂、折こそあらめ、今興稟して上方の味方をしながら寡兵にて歸るを見て、討取ること勇士のする所にあらずとて許さず。島津方にも用心の體見えければ、宗茂使を立て、兼ての遺憾少しも心に掛けず候、九州までの道すがら諸事心を合はすべきなりと言遣りければ、義弘大に喜び、歸國の後籠城せらるべくんは、加勢すべき由返答せり。宗茂、國に歸り楯籠りしが、終に和睦と成りて、城を明け渡せり。城を渡せし三日目に島津より新納山城に、一萬の兵付けて指出せしが、城を渡せし後なれば、空しく引歸りしとぞ。 ○宗茂、柳川に歸りければ、島津より、僧を使にし、種ケ島一島領さるべく、所々敵募り申さざる內に、薩摩に御越あるべき由申し來る。宗茂返事に、日來の御入魂御疏意なく忝く存ずるなり、併し、今度上方へ出勢の義、逆徒一味と申すにも之なく、若君より仰下されし趣に任せての事なれば、大阪、關東雙方の御成行次第、兎も角も罷成るべくと存究め罷在候、身の上をかばひ申程ならば、今度出勢致すべき所にては之なしと言はれけり。
現代語訳
宗茂が柳川に帰るとき、島津義弘も少ない兵で帰国しました。ところが島津は、宗茂にとっては父の仇でしたので、宗茂の家来が討ち取るべきだとささやきました。宗茂は、時もあろうに、今、ともに上方の味方をしながら、少ない兵で帰るのを見て討ち取るのは、勇士のすることではないと言って、許しませんでした。島津方にも用心の様子が見えたので、宗茂は使者を立てて、かねてからの遺恨は少しも心にかけていません。九州までの道すがら、何事も心を合わせましょう、と言ってやりました。義弘は大いに喜び、帰国の後、籠城なさるのであれば、加勢いたしますと返答しました。宗茂は国に帰って立てこもりましたが、ついに和睦となり、城を明け渡しました。城を渡して三日目に、島津から新納山城に一万の兵を付けて差し出しましたが、城を渡した後でしたので、むなしく引き返したということです。 宗茂が柳川に帰ると、島津から僧を使者として、種子島一島を領されるように、所々の敵が募らないうちに薩摩にお越しください、と言ってきました。宗茂は返事をして、日頃のご入魂とご配慮をかたじけなく存じます。しかし今度、上方へ出兵したのは、逆徒の一味ということではなく、若君から仰せ下された趣に任せてのことですので、大坂、関東双方の成り行き次第で、どうとでもなろうと覚悟しております。身の上をかばうというなら、今度出兵すべきではありませんでした、と言われました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 恩賞の誘いを断る○加藤清正、黑田孝高、薩摩の內まで出陣の所、家康より、島津事先達て味方に參るべきの由申越たる間、兩家の人數を引入候樣にと申來りし故、各歸陣なり、此時清正、宗茂に申すは薩摩表へ出陣に付貴殿にも御娛みがてら御同道致度なり、人數を召連られ候はゞ、夫々に知行等、賜はらずしても成り難ければ、玉名郡殘らず、御支配成さる樣にとの義なり、宗茂曰く頃日まで別心なき島津に、某只今の仕合に罷成りしとて、何故合戰の用意致すべく候哉、少しにても關東の忠節振を致すべしとの義に候哉、左樣の義努々存寄り之なく候、且つ玉名郡支配の義、上より賜はりなば兎も角も、貴殿より賜はりては、肥後一國にても、受納致間敷と云はれけり。 ○宗茂、京、伏見の間に浪遊して居たりしが、朝夕の料理等も、時に寄り殊の外差支へり。或時すべき樣なく、雜水を拵へ出しければ、入らざる汁掛け飯にして、出さずとも、只出させと言はれければ、近臣覺えず、涙を流せり。此頃前田利長より加賀へ越されなば、十萬石進んずべくとのことなり。宗茂、兎角の返事もせず、惡い奴共が腰は拔けながら、色々の事を申すと言はれければ、取次ぎし者、殊の外迷惑せりとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 助命嘆願と官位の辞退○此時、宗茂、和爾江遍原と曰ふ者を攻む。會々秀吉筑紫下向に付、宗茂より使を以て城中へ申入れけるは、今度某は太閤へ目見に出候間、其中は城攻を見合せ候に付、其方よりも手前殘し置候者に、手指致さる間敷候、彌々其意を得られ候はゞ、兩人義は太閤へ申上、助命致すべし、併し當時鍋島も寄手なれば、某不在の內、鍋島攻められ落城の程心許なく候と申遣はせり。城より返事に、委細承り候御不在中殘し置かれ候者に、手指致す間敷候、太閤へ仰上られ、我等共命を御助け之あるべきとの義、其意を得候、只今まで籠城致し、一戰をも遂げず候段殘念に存候間、降參候事は存寄らず候へ共、天下へ對しての義、各別のことに候間、如何樣にも仕るべく候、其中鍋島攻め申分にては、中々落城致す間敷由、申越せり。偖宗茂、秀吉へ謁見相濟み、兩人の事を言上して、助命を乞ふ。秀吉聽かず、宗茂頻りに乞ふ。秀吉、淺野長政をして、宗茂を諭さしむ。宗茂、兩人のこと御赦免之なく候はゞ、私どもを御成敗下され度、と强て乞ふに依り、秀吉も是非なく、兩人の罪を免されけり。 ○十六年、宗茂上京す。秀吉、羽柴の族を賜はり、四位の侍從に敍任せらるべしとありければ宗茂承はり、昇殿を許さるゝこと今生の思ひ出にて候、去ながら、大友義統未だ五位にて罷在れば、彼を超申さんこと本意にあらず、仰ぎ願くば只五位に叙せられかしと望み申ければ、神妙の志なり、暫らく五位にて置かれしが、頓て四位に叙せられけり。
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名将言行録・『名将言行録』島津義弘 敵中を突破して帰国○十五日、西軍大崩の際に當り、義弘、東軍と壘戰し、殺傷する所甚だ多し。然れども、衆寡敵せず、既に討死せんとしけるに、中務大輔豐久、義弘を諫め、我身は取て返し時移るまで戰て討死す、義弘希有に死を出でて、家康の陣に、郎等河上四郎兵衞忠元を遣はし、此度義弘思はずも御敵となりしこと、年來の御芳志を忘れたるに似たり、尤も是入道が本意にあらず候、今御陣頭を罷り過ぎ候に依て、使者を參らせて候、委きことは歸國の後陳謝し申べき所なりと言捨てゝ、道遁らんとせし野伏原を一々に蹴散して近江の甲賀に掛り、老翁一人道知るべさせ、奈良に出づ。是より彼老翁には、刀に差副へし金龍の笄を與へ、是を印に必ず薩摩に來れ、今度の勞に報ぜんとて歸し、夫より大坂に至り、毛利輝元、增田長盛に、是まで切拔け參りたり、秀頼公御籠城遊ばされんには、我等も籠り申べきとなり。兩人より返事に、無事に御引退き目出度候、秀頼公御籠城の御心掛之なく候間、早々國元へ越され候へと申來りし故、大坂に在りし父子の妻子を始め、悉くに取て船五十餘艘に乘取り、日向國に着きにけり。其後彼老翁、薩摩に行かばやと思へども、道遠ければ、空く過ぎしに、程經て人に誘引せられ、鹿兒島に行て笄を出しければ、義弘大に喜び、など疾く來らざりしぞとて様々饗し、黄金若干與へ、誘引せし人にも、黄金與へて、人を副へて返されけり。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 領民に慕われた開城○加藤清正扱にて、宗茂開城し、瀨高門を出る時、庄屋百姓百四五十人路を遮り出て、如何樣のこと之あり候とも、御下城遊ばさるゝこと御無用に存奉るなり、筑後四郡の百姓共、今度の義に御座候間、一命を差上げ申こと侍中へも少しも劣り申間敷、箇樣申上ぐるに御承引なく御出之あるとも、全く出し奉る間敷由、聲を揃へ申ければ、宗茂馬より下り、何れも申聞けゝる所、滿足なり、領內の諸人の爲めに、下城致すなり、少しも替はりたることに之有間敷候間、何れも心易く存ぜよと言はれければ、百姓共聲を揚げて泣けり。宗茂左樣に皆々が申如く致しては、却て我爲め宜しからず候間、皆々歸れ〳〵と言はれければ、何れも泣々く路を開きけり。再び本領を賜はり、入部せし時、何れも呼出し、夫々に辭を掛けしとぞ。宗茂の民心を得る率ね是類なり。 ○宗茂城を出て清正と挨拶せし時、常に少しも替はらず、清正の□流石立花殿なり、如何なる強氣の大將にても、侍にても少しは氣後れするものなるに、平生よりも見事なる取廻はしなりと言て、人皆感じあへり。